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欺瞞と利益誘導に堕しつつある「奨学金批判」- まず大学職員や官公労がカネを出さなければ、単なる偽善に

2014-06-25 | いとすぎから見るこの社会-格差の拡大
反貧困運動の通弊として「経済リテラシーがない」
「根本問題を糊塗した責任転嫁が多い」ことが挙げられるが、
大学奨学金批判もお決まりのコースを辿りつつあるようだ。

奨学金批判でも、大竹文雄・阪大教授が何年も前に指摘した
「弱者と既得権層の政治同盟」が生じつつある。

何故なら、奨学金批判の先鋒が私立大学の教員で、
公費投入によって利益を得る集団の一員だからだ。

日本の私立大学は、人口減と文科省の失政でこれから確実に消滅・破綻が増える。
今ですら生徒の集まらない大学の教員が募集に駆り出されてふうふう言っている状況だ。
公費を投入して貰わないと大学職員は厚待遇を失い、路頭に迷う可能性が高い。

そもそも何故、大学の学費が高騰しているか彼らは調べていない。
大学の学費は半分以上が人件費である。
つまり人件費が高騰しているから奨学金の返済負担が重くなっているのである。
理系は研究関連費も大きいが、それはまず教員や学生にとっての便益になる。

更に、官公労がこの奨学金批判を取り上げるのは「自爆」行為に近い。
正規公務員が実質的に大企業並みの待遇であるのは公然の事実であり、
非正規公務員と比較すると「差別」としか言いようのないフリンジベネフィットを得ている。
一般国民から見れば限りなく特権層に近い。

また公務の者が公立学校など公費を人一倍活用しているのは周知の事実である。
(賢いと言えば賢いのだが、事実は有権者に公開すべきである)
未来世代に借金を負わせて(=巨額の国債発行)自らの便益にしている現実は明白だ。

官公労が、利権化している退職金の税控除を大幅縮小して、
給付型奨学金に予算移転して欲しいと主張するのなら素晴らしいが、
断言してもいい。彼らはそうしない。行動するとしても言い訳程度で終わる。

 ↓ 参考

トヨタ社員より高給取りの佐賀県教職員、給与減額を不満として提訴 - 納税者も貧困層も完全無視か
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/e12d28592c9e82446ef2fb058ea1ffb4

地方公務員に毎年3兆円超の退職金給付、なぜ課税強化しないのか - 今後20年間で62兆円以上に達する
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/ae4eaf97d3de716d5616acc0aacc8d8c

当ウェブログの指摘した通りの展開である。

「当ウェブログは原理主義的な反格差・格差是正派を批判し、
 互いに助け合わず他人にカネを出させようとする低所得層にも責任の一端があること、
 また、日本が元々平等を好まない、格差肯定の社会である事実を指摘した」

「多くの日本人には非常に悪い癖があり、立場や状況が変わると主張も180度変わる。
 かつて佐藤俊樹・東大教授がいみじくも指摘したように
 「勝てば自分のおかげ、負ければ社会の責任にしたい」のである」

「私立大よりも国公立大の方が格差が大きい。
 つまり高所得者の方が多額の税金を利用して高等教育を受けているということだ」

「もしこれが本当であれば、国公立大学の学費を親の所得によって決めるか、
 所得税を数%引き上げて給付型奨学金に充当する政策が必要である」

「他人に責任転嫁する低所得層にも格差拡大を助長する要因がある。
 反格差論の一層の退潮と再度の経済格差拡大は不可避であり、
 派遣問題のような「火薬庫」が必ずや肥大して炸裂するであろう」

 ↓ 参考

高所得家庭の国公立大進学率が上昇、私立大学以上に大きい格差 - 再び格差軽視・拡大の時代に入った
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/720b00effe9b7fa7a169d762e4b8c6db

ついでに言えば、教育において予算制約が強いのは、高齢化と
シルバー・ポリティクスが主因である。以下の著書を参照のこと。

▽ 高齢化が進むと高齢者向け社会保障給付が増え、教育予算が減額される

『格差と希望―誰が損をしているか?』(大竹文雄,筑摩書房)


▽ 経済停滞でも高齢者向け給付は増え続けている一方、教育費負担は重くなる一方だった

『日本の景気は賃金が決める』(吉本佳生,講談社)


「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会―― 「自分の子どもさえ良ければ」を乗り越えられるか(井上伸 | 国家公務員一般労働組合執行委員、国公労連書記、雑誌編集者)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140613-00036318/
”「奨学金問題対策全国会議」の共同代表をされている中京大学教授・大内裕和さんの指摘を紹介します。(※大内さんご本人に了承を得た上での紹介です)

「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会
〔中略〕
 現在までのところ、日本では大学の学費は「親負担」が原則となっている。ということは、大学の学費や奨学金について、学生が「自分で何とかする」=「自己責任」の領域として扱うのは不適当である。なぜなら「奨学金を借りる」要因のほとんどは、本人にではなく、「親の経済力」にあるからだ。多額の奨学金を借りる理由は本人にではなく、親の経済力が不足していることに原因があるのだから、それを学生本人が返すのが「自己責任」だと言い切れるだろうか。逆に言えば、「奨学金を借りない」学生は、本人が「借りない努力」をしたわけではなく、「親の経済力」にめぐまれていたからにすぎない。彼らだけが卒業後に苦労しない「特権」を手にしてよいのだろうか。奨学金返済困難の理不尽さは、「経済力のある親」の子どもは苦労せず、「経済力のない親」の子どもは苦労を強いられる「格差」にある。
 私立大学の学生が奨学金制度の改善を求めるデモに参加したことに対して、「そんなにお金がないなら国立大学に行け」という書きこみが大量にあった。しかしそこには、私立大学よりも入学難易度の高い国立大学には、塾などの学校外教育費を支払える「相対的に」豊かな家庭の出身者が入学しやすいという事実への認識が欠落している。大学入学は努力だけで決まるのではない。努力を支える家庭の「経済資本」や「文化資本」が大きな影響を与えていることは、これまでの教育研究が余すところなく明らかにしている。
 「日本は資本主義の国だから、格差があるのは当然だ」という書き込みも、論点をはずしている。奨学金を充実することは「結果の平等」を求めるものではなく、「教育機会の均等」→「スタートの平等」につながるからだ。
 壁となっているのは社会に蔓延する「教育の私費負担」と「努力主義」の弊害だ。1970年代から約40年間、学費が高くなって長い時間がたち、塾や予備校などの学校外教育機関に「私費」を投じることが当たり前になったことによって、教育費を家計が負担するということが、「親の経済力によって子どもの受ける教育の質が異なる」→「生まれながらの差別」という根本的な不公正を生んでいることが見えなくなっている。
 戦後経済成長を支えてきた「努力すれば何とかなる」という努力主義が、努力しようと思ってもできない「不平等」や「不公正」を見えなくさせている。努力することは確かに美徳だ。しかしそれが努力を支える条件への視点を欠落させた「努力主義」となった時、新自由主義の「自己責任」を無批判に受容するイデオロギーとなってしまう。
 奨学金の運動を広げることで、教育への「私費負担主義」と「努力主義」の問題性を明らかにし、「生まれながらの差別」に鈍感な社会を変えて行きたい。

「自分の子どもさえ良ければ」を乗り越えられるか
 急速な授業料の上昇と奨学金の有利子化の背景には、「教育への公的支出の抑制」がある。大学の費用については、1980年頃までは「公的支出>家計負担」であったのが、1980年代前半から「公的支出<家計負担」となり、2000年以降は家計負担が公的支出の約2倍となっている。そのため、子どもが大学生の家庭では、その期間は貯蓄率がマイナスになるデータが出ている。子どもが小さい時にせっせと貯金をして(あるいは学資ローンを組んで)、大学入学後にその貯蓄を取り崩すのが、日本の家族の平均像である。
 これほど膨大な家計負担になっているにも関わらず、教育に投入する税金を増額すべきだという議論は、なかなか盛り上がらない。税金を活用して「すべての子どもに教育機会を」と考えるのではなく、なるべく税金を減らして、自分の子どものためだけにお金を使いたいと考えている親が多いからだ。「教育熱心な家庭」というが、それは「自分の子どもさえ良ければ」=「自己チュー」を意味していることが多い。
 こんな「自己チュー」社会をもたらした最大の責任は、教育予算を削減してきた政府・財界支配層にある。しかし、その一方で「自分の子どもさえ良ければ」と子どもの学費や塾代には関心をもっていても、政府の教育予算には関心をもたなかった私たち一人ひとりのあり方問われているのではないだろうか。
 有利子奨学金の無利子化や給付型奨学金の導入のためには、教育への税金投入の増加が絶対に必要だ。教育予算を削減してきた政府・財界支配層への批判を行うと同時に「自分の子どもさえ良ければ」を私たちが乗り越えられるかどうかが課題だと思う。【大内裕和中京大学教授 2013年8月執筆】”

給付奨学金が必要、税負担増が必要という点では良識的だが、
結果的に私立大学への利益誘導を図っていることは全く自覚していないし、
そもそも大学教育が個人の便益(=所得増)に直結するという事実を無視している。

当ウェブログは給付奨学金の必要性は認めるが、
公費濫用を避けるため成績や成果へのコミットが絶対に必要と考える。

就職パワーが弱い文系大学院に進んで奨学金を借りるといった、
費用対効果の著しく低い事例には非常に危機感を覚える。
直接雇用を生み出す資格関連への給付の方が遥かにましである。

また、大内教授は「自分の子どもさえ良ければ」以上の大問題である、
致命的な「福祉給付ばかり求めるシルバー民主主義」を理解していない。

▽ 高齢層(特に男性)は育児や教育に著しく無関心で、自分への福祉給付ばかり求める

『なぜ日本経済はうまくいかないのか』(原田泰,新潮社)


しかも医療でも教育でも、日本は格差に肯定的な社会である。この事実は動からない。
今の日本は一部の高齢層に異常に資産が偏在しており、彼らは教育にカネを出さない。

 ↓ 参考

日本国民は平等が大嫌い -「高所得者はよりよい医療を受けられるべき」と回答する比率、先進国で最高
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/0e1f4b8d755b7df19044b9d3937d38f8


教育の平等、細る期待 格差容認、各層で増加 朝日新聞社・ベネッセ保護者調査(朝日新聞)
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303200502.html
豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは「やむをえない」。朝日新聞社とベネッセ教育研究開発センターの共同調査では、全国の公立小中学校の保護者でそんな考えを持つ人が増え、過半数を占めていた。〔以下略〕”

この朝日報道のように、日本人は転落した弱者に冷淡だ。
自分の家族をより優先する傾向が非常に強い。
弛緩した独善的な「上から目線」の奨学金批判では、この「岩盤」がびくともしないであろう。
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