奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

賀名生皇居跡

2008年03月31日 | 文化財
 南朝の皇居として使われた屋敷です 撮影日;2008.3.18

 延元元年(1336)12月、後醍醐天皇は吉野への途次、堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました
 正平3年(1348)、後村上天皇が吉野より難を逃れ入邸しています
 さらにこの邸宅は、長慶、後亀山天皇の皇居と伝えられています

 全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています

 縁側には楠木正行の陣鐘が置かれます
 堀家には、天皇方の軍の標章にされた日本最古の日章旗(縦96cm、横71cmの日の丸)、三社神御旗、鷹羽印籏、笛、駅鈴などが残っています 

★所在地;五條市西吉野町和田
★交通;JR五条駅より 十津川方面行きバスで賀名生和田北口下車 徒歩5分
★駐車場;
★見学料;300円
★開館日;2月~3月上旬・11月1日~8日
 往復葉書で〒637-0116奈良県五條市西吉野町和田48 堀元夫様へ申し込んでください
★問合せ;0747-32-9010(賀名生の里歴史民俗資料館)

 「賀名生皇居」の扁額は天誅組の参謀吉村寅太郎の筆によるものです

 昔この地は、「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統てありたいと「叶名生(かなう)」と名付けられました。正平6年(1351)10月足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなう」と呼ばれていましたが、明治の初めになって呼び方を「あのう」に統一しました


 門前のシダレザクラは、3月下旬になると見事な花を咲かせます

 賀名生梅林への入口近くに有ります


賀名生梅林

2008年03月30日 | 名所
 月ヶ瀬梅渓、広橋梅林とともに奈良県の三大梅林です 撮影日;2008.3.18

 2月下旬から3月下旬にかけて
 北曽木の丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が咲き誇ります

 口の千本、一目1万本、西の千本、奥の千本などの景勝ポイントがあります 

★所在地;五條市西吉野町北曽木
★交通;JR五条駅より 十津川方面行きバスで賀名生和田北口下車
★駐車場;有料・無料P点在しています
★入場料;見学自由
★問合せ;0747-22-4001(五條市役所商工観光課)、0747-33-0301(五條市西吉野支所地域振興課)

 700年前の南北朝時代に都を追われた公家たちによって賀名生の梅の花が歌に詠まれています

 明治10年頃から果実の収穫を目的として栽培され始め
 大正12年東宮殿下の御成婚を記念して5千本の苗が植えられたそうです
 
 富有柿の特産地としても有名です


 参考;五條市のページ

纏向遺跡

2008年03月28日 | 遺跡
 邪馬台国畿内説の最有力候補地です 撮影日;2006.1.15 

 遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び、面積は300万㎡に達します
 古墳時代の始まりを告げる遺跡です

 唐古・鍵遺跡の約10倍の規模をもち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で
 都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されています

★所在地;桜井市巻野内・箸中・太田・他
★交通;JR巻向駅下車 徒歩
★問合せ;


 遺跡内には箸墓古墳をはじめ、纒向石塚古墳勝山古墳矢塚古墳東田大塚古墳ホケノ山古墳等が有ります

 【主な遺物】
 朱色に塗った鶏形木製品・弧文円板と呼ばれる木の埴輪・絹製の巾着袋・瓦質土器(1996年に発見)・ミニチュアの舟・木製鏃・搬入土器・石見型楯形木製品・等

 参考;桜井インターネット研究会のページ邪馬台国大研究のページ

塔の森六角石塔

2008年03月27日 | 石造物
 奈良時代の六角石塔です 撮影日;2008.3.11 

 かつては、二重基壇の上に建つ六角十三重石塔でしたが
 現在は、六重の笠石が重ねられています
 春日石と呼ばれる柔らかい石で造られているため、風化破損が甚だしく、周囲には断片が散乱しています  

★所在地;奈良市長谷町
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで田原横田下車 徒歩60分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)

 台座、笠石すべてが平面六角の形式も珍しく、奈良時代ただ1つの十三重六角石塔で
 正倉院に同型のミニチュア模型があります


 国見山山頂から、徒歩25分ぐらいの標高660mの山中に「塔の森」があります

南田原磨崖仏

2008年03月26日 | 文化財
 通称切りつけ地蔵とも言われます 撮影日;2008.3.11 

 花崗岩の崖面の中央に「阿弥陀如来立像」、向かって右に「弥勒菩薩立像」
 左下に「六地蔵菩薩」が刻まれています

 奈良市指定文化財となっています

★所在地;奈良市南田原町
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで田原横田下車 徒歩15分
★駐車場;2~3台可能
★入場料;見学自由
★問合せ;0742-34-1111(奈良市教育委員会)

 「阿弥陀如来立像」は、鎌倉時代の作
 丸彫りに近い立体感のある豊かな表現を見ることが出来、同時代の石仏の中でも優れた作品です
 銘文から元徳3年(1331)東大寺の宗詮が願主になって、伊行恒が彫ったものです
 東大寺再興の為、建長5年(1253)頃宋から来日し、当時大和を中心に活躍していた伊派の作です

 その昔、剣豪が刀の試し切りをしたと伝わる傷が有ります



奈良県へリポート

2008年03月25日 | 名所
 誰でも利用できる公共用ヘリポートです 撮影日;2008.3.11

 平成10年12月12日開港

 県防災航空隊と民間用の格納庫が設置され
 救急医療・防災・警察活動をはじめとする行政サービスの向上と
 民間を含めた多目的な利用が期待されています 

★所在地;奈良市矢田原町2446
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで県へリポート前下車 徒歩すぐ
★駐車場;30台
★問合せ;0742-81-0501(県へリポート管理事務所)

 現在国内における公共用ヘリポートは22ヶ所、非公共用ヘリポートは82ヶ所
 公共用として奈良県ヘリポートは22番目です

 県の東部山間の標高453.5mに位置し、県道奈良名張線の鉢伏峠を越えたところに位置しています


 参考;奈良県へリポートのホームページ

光仁天皇陵

2008年03月24日 | 
 志貴皇子の息子(天智天皇の孫にあたる)白壁王の御陵です 撮影日;2008.3.11

 第49代光仁天皇の陵「田原東陵」として宮内庁が管理しています 

 径45m・高さ6.5mの三段築成の円墳で幅7mの空濠があります
 「塚ノ本古墳」「王の墓」とも呼ばれていました
 墳丘内に石灯籠が有るようです

 光仁天皇(別名:白壁王、天宗高紹天皇)は、62歳で皇位を継承
 天応元年(781)12月23日、73歳で崩御
 翌年広岡山陵に葬られ、延暦5年(786)に田原陵に改葬されました

★所在地;奈良市日笠町王ノ塚
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで田原大野下車 徒歩10分
★駐車場;8台程度
★入場料;参拝自由
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)

 西へ8分ほどの所に「太安万侶墓」が有ります



春日宮天皇陵

2008年03月23日 | 
 天智天皇の皇子・志貴皇子の御陵です 撮影日;2008.3.11

 志貴皇子は実際に即位していませんが、霊亀元年(715)に亡くなり
 55年後に息子の白壁王が天皇として即位した為、春日宮天皇と追号されました
 田原天皇とも称されます

 径57m、高さ11.5mの円墳形
 元治元年(1864)に補修されています 

★所在地;奈良市矢田原町字西山
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで田原御陵前下車 徒歩すぐ
★駐車場;有りません(2台程度可能)
★入場料;参拝自由
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)

 陵の入り口付近に、志貴皇子の詠んだ万葉歌の碑が建てられています
 「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」


 周りに茶畑が広がります

 両側に石積みされた細長い参道が印象的です

太安萬侶の墓

2008年03月22日 | 史跡
 茶畑の中に有ります 撮影日;2008.3.11 

 昭和54年1月23日に
 「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
 と刻まれた墓誌が出土しました⇒太安萬侶墓の墓誌の画像

 墳丘は径約4.5mの円墳
 
 昭和55年2月19日国の史跡に指定されました
 
★所在地;奈良市此瀬町
★交通;近鉄奈良駅より
    水間方面行きバスで田原横田下車 徒歩15分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)

 案内板転載
史跡 太安萬侶墓
 太安萬侶墓は、東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓である。昭和五四年一月、竹西英夫氏によって茶の改植中に発見されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者として有名な太安萬侶の墓であることが明らかになった。墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年(七二三年)十二月乙巳」の四一文字が刻まれ、居住地、位階と勲等、死亡年月日、埋葬年月日を記してある。
 墳丘は直径四・五メートルの円墳と推定され、埋葬施設は中央部に墓拡(?)を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置きその上に木櫃(きびつ)を安置し、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらに、その上の墓?全体にうすく木炭を敷いた後、砂質土を版築状に硬くつき固め、木櫃の中には火葬骨、真珠等が収めてあった。
 奈良時代上級官人の墓としては、このように規模、構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は極めて稀であり、昭和五五年二月一九日史跡に指定された。
 昭和五六年十一月 奈良県教育委員会




飛鳥池遺跡

2008年03月17日 | 遺跡
 7世紀後半~8世紀初めの飛鳥時代の遺跡です 撮影日;2007.4.9

 万葉文化館の建設にともない、平成9年(1997)から発掘調査がおこなわれ
 面積約9500m²の遺跡から7世紀後半の石組み方形池遺構、石敷き井戸跡のほか
 金・銀・銅・鉄・ガラス工房と思われる遺構やるつぼ、金属製品などの遺物
 7500点以上の木簡、大量の土器類が出土しました 

★所在地;高市郡明日香村飛鳥10
★交通;近鉄橿原神宮前駅より
    バスで万葉文化館西口下車 徒歩すぐ
★駐車場;有ります(有料500円)
★入場料;一般600円
★休館日;水曜日
★開館時間;10:00~17:30
★問合せ;0744-54-1850(奈良県万葉文化振興財団)

 遺物の中に純度100%の金があることから、朝鮮半島産から輸入したと考えられ
 この地が古代最大の生産工房だったと推定されます

 1998年に、日本最古の「天皇」銘や天武朝と思われる「丁丑年(ていちゅうねん=677年)」銘のある木簡が発見されました
 天皇銘木簡は、国家元首の呼び名がこの時点で大王(おおきみ)から天皇になっていたことを証明する超一級の史料といわれます

 1999年1月に、33枚の富本銭が、7世紀後半の土層から出土しました

 2001年春に、南に接する酒船石遺跡との境界付近で鉄製品を鋳造した炉跡がみつかりました


 飛鳥池遺跡は1950年代に発掘された飛鳥寺跡に隣接し
 飛鳥浄御原宮跡と推定される飛鳥板蓋宮跡伝承地の北東500mの地点にあります

 安居院「飛鳥寺」酒船石飛鳥京跡