南朝の皇居として使われた屋敷です 撮影日;2008.3.18
延元元年(1336)12月、後醍醐天皇は吉野への途次、堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました
正平3年(1348)、後村上天皇が吉野より難を逃れ入邸しています
さらにこの邸宅は、長慶、後亀山天皇の皇居と伝えられています
全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています
縁側には楠木正行の陣鐘が置かれます
堀家には、天皇方の軍の標章にされた日本最古の日章旗(縦96cm、横71cmの日の丸)、三社神御旗、鷹羽印籏、笛、駅鈴などが残っています
★所在地;五條市西吉野町和田
★交通;JR五条駅より 十津川方面行きバスで賀名生和田北口下車 徒歩5分
★駐車場;
★見学料;300円
★開館日;2月~3月上旬・11月1日~8日
往復葉書で〒637-0116奈良県五條市西吉野町和田48 堀元夫様へ申し込んでください
★問合せ;0747-32-9010(賀名生の里歴史民俗資料館)
「賀名生皇居」の扁額は天誅組の参謀吉村寅太郎の筆によるものです
昔この地は、「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統てありたいと「叶名生(かなう)」と名付けられました。正平6年(1351)10月足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなう」と呼ばれていましたが、明治の初めになって呼び方を「あのう」に統一しました
門前のシダレザクラは、3月下旬になると見事な花を咲かせます
賀名生梅林への入口近くに有ります
延元元年(1336)12月、後醍醐天皇は吉野への途次、堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました
正平3年(1348)、後村上天皇が吉野より難を逃れ入邸しています
さらにこの邸宅は、長慶、後亀山天皇の皇居と伝えられています
全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています
縁側には楠木正行の陣鐘が置かれます
堀家には、天皇方の軍の標章にされた日本最古の日章旗(縦96cm、横71cmの日の丸)、三社神御旗、鷹羽印籏、笛、駅鈴などが残っています
★所在地;五條市西吉野町和田
★交通;JR五条駅より 十津川方面行きバスで賀名生和田北口下車 徒歩5分
★駐車場;
★見学料;300円
★開館日;2月~3月上旬・11月1日~8日
往復葉書で〒637-0116奈良県五條市西吉野町和田48 堀元夫様へ申し込んでください
★問合せ;0747-32-9010(賀名生の里歴史民俗資料館)
「賀名生皇居」の扁額は天誅組の参謀吉村寅太郎の筆によるものです
昔この地は、「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統てありたいと「叶名生(かなう)」と名付けられました。正平6年(1351)10月足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなう」と呼ばれていましたが、明治の初めになって呼び方を「あのう」に統一しました
門前のシダレザクラは、3月下旬になると見事な花を咲かせます
賀名生梅林への入口近くに有ります