奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

高山塚二・三・四号古墳

2008年02月29日 | 古墳
 いずれも30m前後の円墳だったようです 撮影日;2008.2.19 

 【高山塚二号古墳】

 現在では東西16m・南北18mの規模になっていますが
 元は35m程度の円墳で、周濠が巡ることが確認されています

 周濠部からは人物埴輪や動物埴輪の一部が出土しました

 発掘調査の結果に基づき、西側には墳丘保護のために盛土を施し、墳丘をレンガで表示しています


 【高山塚三号古墳】

 二号墳の南、道路を挟んで保育所の一角に有ります

 東西18m・南北20m、保育所のプールのある場所に周濠が確認され
 元は径30mの円墳で周濠が巡っていたようです

 周濠部から滑石製勾玉が出土しています


 【高山塚四号古墳】

 二号墳の西約100mの位置で、道路と民家の間にかろうじて墳丘らしい姿をとどめています

 現状では、東西18m、南北12m程度の古墳ですが、おそらく30m程度の円墳だったようです

 かつて、埴輪、須恵器等が出土したようです

★所在地;北葛城郡河合町穴闇字中良塚・字畑ノ前
★交通;近鉄池部駅より 徒歩15分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-57-0200(河合町役場)


 中良塚古墳「高山塚一号墳」が、すぐ東側に有ります

中良塚古墳「高山塚一号墳」

2008年02月28日 | 古墳
 大塚山古墳郡に属する小規模な前方後円墳です 撮影日;2008.2.19 

 全長約88m、後円部径約45m、同高6.5m、前方部幅約50m、同高6.5m

 葺石・埴輪列はあったようですが
 墳丘は畑に開墾されていたそうで、後円部の一部が破壊されています

 埋葬施設は未調査で不明

★所在地;北葛城郡河合町穴闇字中良塚
★交通;近鉄池部駅より 徒歩15分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-57-0200(河合町役場)

 周壕は盾形で西側が残っています、くびれ部で幅約20mを測ります

 「中良塚」(なからづか)の名は「穴闇の塚」を意味する「ナグラヅカ」?


 南東に大塚山古墳が有ります
 西側に高山塚二・三・四号墳があります

川合大塚山古墳

2008年02月27日 | 古墳
 中期古墳としては、大和では最大の規模です 撮影日;2008.2.19 

 全長215mの前方後円墳です
 後円部径108m、高さ15.8m、前方部幅123m、高さ16.9m

 三段築成で葺石・埴輪列がありました
 後円部頂上に窪みがあり、周辺に石材が散乱していて、竪穴式石室があったようです

 築造時期は5世紀中頃から後半

 大塚山古墳と周辺の古墳は
 昭和56年(1981)12月に「川合大塚山古墳群」として史跡に指定されました

★所在地;北葛城郡河合町川合字大塚山
★交通;近鉄池部駅より 徒歩10分
★駐車場;10台程度(無料)
★入場料;外観のみ見学可
★問合せ;0745-57-0200(河合町役場)

 中世に吉田山城守義長がこの墳丘を河合城として利用したそうです
 明治40年の陸軍大演習には天皇の本部が置かれたこともあります

 現在は田圃になっていますが、後円部側に幅32m、前方部で幅40mの周濠の跡が残っています

 廣瀬神社に伝わる『和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖』(16世紀以前の作)では「王塚山」の名で描かれ
 明治3年の川合村絵図には、「王墓山」と記されています


 馬見丘陵古墳群の北群に数えられています
 周辺に7基の古墳が築かれています
 川合城山古墳川合丸山古墳九僧塚古墳中良塚古墳「高山塚一号墳」高山塚二・三・四号古墳

笠置寺の弥勒磨崖仏

2008年02月26日 | 史跡
 「笠置寺」の本尊仏です 撮影日;2007.12.21 

 今は巨大な光背の形だけを残しています
 高さ20mの巨岩中15mの石面に「弥勒如来」が彫刻されていました

 1331年の「元弘の乱」等、三度の火災で磨滅

 奈良時代に東大寺の良弁、実忠の両和尚の指導のもとに大陸から渡来した人々によって線刻されたようです
 日本最大の天人彫刻像と伝えられ、平安時代は笠置詣りで多くの信仰を集めました

 【十三重石塔】

 「弥勒如来大磨崖仏」の向かって左側に建っています

 元は
 建久7年(1196)解脱上人の懇願により
 源頼朝が建立した
 「木造本瓦葺の十三重塔」が建てられていました

 元弘元年(1331)「元弘の変」で焼失

 現在の「十三重石塔」は鎌倉時代に建立されました

 一段目の四面に薬師、釈迦、弥陀、弥勒の四方仏が彫られています

 重要文化財に指定されています


 ★所在地;相楽郡笠置町笠置山
 ★交通;JR笠置駅より 徒歩40分
 ★駐車場;30台(笠置町観光協会管理・普通車1日500円)
 ★入山拝観料;大人300円
 ★問合せ;0743-95-2848(笠置寺




 

太神宮の高灯籠

2008年02月25日 | 石造物
 横大路の旅人の道しるべでした 撮影日;2008.2.5 

 横大路は、大和高田市を東西に貫く難波から伊勢に到る古代から開かれた大道です
 伊勢街道とも初瀬街道とも呼ばれてきました

 飛鳥時代には、大和朝廷にむかう外国使節なども、さかんに往来し
 中世には、長谷寺當麻寺への参詣人や、伊勢参りの人々でにぎわいました

 江戸時代の末、この街道を伊勢神宮へのおかげ祭りの大群衆が、乱舞しながら通過し
 街道沿いの人々は大いに布施をおこなったことが、文献や絵馬に残っています

★所在地;大和高田市旭北町
★交通;近鉄高田市駅より 徒歩10分
★問合せ;0745-22-1101(大和高田市生涯学習課)

 北側には旧高田城が在りました


 北側に常光寺が有ります


有井環濠集落

2008年02月24日 | 城址
 典型的な二重環濠の城跡で、高田城の支城有井城でした 撮影日;2008.2.5

 寺蔵の当麻氏系図によると、永享4年(1432)高田為貞が築城
 
 中世に、水利と村落自衛のために造られた環濠です 

★所在地;大和高田市有井
★交通;近鉄大和高田駅より 徒歩8分
★駐車場;有りません
★問合せ;0745-22-1101(大和高田市生涯学習課)

 環濠の中心には、文明年間(1470年代)に建立の「正行寺」が有ります

 大和高田市には松塚、土庫、藤森、池尻、岡崎、磯野等にも環濠集落が残っています

 


 磐園小学校の西南角に、弘法大師にちなんだ弘法井戸もあります

高田城跡碑

2008年02月23日 | 碑・塚
 高田城は、片塩小学校の東側「常光寺池」一帯にあったそうです 撮影日;2008.2.5 

 碑は、大正5年(1916)に建立されました

 永享4年(1432)、室町幕府六代将軍・足利義教の命により、當麻為貞が城主になりました
 その後約150年間にわたり、戦国武士が群雄割拠した時代に重要な砦としての役割を果たしました

★所在地;大和高田市旭北町2
★交通;JR高田駅より 徒歩10分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-22-1101(大和高田市役所)

 高田城は、いくつかの建て物が二重の堀でかこまれた平城(ひらじろ)で、城の大手門は西に向かって開かれてたそうです

 當麻為長(とうまためなが)の代に最も盛強となり
 常光寺、天神社、高田證菩提寺などが再興されています
 1580年、筒井順慶によって所領を没収され、城も破却されました

 石碑と並んで、大きな樹齢四百年といわれる榎がそびえ立っています


 片塩小学校正門の少し南側に有ります

義経の七つ石

2008年02月22日 | 名所
 源義経が腰掛たとされます 撮影日;2008.2.5 

 春日神社の境内に楕円形に並んでいます 

★所在地;大和高田市大中東町261
★交通;JR高田駅より 徒歩8分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-22-1101(大和高田市生涯学習課)

 兄頼朝に追われた義経が、京都から奈良へ出て、静御前の母・磯野禅尼(いそのぜんに)のいた高田の里へ入り、大中の村の小さな宮(チャンチャン社)で休みました。
 その時、義経に従うのは、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢の三郎、亀井の六郎、片岡経春、狐の化身・佐藤忠信、荷物持ち喜三太の9人
 伊勢の三郎が物見に出て、静は片岡経春の護衛で母に会いに行き、残った義経主従7人が境内の石に腰掛ました


 参考;民話と伝承のページ


静御前記念碑

2008年02月21日 | 碑・塚
 「大中池」の東側に建っています 撮影日;2008.2.5 

 (碑表)静御前記念碑
 しずやしず 賤のおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな

 (碑裏)静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。
 京に遊んで歌舞の名手となり、烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の称賛を浴びた。
 かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕らえられた。
 鎌倉鶴岡八幡宮の社頭、頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い、後許されて大和に帰り母子とも磯野の里におわるという。
 ここに静御前の遺跡を示す村絵図により記念碑を建つ
  昭和五十三年七月 高田川を美しくする会 堀江彦三郎撰 玉泉米田壽夫書

★所在地;大和高田市磯野
★交通;近鉄高田市駅より 徒歩10分
★駐車場;
★入場料;タダです
★問合せ;0745-22-1101(大和高田市生涯学習課)

 この辺り、大和高田市磯野は、静御前の母磯野禅尼(いそのぜんに)が住んでいた所です
 源義経との悲恋に打ちひしがれた静御前が、鎌倉から京都に帰されてから、母のいた磯野を慕ってこの地に来て、三本松・笠神の社などで静養し、ここで亡くなったと伝えられています



安倍寺瓦窯跡

2008年02月20日 | 史跡
 安倍文殊院建立用の瓦を焼いた窯です 撮影日;2008.2.1 

 鎌倉時代の平窯式とよばれる窯(ロストル式の瓦窯)が五基残存しています

 昭和45年3月11日に国の史跡に指定されました

★所在地;桜井市安倍木材団地1-86
★交通;JR桜井駅より 徒歩25分
★駐車場;
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-42-9111(桜井市観光課)

 安倍寺跡は、旧阿部地区二階堂に仲麿屋敷と称する方形の土壇が有り
 昭和42年度の発掘で、中門・塔・金堂跡が判明しました
 北に講堂跡が推定され、法隆寺様式の伽藍配置だったことが分かっています


 安倍寺講堂推定地の西にあります