奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

天王山円墳(赤坂天王山古墳群)

2014年02月28日 | 古墳
天王山円墳
 僅かに石室が開口しています 撮影日;2014.02.20

 径8m程の小円墳です
 南西に開口する横穴式石室が在ります
 開口部は狭く、入室はできません
 現存長で全長は約4m、開口部の幅約60cm、高さ25cmほど
 (玄室の幅は1m程、土砂が流入していて現高50~60cm)

天王山円墳石室内 天王山露出石材
 その西側斜面にも石材が露出した所があります
 古墳でしょうか?

天王山15A-94墳丘 天王山15A-94石材
 1号墳の北東側に小さな突出部があり、そこに2基の小円墳が在ります
 1基「15A-94」は径10m程の円墳で、東側に石材が露出しています
 さらに北東にある円墳は径6mほどで、東側が大きく崩れています

★所在地;桜井市倉橋字赤坂(天王山古墳
★交通;JR・近鉄桜井駅より バスで「下尾口」下車 徒歩3分
★駐車場;有りません
★見学;見学自由
★問合せ;

 遺跡地図には載っていない古墳です
 3号墳の前から西へ少し下っていくと有ります
 

 参照;大和の古墳探索・赤坂天王山X号墳

倉橋庚申堂・地蔵堂

2014年02月27日 | 石造物
倉橋庚申堂・地蔵堂
 向かって右が庚申堂、左が地蔵堂です 撮影日;2014.02.20

 旧多武峰小学校の登り口に有ります
 地蔵石仏は補修されてます

倉橋地蔵堂石仏 倉橋庚申堂石仏 

 庚申堂の向かい側には、古い庚申待碑
 慶長15年(1610)銘の舟形碑と慶長12年銘の板形碑が有ります

 両脇に3体の道標地蔵が有ります
 寛政5年(1793)の石地蔵(高さ81cm)は、左を指差し「はせ/倉橋村/安兵衛」
 寛延3年(1750)の石地蔵(105cm)は、「左たふのミね 右はせみち/施主 長兵衛」
 寛政9年(1797)の石地蔵(70cm)は、「右はせ道」と刻まれています

倉橋庚申堂前石造物 倉橋庚申堂背後石仏群
 石燈籠は元治元年(1864)と宝永7年(1710)の物です
 堂の背後には小石仏が並んでいます

倉橋万葉歌碑
 福祉センター前に万葉歌碑が有ります
 「橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我為苗 立白雲」 音羽山主良慶九十八歳
 万葉仮名書きで訓は「はしだての倉橋山に立てる白雲 見まくほりわがするなべに立てる白雲」と読む(巻7-1282)

 染筆者の大西良慶和上は、明治8年(1875)妙楽寺塔頭智光院(多武峰)大西家の生れで、法隆寺、興福寺の住職をへて明治44年に第二次法相宗管長、ついで大正3年京都の音羽山清水寺に移り、昭和40年、北法相宗初代管長として宗教界につくされた
 昭和57年108歳で亡くなっています

★所在地;桜井市倉橋1166付近
★交通;JR・近鉄桜井駅より バスで倉橋池口下車 徒歩すぐ
★駐車場;桜井市高齢者総合福祉センターにP有り
★見学;見学自由
★問合せ;


ハマリ塚

2014年02月26日 | 古墳
ハマリ塚
 八王子塚とも呼ばれるようです 撮影日;2014.02.16

 現状は田圃の中に残された10m×15m程の方形土壇です
 1m程の高まり

 元の墳形は分かりませんが、削られて小さくなっているようです

ハマリ塚祠 ハマリ塚と祠 

 墳丘上と北側の田んぼの中にも小さな石祠が有ります

★所在地;奈良市北之庄町
★交通;JR奈良駅より バスで北の庄下車 徒歩7分
★駐車場;なし
★見学;見学自由
★問合せ;


柴屋町丸山古墳

2014年02月25日 | 古墳
柴屋町丸山古墳
 墳丘は削られてありませんが、田圃の畦が円く残っています 撮影日;2014.02.16

 径32mの円墳でした
 以前は高さ6mの封土が在ったそうです

 内部主体の埋葬施設が、墳頂から6m下の封土下に、厚さ約1m・径25mの範囲を覆う黒色粘土の下に、径58cmの木棺を安置してあったそうです
 木棺直葬

 遺物;鏡、勾玉、銀釧片、短甲、刀子など

柴屋町丸山古墳2
 円形の畦の内側は沼のようになっています
 ゴミがたくさん捨てられているのが残念です

★所在地;奈良市柴屋町字ナマリ
★交通;JR・近鉄奈良駅より バスで下山下車 北へ200mほど
★駐車場;なし
★見学;見学自由
★問合せ;

 350mほど南にベンショ塚古墳が有ります 


高樋古墳

2014年02月24日 | 古墳
高樋古墳付近
 道路脇の斜面に石室が開口していました 撮影日;2014.02.16

 遺跡地図の「8B-143」です
 水害による崖崩れで見つかった古墳で、山麓の急斜面に横穴式石室が在りました
 (埋められているのか?見つけられませんでした)

高樋古墳
 乱石積みの横穴式石室でした
 調査時には羨道部は無くなっていて、
 玄室の残存長約1.5m・幅1.2mでした

 墳丘の規模などは不明 
 (画像は奈良市史より)


 石材が付近の道脇に並んで置かれていますが、古墳の物かどうかは不明

★所在地;奈良市高樋町字横山1300付近
★交通;JR帯解駅下車 徒歩50分
  弘仁寺のPより 徒歩5分
★駐車場;なし
★見学;場所?
★問合せ;


筒井城跡

2014年02月23日 | 城址
筒井城跡フェンス
 筒井氏の居城が在った所です 撮影日;2014.02.16

 筒井城は土塁を築き、堀をめぐらせた平城です
 菅田比売神社を中心に、ほぼ筒井の集落を含んだ範囲が城跡と推定されています
 小字に、シロ・ドイ・ヤシキ・堀田などの関係地名が残っています

 町内各所に内濠・外濠跡が見られます

筒井城跡碑 筒井城跡主郭 

 「筒井順慶城趾」の石碑は本郭跡の西南隅に立っています(虎口付近)

 平地部に築かれた中世の城としては大規模な城です
 文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった永享元年(1429)です
 筒井氏の居館から、しだいに城郭へと発展していったようです

筒井城跡範囲 筒井井戸跡
 説明板転記
 筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え」と呼ばれる構造を取っています。
外堀で囲まれた範囲は東西約500m、南北約400mに及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。
また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあたり、交通の要衝を押さえています。
城の中心となる主郭部は、この案内板があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比売神社を含む東西約120m、南北約100mの範囲と想定されます。
主郭の範囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。
発掘調査では、館に伴う大規模な石組みの井戸が見つかっています。
主郭部の北には大型の宅地割りが並んでおり、ここに筒井家の重臣が住んでいたものと思われます。
また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内)を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。
このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北にそれぞれ市場(商店街)がありました。
筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世妃中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことがわかっています。
一方、筒井氏の祖とされるのは筒井順覚で、至徳3年(1386)の文献にその名が記されています。
しかし、それをさかのぽる康永2年(1343)の文献にも、筒井氏と思われる武士2名(順慎・順円)の署名があることが・近年の研究で明らかになりました。
すなわち、筒井城と筒井氏は、共こ14世紀中ごろに歴史の表舞台こ現れるということになります。
筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶(1549-84)です。
順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。
天正8年(1580)、筒井城は織田信長の令によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある群山城に移しました。
                   平成26年1月 大和郡山市 

★所在地;大和郡山市筒井町
★交通;近鉄筒井駅下車 徒歩5分
★駐車場;有りません
★見学 入場料; 見学自由
★問合せ;


菅田比売神社

競馬道無名墳

2014年02月22日 | 古墳
6B-2墳丘
 競馬道と呼ばれる道の南側に、2基並んで石室が開口しています 撮影日;2014.02.17

 径17mの円墳「6B-2」と径14mの円墳「6B-3」です
 畑山古墳群に含まれるのかもしれません
 「6B-3」は墳丘が明確ではなく「6B-2」の東側斜面に築かれています
 双円墳でしょうか?(前方後円墳のようにも見えます)

6B-2羨道
 「6B-2」は南に開口する両袖式の横穴式石室が有ります
 石室全長は5mほどでしょうか(いずれも目測)
 玄室長約3m・幅約1.8m
 高さは土砂が流入しているので不明ですが、楽に立っていられます
 羨道長約2m・幅1m・高さ約80cm
 玄門部はさらに低くなっていて、高さ50cmほどです

6B-2天井 6B-2墳頂 
 墳頂は大きく盗掘され、径2m程の穴が開いています
 奥壁部分の天井石1個が抜かれて、土砂が流入しています

6B-2玄室
 墳丘を接して、東側に「6B-3」が在ります

 6B-3墳丘
 「6B-3」は東に開口する横穴式石室です
 羨道部は破壊され、埋まっています
 玄門部の天井付近に穴が開いていて、玄室を見ることができます
 (50cm×50cmほどの穴なので、細身の方なら入室可能)
 「6B-2」より状態の良い玄室です

6B-3開口穴 6B-3玄室

★所在地;奈良市大柳生町バクケ
 競馬道1号墳から西200mほどの所です
★交通;近鉄奈良駅より バスで「大柳生」下車 徒歩15分
★駐車場;なし
★見学;見学自由(場所が分かりづらいかも)
★問合せ;


 2013.05.05に訪れた時の画像
 
 「6B-2」と「6B-3」の石材だと思って撮ったものです
 すぐ近くに有るのに気づかなかったのです・・・
 
 今回は、奈良市史に石室開口とある「畑山10号墳」を探しに行って見つけられず
 諦めて、丘陵を下って来た時に偶然見つけました
 



大柳生西山古墳群

2014年02月15日 | 古墳
大柳生西山5号墳?
 11基ほどの小円墳からなる古墳群です 撮影日;2014.01.25

 最大の古墳は6号墳(径15mほど)で、片墓と呼ばれています
 この古墳群の盟主墳でしょう
 墳頂部は窪んで、平らになっています 

大柳生西山6号墳墳丘 大柳生西山6号墳頂

 まともな形で残っている古墳はほとんどありません
 2~3基で、露出石材が見られる程度でほぼ破壊されています

大柳生西山古墳群へ 大柳生西山古墳群

★所在地;奈良市大柳生町
★交通;JR・近鉄奈良駅より バスで「大柳生」下車 徒歩5分
★駐車場;なし
★見学;見学自由

 大柳生のバス停前から坂を上り、茅葺屋根の家横を通って集落の裏山へ
 三角点山へ通じる林道で、道の南側に並んでいます


コヨシ古墳(仮)

2014年02月14日 | 古墳
コヨシ古墳
 胴張り形式の石室で、奈良では珍しい形式です 撮影日;2014.01.25

 競馬道4号墳と同一丘陵上にある古墳です
 径16mの円墳 (大きな墳丘で20m以上あるように見えます)
 南側に石室が開口しています
 開口部南側にも石材がいくつか転がっています
 (羨道部の石材でしょうか?)

コヨシ古墳奥壁 コヨシ古墳天井石

 玄室の南側上部の石が抜かれて開口しています
 玄室内は楕円形(胴張り形式)になっています
 長さ約2m・幅約1.5m・高さ約1.6m(目測)
 天井石は1枚です 

コヨシ古墳開口部 コヨシ古墳石室内より

 斜面をよじ登らなければなりませんが、大きな墳丘なので見つけやすいと思います
 柳生カントリークラブの侵入路を挟んで南東の丘陵上に有ります

 以前から探していた古墳ですが、遺跡地図「6B-1」とは場所が違っていました
 競馬道4号墳に訪れて、偶然に見つけることが出来ました
 無名墳ですが、一見の価値有りな古墳だと思います 

★所在地;奈良市大柳生町コヨシ
★交通;JR・近鉄奈良駅より バスで「興東中学校」下車 徒歩3分
★駐車場;なし
★見学;見学自由

 この丘陵の谷を挟んだ南東の丘陵にはゴヨシ古墳が在ります
 道を挟んだ南の丘陵(競馬道沿い北側の斜面)には競馬道1号墳競馬道2号墳も在ります


競馬道4号墳

2014年02月13日 | 古墳
競馬道4号墳開口部
 思いがけず、石室が開口していました 撮影日;2014.01.25

 現状は径8mほどの円墳で、比較的良好に墳丘が残っています
 遺跡地図の「6B-58」です
 石室は、南東側に開口しています
 開口部は狭く、入室は困難
 (開口部は幅60cm・高さ20cmほど)

競馬道4号墳 競馬道4号墳石室内

 石室内にも多くの土砂が入り込んでいて、計測不能
 石室長5mほどでしょうか?
 よく見えませんが、隅丸型かも 

★所在地;奈良市大柳生町
★交通;JR・近鉄奈良駅より バスで「興東中学校」下車 徒歩3分
★駐車場;有りません
★見学料;見学自由
★問合せ;


丘陵への侵入場所 古墳名は「競馬道4号墳」ですが、競馬道に有る古墳では有りません
 柳生カントリークラブの侵入路の南東、丘陵東端に築かれています
 同丘陵の西端に、もう一基石室が開口する古墳が在ります