
小規模な曲輪跡が残っています 撮影日;2012.03.25
現在は「桜井公園」となっています
暦応4年(1341)、北朝方の細川顕氏が陣を構えた所です
南朝方の戒重西阿の戒重城攻めを行ったそうです
永禄8年(1565)には、松永久秀もここで布陣し、鳥見山城(外山)の筒井順慶と戦いました
すぐ南側に、芸能発祥の地「土舞台」が有ります
★所在地;桜井市谷字大谷
★交通;近鉄・JR
桜井駅下車 徒歩10分★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★休館日;年中無休
★問合せ;
公園の北側に双築古墳が有ります
「土舞台」のまわりには小規模な円墳がいくつか有ります(桜井公園古墳群)
桜井小学校の正門南側に稲荷東1号墳「14B-43」が有ります
径13mの円墳で、横穴式石室が有ったようです
馬具・須恵・獣骨などが検出されています
(すぐ南側には艸墓古墳が有ります)

稲荷西1号墳「14B-42」は土舞台の南東端に有った円墳です
径14mで、横穴式石室が有ったようです
土師・須恵・鉄釘・青銅片・和同開珎などが検出されています
土舞台の西側の小道沿いに4基の円墳が並んでいます

大和盆地が一望できる場所です 撮影日;2012.03.25
=案内板=
| 紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)が即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。 その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた日本武尊である。 景行天皇の業績で注目すべきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政治の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、 五・七調の神代文字で記された秀真伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遺したことである。 |
すぐ東にカタケヤシの地(相撲神社の場所)が有ります
★所在地;桜井市穴師
★交通;JR
巻向駅下車 徒歩20分★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;
珠城山古墳群から穴師座兵主神社へ行く途中に碑が建っています
葛城第23号経塚です 撮影日;2012.02.12
金剛山中を中心に、法華経塚が有ります
役行者が「法華経」一部八巻二十八品を書写させ、品(ほん)毎に葛城の秘所に奉納したという塚です
(品とは仏典の中の、章節にあたるものをいいます)
塚の上には五輪塔が建てれれており、傍らには天文19年(1550)の五輪塔地輪部と、同時代の石仏が有ります
「ほけきょう塚」と刻まれた宝暦5年(1755)の石標も有ります
この塚には「薬王品」が納めれているそうです
★所在地;御所市櫛羅
★交通;近鉄
「御所」駅より バスで「猿目」下車 徒歩1分
★駐車場;なし
★入場料;参詣自由
★問合せ;
参考;葛城経塚28宿巡礼のページ
金剛山中を中心に、法華経塚が有ります
役行者が「法華経」一部八巻二十八品を書写させ、品(ほん)毎に葛城の秘所に奉納したという塚です
(品とは仏典の中の、章節にあたるものをいいます)
塚の上には五輪塔が建てれれており、傍らには天文19年(1550)の五輪塔地輪部と、同時代の石仏が有ります
「ほけきょう塚」と刻まれた宝暦5年(1755)の石標も有ります
この塚には「薬王品」が納めれているそうです
★所在地;御所市櫛羅
★交通;近鉄
「御所」駅より バスで「猿目」下車 徒歩1分★駐車場;なし
★入場料;参詣自由
★問合せ;
参考;葛城経塚28宿巡礼のページ
役小角の産湯に使った盥を埋めた場所だそうです 撮影日;2012.02.05
小さな土壇に石碑が建っています
土地の人はこれを『たらいの森』と称し、霊蹟としてあがめています
近くに『杓の森』も有るそうです
村の西入り口(公民館の辺りか?)に老ナツメの木が生えている土壇があるそうです
役行者誕生の時に産湯を汲んだ木杓(しゃく)を埋めた所と伝わります
小角が生まれたという茅原寺(現在の吉祥草寺)は、北へ3分ほどのところです
★所在地;御所市玉手
★交通;JR
玉手駅下車 徒歩1分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;
小さな土壇に石碑が建っています
土地の人はこれを『たらいの森』と称し、霊蹟としてあがめています
近くに『杓の森』も有るそうです
村の西入り口(公民館の辺りか?)に老ナツメの木が生えている土壇があるそうです
役行者誕生の時に産湯を汲んだ木杓(しゃく)を埋めた所と伝わります
小角が生まれたという茅原寺(現在の吉祥草寺)は、北へ3分ほどのところです
★所在地;御所市玉手
★交通;JR
玉手駅下車 徒歩1分★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;

落差5〜6mの美しい段瀑です 撮影日;2012.01.29
天正8年(1580)に、大和領主だった筒井順慶が伊賀攻めの際に戦勝祈願を行ったと伝えられます
滝の右側に、不動明王像が祀られています
滝の手前には供養塔が建てられています
伊賀攻めに参加した地元民戦死者の霊を慰める為に建立されたと伝承されます

八柱神社の拝殿前にあるムクロジは「鉾立ての木」と称されます
順慶公が戦勝を祈願する際に、鉾や武具を立てかけた木だそうです
境内は、山添村の史跡に指定されています
白樫の巨樹群生は、一箇所にまとまって生息していることは、植物学的な価値があるとされます
★所在地;山辺郡山添村大字岩屋772
★交通;名阪国道「神野口IC」より約4km
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;0743-85-0049(山添村教育委員会事務局)
跡地に石碑が立てられています 撮影日;2012.01.29
旧笠間小学校の裏「金比羅山」には古墳形の小丘があり、横穴式石室基底部のみ残存していました
下笠間古墳は南帝皇后の塚であるという伝説が残されています
今から約670年前、国は南朝北朝に分かれて争っていました
その時、南朝の後醍醐天皇は笠置の城が落城したため、吉野に向かって移動していましたが、皇后は道に迷って笠間の里(今の上笠間)に落ち延びたそうです
しかし、皇后はここで病にかかり、当時の里人は金比羅山を皇后の行宮として奉迎し、数年間食物や医薬を運びました
その甲斐なく皇后は崩御されましたが、里人は小丘をつくって葬りました
それが今の金比羅山であるといわれています
今でも頂上には祠が祀られ、その名残をみることができます
★所在地;宇陀市室生下笠間
★交通;名阪国道「小倉IC]より(地図参照)約9km
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;
旧笠間小学校の裏「金比羅山」には古墳形の小丘があり、横穴式石室基底部のみ残存していました
下笠間古墳は南帝皇后の塚であるという伝説が残されています
今から約670年前、国は南朝北朝に分かれて争っていました
その時、南朝の後醍醐天皇は笠置の城が落城したため、吉野に向かって移動していましたが、皇后は道に迷って笠間の里(今の上笠間)に落ち延びたそうです
しかし、皇后はここで病にかかり、当時の里人は金比羅山を皇后の行宮として奉迎し、数年間食物や医薬を運びました
その甲斐なく皇后は崩御されましたが、里人は小丘をつくって葬りました
それが今の金比羅山であるといわれています
今でも頂上には祠が祀られ、その名残をみることができます
★所在地;宇陀市室生下笠間
★交通;名阪国道「小倉IC]より(地図参照)約9km
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;
三つの磐座で『古事記』神話の「天の岩戸」の段を再現していると考えられています 撮影日;2011.11.13
裏参道側の神域左方下に三つの磐座が有ります
右上段は「掌石」(斎神:太玉命)、手のひらのような形をしている
左下段は「沓形石」(斎神:天児屋根命)、神官が履く沓(くつ)のような形をしている
手前にある「鵝形石」(斎神:天照大神)、鵝鳥(がちょう)のような形をしている

與喜山は、古くは大泊瀬山と呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられました
『万葉集』では初瀬にかかる枕詞「隠り国」(山に囲まれ隠っているような地)は、この自然の姿から生まれたそうです
万物の生命のみなもとである太陽と、母なる慈愛を神としてあがめたのがアマテラスという女性神で、天上からこの御山に初めて降臨されたと伝えられています
本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、女性の守護神として信仰されています
673年4月、天武天皇は伊勢に出発する斎王・大来皇女の潔斎のために、與喜山に施設「泊瀬斎宮」を設けたと伝わります
後方の鍋倉山には、延喜式式内社の「鍋倉神社」が磐座に祭られているそうです
磐座の左方には「鍋倉神社」へ奉納された灯篭2基が有り、その後方広場は連歌会所の「菅明院」跡だそうです
★所在地;桜井市初瀬14
★交通;近鉄
長谷寺駅下車 徒歩20分
★駐車場;有ります(有料)
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-55-2300(與喜天満神社)
裏参道側の神域左方下に三つの磐座が有ります
右上段は「掌石」(斎神:太玉命)、手のひらのような形をしている
左下段は「沓形石」(斎神:天児屋根命)、神官が履く沓(くつ)のような形をしている
手前にある「鵝形石」(斎神:天照大神)、鵝鳥(がちょう)のような形をしている

與喜山は、古くは大泊瀬山と呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられました
『万葉集』では初瀬にかかる枕詞「隠り国」(山に囲まれ隠っているような地)は、この自然の姿から生まれたそうです
万物の生命のみなもとである太陽と、母なる慈愛を神としてあがめたのがアマテラスという女性神で、天上からこの御山に初めて降臨されたと伝えられています
本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、女性の守護神として信仰されています
673年4月、天武天皇は伊勢に出発する斎王・大来皇女の潔斎のために、與喜山に施設「泊瀬斎宮」を設けたと伝わります
後方の鍋倉山には、延喜式式内社の「鍋倉神社」が磐座に祭られているそうです
磐座の左方には「鍋倉神社」へ奉納された灯篭2基が有り、その後方広場は連歌会所の「菅明院」跡だそうです
★所在地;桜井市初瀬14
★交通;近鉄
長谷寺駅下車 徒歩20分★駐車場;有ります(有料)
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-55-2300(與喜天満神社)
万葉に詠まれた伝承地です 撮影日;2011.11.05
都祁水分神社の境内から80mほど北に、山辺の御井と伝えられる小さな池があります
鈴鹿や毛原廃寺にも同じ話があります(「山辺の御井」伝承井戸)
山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも (巻1-81)
和銅5年(712)に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌
★所在地;奈良市都祁友田町
★交通;名阪国道「針IC」より バスで「友田」下車 徒歩5分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;
都祁水分神社の境内から80mほど北に、山辺の御井と伝えられる小さな池があります
鈴鹿や毛原廃寺にも同じ話があります(「山辺の御井」伝承井戸)
山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも (巻1-81)
和銅5年(712)に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌
★所在地;奈良市都祁友田町
★交通;名阪国道「針IC」より バスで「友田」下車 徒歩5分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;
日本で初めて「火葬」が行われた所といわれます 撮影日;2011.09.24
栗原寺は竹林寺とも称していたようです
阿知使主の子孫坂上駒子が崇峻4年(592)に創建したと伝えられます
寺跡は明確で有りませんが、呉津彦神社の東北方の俗称「光徳寺跡」付近と考えられています
(墓地が有ります)
白鳳期の古瓦や礎石が出土しています(7世紀後半の建立か?)
西大門・中門・金堂・講堂を一直線に並べる西向きの伽藍配置であったと考えられているようです
文武4年(700)、法相宗の祖である道昭 (629〜700)という僧が、火葬によってその死を見送られた
その地は、明日香村栗原であったと伝えられています
道昭は、遣唐使として海を渡り(653年)、玄奘三蔵に師事した後、飛鳥寺に東南禅院を建てたと伝わります
行基の師でもあるそうです
宇治川にかかる宇治橋は道昭の建立と伝わります
現竹林寺に栗原寺の礎石が残っています

★所在地;高市郡明日香村栗原
★交通;近鉄
飛鳥駅下車 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-5600(明日香村役場文化財課)
栗原寺は竹林寺とも称していたようです
阿知使主の子孫坂上駒子が崇峻4年(592)に創建したと伝えられます
寺跡は明確で有りませんが、呉津彦神社の東北方の俗称「光徳寺跡」付近と考えられています
(墓地が有ります)
白鳳期の古瓦や礎石が出土しています(7世紀後半の建立か?)
西大門・中門・金堂・講堂を一直線に並べる西向きの伽藍配置であったと考えられているようです
文武4年(700)、法相宗の祖である道昭 (629〜700)という僧が、火葬によってその死を見送られた
その地は、明日香村栗原であったと伝えられています
道昭は、遣唐使として海を渡り(653年)、玄奘三蔵に師事した後、飛鳥寺に東南禅院を建てたと伝わります
行基の師でもあるそうです
宇治川にかかる宇治橋は道昭の建立と伝わります
現竹林寺に栗原寺の礎石が残っています

★所在地;高市郡明日香村栗原
★交通;近鉄
飛鳥駅下車 徒歩20分★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-5600(明日香村役場文化財課)

















