かろうじて墳丘が残っています 撮影日;2012.12.09
遺跡地図の「11C-51」です
太安万侶の墓とされていた松ノ下古墳の300m北西に有ります
多神社の南東500mほどの所で、被葬者は多氏一族と考えてよいと思います
現状はかなり変形していて、特に東側は削られて田圃になっています
墳丘に生えている木のおかげで墳丘が残された?
墳丘上には石灯籠も有ります
★所在地;磯城郡田原本町多
★交通;近鉄笠縫駅下車 徒歩15分
★駐車場;多神社のPより徒歩5分
★入場料;見学自由
★問合せ;
磯城郡の伝説=石棺発掘の祟り=磯城郡多村西新堂
西新堂の氏神の西北方に、一つの塚がある。東西一間、南北二間半程で、石棺の一部分が露はれてゐる。昔、此塚は尚大きく、石棺も深く土中にかくれてゐた。其頃、村の総代が五六人の者を雇うて、此塚を発掘しようとした。一丈許ほりさげて、石棺が見えてきたと思ふと忽ち龍が昇るやうな雨雲が降って来、それに連れて、大暴風雨となって、神社の木が倒れる、村の家が壊れる、それはそれは大混乱を現出した。人夫達も仰天して其儘散りうせたので、一人残った総代は、狼狽しながらメチャメチャに石棺を土で蔽った。そして石棺が見えなくなってしまふと、大暴風雨はパッと晴れた。尚不思議な事には、此時、隣村では何の変わりもない晴天であったといふ。
太安万侶の墓との伝承が有ります 撮影日;2012.12.09
遺跡地図の「14A-10」です(線路脇の田圃の中に残されています)
現状は径6m・高さ1m程の円墳状の塚です
この塚は、昭和54年奈良市此瀬町で太安万侶墓が発見されるまで太安万侶の墓と伝えられていました(太安萬侶の墓)
この田地は、多神社の所有地です
塚は、地元では遺品などを納めた「参り墓(塚)」だと考えられるという
多神社では、納骨の儀式を太安万侶の命日(7月6日)に行った後、塚の周囲を石垣で囲んで記念碑を建てる計画だそうです
安万侶は712年、下級舎人の稗田阿礼が暗唱していた記録を基に古事記3巻をまとめ、元明天皇に提出しました
★所在地;磯城郡田原本町多
★交通;近鉄笠縫駅下車 南へ徒歩10分
★駐車場;有りません
★入場料;見学可 (冬季は近くまで行けます)
★問合せ;
弘法大師ゆかりの井戸です 撮影日;2012.12.09
眼の病気に効く井戸水だそうです
弘法大師がこの地に来られた時に眼を患う人に会い、気の毒に思われ「ここを掘り湧き出す水で眼を洗いなさい」と教えられたので素直に教えられた所を掘ると水がどんどん湧き出し田と伝えられます
眼を患う人が近村からこの水をいただきにきたという
掘りぬき井戸で、石の井筒が設けられており、現在は安全のため穴の部分は金網で覆われている
井戸の横には薬井と刻んだ石があり、近年まで飲料水として利用できるきれいな水が湧き出ていたそうです
★所在地;北葛城郡河合町薬井
★交通;近鉄大輪田駅下車 徒歩15分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-57-0200(河合町役場 地域活性課)
斜面に築かれている古墳です 撮影日;2012.12.09
遺跡地図の「7D-06」です
横穴式石室が露出していて、奥壁と右壁が残っています
熊笹で覆われていてよく見えませんが、天井石と思われる石も転がっています
いちばん大きな天井石は、付近の民家に保存されているそうです
墳丘は大きく削られているようで、左壁や羨道部は無くなっています
古墳の南側は、民家が建ち小路が通っています
規模不明ですが、30m程ある円墳だったと思われます
遺物は土師器や須恵器が出土しているようです
★所在地;生駒郡平群町椿井字峯堂
★交通;近鉄平群駅又は竜田川駅下車 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;石垣をよじ登れば、石室も見れます
★問合せ;
北へ200m行くと平等寺春日神社が有り、南へ200m行くと平群氏春日神社が有ります