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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

「反キリスト教」から始まった排外運動――渡部昇一教授

2014-10-30 | 04-歴史・文化・社会
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『日本史から見た日本人 昭和編』http://tinyurl.com/mzklt2z
【 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p254 】

2章 世界史から見た「大東亜(だいとうあ)戦争」
   ――三つの外的条件が、日本の暴走を決定づけた

   (3) 排日運動の激化と大陸への出兵

2-3-1 「反キリスト教」から始まった排外運動

「戦前の世界が、戦後の世界のようであったならば日本が戦争に突入する必要はなかったであろう」

このように、私が考える理由として、第一に排日移民法、第二にホーリイ・スムート法が引き金になった大不況とブロック経済を挙げたが、第三の理由として、シナ大陸における度重(たびかさ)なる排日・侮日運動に触れておかなければならないであろう。

この問題の根は深い。それは、19世紀におけるヨーロッパの東洋侵略史と絡み合っているからである。

それは、イギリスと清国とのアヘン戦争(1840―42)や、ロシアと清国の愛琿(あいぐん)条約(1858年締結。ロシア領を黒竜江域まで広げ、沿海州を両国の共同管理とした)あたりから説き起こすべきであろうが、とりあえず日本が参加したという点で注目すべき義和団の蜂起(拳匪(けんぴ)の乱)と、それに引き続き起こった北清事変から見るのが、情勢の流れを理解するのに便利であろう。

明治27、8年(1894―95)の日清戦争の後、日本はロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって、遼東半島(日清戦争の講和条約で、領有を承認されていた)を清国に返還した。

ところが、日清戦争は「眠れる獅子」と思われていた清国が、本当に弱国であることを世界に示したため、ヨーロッパ各国は、その一方で競ってシナ大陸の半植民地化を急速に進めた。

日本に遼東半島を返還せしめたロシアは、そこを自分が租借し、旅順(遼東半島南端)にロシア艦隊を入れ、南海州鉄道敷設権を獲得したし、ドイツは膠州(こうしゅう)湾(山東半島南西部)を制覇し、青島(チンタオ)砲台を占領した。フランスは広州湾(広東省西南端)を租借し、附近の鉱山採掘権や鉄道敷設権を獲得した。イギリスは今までの権益に加えて、揚子江沿岸に権益を増し、さらに威海衛(いかいえい)(山東省北端)の軍港を租借した。

日清戦争直後からのヨーロッパ勢力のシナ大陸への進出は、まことに目を瞠(みは)るものがある。しかも、このヨーロッパの進出には、しばしばキリスト教の宣教が先行し、宣教師が殺されると、これを口実にして一挙に侵略の歩武(ほぶ)を進めるというのがパタンとなっていたから、シナ民衆の間には反キリスト教的排外運動が起こる素地ができていた。

義和団は元来、白蓮(びゃくれん)教(仏教系の新興宗教)の流れを汲む民衆の宗教団体であり、その教える拳法を修行して呪文を唱えれば、神霊が体に宿り、刀槍砲火(とうそうほうか)によって傷つけられることなし、という迷信的信仰であった。それで、この集団が明治31年(1898)に蜂起した時、彼らは拳匪(けんぴ)、英語ではボクサー運動(ムーブメント)と呼ばれた。彼らは一切の武器を持たず、集団の長に当たる者が指揮のために刀や槍を持つだけであった。元来、彼らは神仏の加護を求めて焚(た)く線香と、キリスト教会や外人牧師館やキリスト教に改宗した同胞の家を焼くための石油を持っていただけである。

彼らの翻(ひるがえ)した旗には「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清国を扶(たす)けて西洋人を滅(ほろ)ぼす)とか「興清滅洋(こうしんめつよう)」(清国を興隆させ西洋を滅ぼせ)と書いてあったから、民衆の間の排外感情と愛国思想を表わしていたものであることは確かである。

元来は、この地によくあった匪賊(ひぞく)の一種とみなしうるのだが、その勢力が広がり北京にも及んできて、外国人の生命も危険になるに至って、明治33年(1900)の1月、北京在住の外交団(イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、オーストラリア、スペイン、ベルギー、オランダ、日本の各公使)は北京政府に抗議した。

北京政府は、はじめのうち、義和団をひそかに助け、のちには公然と提携して、排外運動を行ない、天津や北京の内外のいたるところで戦闘が起こっていたのである。そして、明治33年(1900)の6月21日、清国政府は北京に出兵してきた8ヵ国――イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、オーストラリア、アメリカ、イタリア、日本――に対して宣戦布告をするに至った。これが、いわゆる北清事変である。

清国が宣戦布告する11日前の6月10日には、北京公使館書記生の日本人杉山彬(すぎやまあきら)が路上で殺され、その約1週間の後の6月18日にはドイツ公使フォン・ケッテレル(そのころ、駐清大使はなかったから、公使がその国を代表した)も路上で殺されるなど、北京の市中でも物情騒然として、外交官といえども安全ではなくなっていた。

フォン・ケッテレル殺害の翌日の6月19日、北京政府は列国の外交団に対し、24時間以内に北京から引き揚げることを要求し、その交渉中の翌20日、清国の正規兵の発砲によって戦闘がはじまり、その行為を追認するように翌21日の清国の宣戦布告になったものである。各国の公使館は、公使館員も居留民も皆殺しになる虞(おそれ)があったため、協力して防衛に当たることになった。

イギリス公使クロード・マクドナルドは、もと陸軍少佐であり、実戦の体験もあったので彼が総指揮官となり、日本公使館付武官であった陸軍砲兵中佐(現在の二佐に相当)の柴五郎(しばごろう)がその補佐に当たった。公使館の攻防は8月半(なか)ばに連合軍の救援が来るまで続き、防御側にも多数の死傷者が出た。

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