電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意することにした解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

東京裁判はインチキ 《 日本に感謝される理由はどこにもない――パール判事 》

2024-03-28 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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「私が日本に同情ある判決を行なったと考えるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したものでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、また、それ以下のものでもない」。日本に感謝される理由はどこにもない。真理に忠実であった、法の尊厳を守った、という理由で感謝されるならば、それは喜んでお受けしたい、というのである。


◆日本に感謝される理由はどこにもない

『パール判事の日本無罪論』
( 田中正明、小学館 (2001/10)、p9 )

極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)で、戦勝国11人の判事のうちただ一人インド代表判事ラダ・ビノード・パール博士は、この裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する非法・不法の復讐のプロパガンダにすぎないとして、被告全員の無罪を判決した。

当時、新興国であったインドが、2百余年のイギリスの桎梏(しっこく)から解放されて、真っ先に取り上げた問題が、インドネシアの独立援助と、東京裁判への対処であった。ネール首相はそのために、もっとも尊敬するパール博士を、インド代表判事として東京に送ったのである。このとき博士は67歳、カルカッタ大学総長の職を辞して、1946年5月17日に着任した。着任してわずか2カ月、他の十判事がともに談ずるに足りないと悟るや、彼らと一切の交渉を断って、帝国ホテルの自室に閉じこもった。彼らが観光旅行や宴席にあるとき、博士は部屋にこもったまま、調査と著述に専念した。ことに資料の収集には力をそそいだ。カルカッタの自宅から何度も著書を取り寄せ、アメリカやイギリスの友人からも、資料を送ってもらった。博士が2年半に読破した資料は4万5千部、参考書籍は3千冊に及んだということである。まさに超人的な努力である。

博士が他の判事たちと全く意見を異にするという噂(うわさ)が伝わるや、博士の身辺危うしという風説が高まった。この風説を心配して、博士の身を憂える人びとに対し、博士はきわめて冷静に、むしろそれらの人びとをたしなめながら、生活態度は少しも変わることはなかった。博士は東京裁判の全期間を通して、法廷に臨むときは、かならず判事席から被告席に向かって、敬虔(けいけん)なる合掌の礼をとった。満員の法廷は博士のこの態度に感激したものである。

裁判もいよいよ結審に近づいた1948年8月、博士は夫人危篤の急電を受けて、急遽(きゅうきょ)インドに帰った。病床に駆けつけたとき、夫人は博士の顔を見るなり、喜ぶどころか、うらめしそうな面持ちで「娘が勝手に電報をさしあげたそうで、すみません。あなたがせっかくお帰りくださったことは嬉(うれ)しうございますが、しかし、あなたはいま、日本の運命を裁こうという大切なお体です。聞けばその判決文の執筆に寸暇もないそうですが、あなたがこの大切な使命を果たされるまでは、私は決して死にません。どうぞご安心くださって、すぐに日本にお帰りください」と厳然といい放ったという。博士はこの夫人の一言に感激して、そのまま東京へ引き返した。夫人は約束どおり、気息奄々(えんえん)ながらも、裁判が終わるまで生き延びていたが、大任を果たして帰った博士に手をとられて、いくばくもなく瞑目(めいもく)されたのである。

このような悲壮なエピソードまであって、全員無罪の世紀の大判決文は完成したのである。あるいは、同じ東洋人だから、日本に味方したのだろう、といった、安易な見方をする人がいるかもしれない。しかしこれは、博士の精神を冒涜(ぼうとく)するものであり、見当違いもはなはだしい。博士が再度訪日されたとき、朝野の有志が帝国ホテルで歓迎会を開いた。その席上ある人が「同情ある判決をいただいて感謝にたえない」と挨拶(あいさつ)したところ、博士はただちに発言を求め、起(た)ってつぎのとおり所信を明らかにした。

「私が日本に同情ある判決を行なったと考えるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したものでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、また、それ以下のものでもない」

日本に感謝される理由はどこにもない。真理に忠実であった、法の尊厳を守った、という理由で感謝されるならば、それは喜んでお受けしたい、というのである。

その後博士は、国連の国際法委員会の委員長として活躍され、日本にもたびたび来日されて、日本国民が東京裁判史観にまどわされて、自虐・卑屈にならぬよう日本全国を遊説された。博士はインドにおいては最高勲章を、日本からは勲一等瑞宝章を授けられた。

平成9年11月、インド独立50周年を記念して、パール博士のご遺志に沿い、京都・東山の霊山護国神社境内に博士の顕彰碑が建立された。この場所は明治維新の志士たちの眠る聖地であり、大東亜戦争の英霊鎮まる聖域である。

拙歌二首

“日本無罪”叫(おら)びつづけて四十五年 晴れてこの日を迎ふうれしさ
汝(な)はわれの子とまで宣(の)らせ給いける 慈眼の博士京に眠りぬ

この裁判を演出し指揮したマッカーサーは、裁判が終わって1年半後、ウェーク島でトルーマン大統領に「この裁判は間違いだった」と告白し、さらに3年後の5月3日、アメリカに戻って上院軍事外交委員会の席上で、「日本があの戦争に飛び込んでいった動機は、安全保障の必要に迫られたためで、侵略ではなかった」と言明したのである。
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