CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2021年4月28日放送、歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴して

2021年04月30日 04時03分31秒 | Weblog

2021年4月28日放送、NHKテレビ歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴しました。

昨年から関西大学文学部考古学研究室と奈良県明日香村教育委員会が発掘調査を

進めている明日香村平田の中尾山古墳の調査が主題であった。取材は2021年1月。

それでは写真を中心に中尾山古墳の真実を探ってみたいと思います。

以前に下記ブログで中尾山古墳について纏めています。

 「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に宮内庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は中尾山古墳(文武天皇陵)現地の遠景です。 撮影:2011-5-16

高松塚古墳の近くにあります。

文武天皇陵は別名粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳とも
言われる。
享保19年(1734)の『大和志』では、「平田村の西に在り。
俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。
明治14年(1881)に現在地に指定替えとなった。

以下現地の説明板より引用させていただきます。
陵名を檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのうえのみささぎ)と称する。
文武天皇は、追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707)6月に
崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」に
見られる。

以上は下記ブログより再掲載

 奈良散策記 その7 第42代文武(もんむ)天皇陵 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

上の写真は番組の冒頭部

上の写真は中尾山古墳の位置を示したもの

上の写真は中尾山古墳を上空より撮った遠景

上の写真は発掘現場の一部

上の写真は現地調査を担当した西光慎治さん

上の写真は石積みの角度が135度となっている部分の分度器による測定確認

上の写真は地形をレーザー照射により測定

上の写真は測定範囲と測定結果

上の写真は測定結果

上の写真は沓形石(くつがたいし)の拡大

沓形とは

飛鳥時代や奈良時代の古い仏殿や宮殿の大棟の両端にちょうど沓(中国から伝わった靴)
を立てたような形をしている瓦で、その形から沓形(くつがた)という。
また鴟尾(しび)、鮪(しび)とも呼ばれる。これはその形がもともとは空想上の鳥
あるいは魚からきたことから付けられた。空想上の鳥や魚を載せることによって、
悪魔除けや火除けの意味が込められている。飛鳥時代に大陸から伝わり、
大規模な建築の大棟で使われた。

石敷きの上には墳丘から転落したとみられる沓形石(くつがたいし)があり、八角形の隅に

合うよう約135度に加工されていたことから、墳頂部に置かれた可能性が高いという。

上の写真は沓形石が墳頂部に置かれた状態の想定図(8つの沓形石が使用か?)

鴟尾(しび)のように2つだけの配置か?証拠は無し

 

上の4枚の写真は8世紀の初めにこの場所で八角形の古墳といえば天皇陵であると解説

京都橘大学名誉教授の猪熊兼勝さん

令和天皇の即位礼正殿の儀の際の高御座が八角形。他に聖徳太子が祀られている

法隆寺夢殿や仏像の基壇なども八角形という例が紹介された。

八角形の天皇陵としてこれまでに確認されている古墳は天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)

及び牽牛子塚古墳(斉明天皇陵?)。

上の2枚の写真は天武・持統天皇陵(檜隅大内陵)と八角形(135度)であるとの検証結果

天武・持統天皇陵について私が書いたブログにリンクしておきます。

 天武・持統天皇陵に関するNHKテレビ報道と訪問(2011-5-16)時の写真 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

上の3枚の写真は2010年に発掘調査された牽牛子塚古墳(斉明天皇陵?)も八角形と

解説される多摩大学 客員教授の河合敦さん

私も牽牛子塚古墳についてブログを書いています。(下のリンク)

 奈良県立橿原考古学研究所 土曜講座 「牽牛子塚古墳外周部の調査」 on 2016-8-6 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

番組では中尾山古墳がどのように造成されたかを判り易く図示(上の6枚の写真)

500トンの石が使用され約2万人の人が動員されたと推定。

中央部の高さ5m、対辺長19.5mの3段構造

これから被葬者が眠る石室へと調査が進みます。

上の3枚の写真は石室の外観

鎌倉時代に盗掘され遺物はなし。盗掘の隙間は25~26cm

上の写真は石室の内部 水銀朱が確認されています。

約0.9m四方の石室寸法であり、被葬者は火葬されたことが判明。

上の写真は石室の構造で10個の巨石で構成

天井部の石は約30トンの花崗岩 側面の石(8つ)は竜田石(高砂市より運搬の凝灰岩)

底面部の石は黒御影石

底面部には骨壺を置く基壇跡や排水のための溝加工がされている。

10個の石の総重量は約60トンで段丘に使用された石500トンを加えて計560トンの石材が

使用。高松塚古墳の約4倍の石材が使用されています。

 

被葬者は誰か

火葬されていたことから、僧道昭(629-700)、持統天皇、文武天皇の3人に絞る

 道昭は風葬、持統天皇の骨壺が42cmの寸法ということから被葬者は文武天皇と結論

但し、宮内庁が文武天皇陵と比定されている御陵があるために確定までとはしなかった。

火葬については下記ブログで纏めています。

 火葬のはじまり - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

Wikipediaから文武天皇の基本情報
第42代天皇
天皇在位期間 697年8月22日 - 707年7月18日
元号 大宝、慶雲
先代 持統天皇   次代 元明天皇
誕生 683年   崩御 707年7月18日
御名 珂瑠(軽) =かる
異称 倭根子豊祖父天皇
    天之眞宗豊祖父天皇
父親 草壁皇子
母親 阿陪皇女(元明天皇)
夫人 藤原宮子
子女 首皇子(聖武天皇)
皇居 藤原京
さらにWikipediaの解説で下記のように書かれています。
公式記録の続日本紀には妃・皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は
皇族出身であることが条件であり、夫人の藤原宮子が妻の中で一番上位
であった。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上
から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、
将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、
何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から
漏れた(消した)とされる。

このことについて梅原猛著『黄泉の王』では、万葉集を根拠に紀皇女こそ
妃であったが 弓削皇子と密通し、それが原因で妃の身分を廃されたという
仮説を述べている。紀皇女については記録が殆ど残されておらず、
将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から抹消されたと
いうことであるが、真相は不明である。

第42代 文武天皇の時代の事績として大宝律令の制定(701)及び

日本国号の制定(702)があります。

 関連ブログ:

  倭国から日本国になった年は大宝2年(702) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

おまけとして骨壺として

上の写真は皇室ゆかりの品々を展示する皇居、東御苑の三の丸尚蔵館に所蔵の

明日香村古宮遺跡出土の金銅四鐶壺(こんどうしかんこ)が文武天皇 or 持統天皇

骨壺か?の話題に・・・・・・・

上の写真は持統天皇の骨壺(国立奈良文化財研究所の展示より)

骨壺の寸法が約40cmであり下の写真の持統天皇に関する文書からこの骨壺は

持統天皇の骨壺ではと推論

しかし、奈良文化財研究所飛鳥資料館が2003年に実施したX線分析で浮かんだ孔雀の

画像から持統天皇の骨壺ではないとの反論あり。(下の写真はX線の分析機)

 

上の4枚の写真は反論の根拠を示した奈良文化財研究所の加藤真二さん

 

疲れてきたのでこの辺で下記の関連事項を添付して筆を置きます。

 

現地説明会資料(2020年11月28日(1300人)&11月29日(1500人)に実施)

25.pdf (asukamura.jp)

 

プレスリリース「奈良県明日香村・中尾山古墳 文武天…|最新情報 一覧|大学広報・プレスリリース|関西大学について|関西大学 (kansai-u.ac.jp)

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法隆寺 百済観音

2021年04月29日 05時11分42秒 | 奈良情報

2021年4月21日、BSプレミアム(NHK・BS3)「見たことのない文化財 百済観音

という番組の一部を視聴した。この番組での写真をを利用して百済観音の実像を探る

とともに2021年4月22日、同じくBS3で放映(再放送)の「2時間でまわる法隆寺」

で紹介された「百済観音」の写真を利用してこの仏像の魅力に迫りたいと思います。

 

百済観音は俗称で仏像としては木造観世音菩薩立像と呼ばれ飛鳥時代に彫られたもの

であるが記録としてでてくるものは江戸時代からで謎の多い仏像である。

国宝指定は昭和26年(1951)6月9日。 像高 209.4cm

元禄11年(1698年の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」と
記載されているのが初出の文献です。

百済観音という名前について、明治時代まで法隆寺ではこの像を観音ではなく
「虚空蔵菩薩」と呼んでいた明治44年(1911年)になって、寺内の土蔵から
百済観音像の宝冠が新たに発見され、その宝冠の正面に阿弥陀如来の化仏(
けぶつ、小型の仏像)が刻まれていることから、寺側でもこの像を「観音菩薩」
と認めざるをえなくなったそうである。

以上は下記ブログより再掲載

 法隆寺 on 2015-12-20 その10 (最終回) 法隆寺大宝蔵院の百済観音 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の2枚の写真は東京国立博物館に運ばれCTスキャンで分析された百済観音

東京国立博物館では「法隆寺金堂壁画と百済観音」 当初予定会期:2020年3月13日(金)

~5月10日(日)で開催予定でしたがコロナの影響で中止となりました。

そこでYoutube動画で鑑賞してください。

東京国立博物館「法隆寺金堂壁画と百済観音」

門外不出の百済観音ぐるぐる巻きに? 法隆寺で上京準備

上の3枚の写真はARを用い、その姿を模刻する試みにも挑戦の場面。

顔の部分はクスノキ 部位によりしようされている材種が異なっています。

上の5枚の写真は「2時間で見てまわる法隆寺」で紹介の百済観音

 

 

上の2枚の写真は「2時間で見てまわる法隆寺」で紹介の1997年6月仏ルーブル美術館

で特別展示の百済観音と仏よりバーターで送られてきたドラクロウ作の油絵

「民衆を導く自由の女神」

 

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「紀州のドン・ファン」不審死 殺人容疑で元妻逮捕

2021年04月28日 05時48分30秒 | Gooニュース

3年前の平成30年(2018)の「紀州のドン・ファン」不審死 殺人容疑で元妻逮捕

こんなニュース速報がNHKで報道されていました。

速報としてブログを作成しました。

元妻で東京に在住の須藤早記容疑者が逮捕されたとのニュースです。

須藤容疑者は平成30年5月に和歌山県田辺市の自宅で当時夫で紀州のドン・ファンと

と呼ばれていた会社社長の野崎幸助さん(当時77歳)を急性覚醒剤中毒にさせて

殺害したとして殺人の疑いが持たれており逮捕されたものです。

資産家“紀州のドン・ファン”不審死で元妻を殺人容疑で逮捕 | NHKニュース

 

須藤早貴容疑者(25)は東京 品川区の自宅マンションで逮捕されたあと白いワゴン車に

乗せられて4月28日午前5時半すぎに建物を出ました。

 

報道関係者が詰めかけてフラッシュが多くたかれていた様子が報道されていました。

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岩国の人材を育てた英国人教師Herbert Augustus Stevens(改訂版)

2021年04月28日 04時04分01秒 | 岩国情報

2005年1月19日に表題と同じブログ記事を書いています。

今回、新たな資料も加えて書き直すことにしました。

明治4年(1871)2月2日、岩国藩は人材育成の重要性から、藩校養老館の精神を引き継ぐ

藩立岩国学校を開設した。小学、中学に加え語学、女学、医学を備える先駆的な体制

であった。しかし、問題が一つ。岩国には外国語の教師がいなかった。そこで藩主の

吉川経健は私費の家禄から経費を捻出し、現在の価値で200万円ともいわれる月給を

払い、英国人教師(Herbert Augustus Stevens以下、スティーブンス)を雇用した。

明治4年5月27日契約、8月16日から勤務。勤務地は岩国英国語学所

その英断が、日本の電気の父と称される藤岡市助(東芝創業者)など、岩国は

もとより、国の発展をかなえる多くの人材を生むことに繋がった。

以下は以前に書いた記事を再掲

英国人教師Herbert Augustus Stevens
(1847 3/27---1878 5/3病死)
明治4年(1871)5月27日より明治6年(1873)8月23日までの
2年間Stevensは山口県出張御雇教師として英語にて物理、化学
歴史、地理を教えた。場所は現在岩国資料館となっている当時の
岩国学校である。
藤岡市助(日本のエジソン---東芝の創始者)、大屋権平(鉄道の発展に
寄与)、山県修(大阪造幣局)、江木哀&渡辺安積(中央大の創立に
参画)他多くの有名人を傑出した。
彼は2年間の契約終了後は神戸の裁判所に勤務している。
彼の墓は神戸市立外人墓地にある。
岩国ではStevensの後、仏人ミットンが外人教師となっている。

上の写真は明治4年(1871) or 明治5年(1872)に撮影された写真をもとに

上田えいこさんが描いたイラスト画 「スティーブンスと弟子」 

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

岩国観光振興課のサイトにベースとなった写真が掲載されていましたのでリンク

させていただきました。

このサイトにはステーベンス先生の略歴、功績についても記載されています。

 たった2年の 偉大な学校 岩国英国語学所 | 岩国観光振興課-岩国 旅の架け橋 (iwakuni-city.net)

 

上の写真は明治前期の岩国小学校の全景 出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

右手上に岩国学校があった現在は岩国学校教育資料館となっています。

上の写真は「追憶」と名付けた筧良一郎さん撮影の作品 岩国学校のイメージ

出典:岩国学校教育資料館が作成の絵葉書

 

H.A.スティーブンスの生没年月日と墓所

 生まれ:1847年3月27日 英国海峡Jersey島(ジャージー島)St.Helierで生まれる

 没年 :1878年5月3日(31歳、神戸で死去)

 墓所 :神戸市立外国人墓地 (O 4-25)機会をつくり墓参したい

 

岩国学校(外国語学所)での報酬(2年間)

 期間:1871年(24歳)から1873年の2年間

 報酬:支度金 100ドル、初任より6か月 月100ドル 次の6か月 月150ドル

    2年目は 月200ドル  2年間無事に満了時 300ドル

 時間:日曜日と祭日を除き 毎日 6時間 (実際には朝から16時まで)指導

 

岩国学校での指導科目

  英語、仏語、数学、代数学、地理学、史学、天文学

  指導はすべて英語で教えられた

 

スティーブンスの弟子

 藤岡市助をはじめ、帝国図書館(現・国立国会図書館)初代館長となった田中稲城

 中央大学を興した法律学者・渡辺安積及び江木哀、日本の鉄道発展に貢献した

 大屋権平、大阪造幣局で技師として活躍した山県修、など優秀な人材を輩出した。

 その他弟子で名前が判っている人物は小田周太郎、栗屋雪城、笠井環、佐伯成言

 

 藤岡市助については下記ブログで纏めています。

  日本のエジソン 藤岡市助 山口県岩国市が生んだ偉人 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

  岩国市岩国美術館前に建立された日本のエジソン藤岡市助博士の銅像 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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垂水体育館の建設工事の壁に写真展示 on 2021-4-20

2021年04月27日 04時34分05秒 | 神戸情報

平磯緑地にある垂水スポーツガーデンの敷地内で建設が進められている垂水体育館

の壁(仮囲い)で垂水区内の写真(100点)が展示されています。

垂水体育館の建設計画とともに写真紹介します。写真撮影は2021年4月20日

垂水体育館の建設計画と現況

上の写真は垂水体育館建設現場(左手)の遠景です。

上の写真は建設計画の掲示です。

着工:令和2年(2020)10月1日 完工予定:令和4年(2022)2月1日

建設現場住所:神戸市垂水区平磯1丁目1700番の一部   敷地面積:30,500㎡

建築物の延べ面積:増設部分3,482㎡ 全体5,584㎡

上の写真は下水処理場を含めた垂水スポーツガーデンの案内図でその中の垂水体育館

建設現場の位置を示しました。

垂水体育館の紹介。 令和4年(2022)4月にオープン予定

 

上の写真は新垂水体育館のイメージ図

写真展示

令和2年12月22日から令和3年1月31日の募集期間中に1217件の応募があり入賞作品

及び選択された作品100点が掲示されています。

令和3年3月末~11月に掲示されているそうです。

垂水ええとこフォトコンテスト 第2弾に関して神戸市のサイトに入賞作品などの

詳しい紹介をされています。(下記サイト)

 神戸市:垂水ええとこフォトコンテスト第2弾の入賞作品を紹介します (kobe.lg.jp)

上の3枚の写真はグランプリ、準グランプリ、優秀賞などの入選作品が掲示されている場所です。

上の2枚の写真は写真掲示の遠景

上の写真はグランプリ作品 akane0084towakanaさんの作品

上の写真は準グランプリの作品  kxphovyさんの作品

 

上の6枚の写真は私が気に入った作品です。

 

最後に神戸市垂水区において進められてリノベーション計画の全体概要を

紹介して筆を置きます。リーフレットより引用

 

最後に神戸市垂水区が作成したPR動画(Youtube)を添付しておきます。

垂水で暮らす 〜海を身近に感じながら〜

 

神戸新聞の報道(2021-5-24)にリンクしておきます。

 街のええとこ捉えた100枚 神戸・垂水の海辺で作品展|神戸|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

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千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果

2021年04月26日 05時09分11秒 | バーチャル探訪

2021年 4月24日(土) 14:00〜14:54 BS・TBSで歴史鑑定天正遣欧少年使節の悲劇』

という再放送番組(2018年7月に本放送)を視聴しました。

この中で「千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果」について元長崎歴史文化博物館

研究グループリーダーの大石一久さんが解説されていましたので写真紹介します。

本論に入る前に千々石ミゲルについて概要を記載しておきます。

 

千々石ミゲルの生涯概要

千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)頃~ 寛永9年12月14日

(新暦換算1633年1月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。
「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)で棄教後は千々石清左衛門。
肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。

  以上はWikipediaよりの引用

千々石ミゲルはイエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、
4人の中では唯一棄教してキリスト教から離れたと伝えられている。

 戒名 本住院常安 墓所は伊木力

ローマから帰国したのは天正18年(1590)6月。

で伝道師となるための修業を積んだ。天正19年(1591)豊臣秀吉の聚楽第に

招かれた4人は渡欧で習得した洋楽器による演奏を披露したさらに秀吉から仕官の要請が

あったが一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙階を受けるべく天草にあった
ノヴィシアード(修練院)に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(159)年7月25日、

他の3人とともにイエズス会に入会した。だが千々石ミゲルは次第に神学への熱意を
失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であった

マカオ留学への出発も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。
欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、
欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。

千々石ミゲルはただ一人、キリスト教を棄て仏教徒になった。
棄教後は名前を清左衛門せいざえもんと称し大村藩主(大村喜前)に仕えるが、冷遇され
長くは続かなかった。愛妻との間に4人の子供を授かったといわれているが、
晩年をどう過ごしたのか、詳細は謎に包まれている。

慶長8年(1603)千々石ミゲルはイエズス会の名簿から削除されています。

千々石ミゲルの棄教に関する文書(大村文書)と天正遣欧使節に関して下記ブログで

書いていますので、よかったらご覧ください。

 天正遣欧使節 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

棄教後の千々石ミゲルについてWikipediaで詳述されえちましので引用添付します。

 上の写真は千々石ミゲル
慶長6年(1601)、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。
棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ
従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。
大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。

ミゲルは棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は
異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。
また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、
さらに領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じないように諭したという。
イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された
伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を
見聞きして来たミゲルが反キリストに転じたことは宣教師達の威信を失わせた。

こうした出来事は、後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教と
キリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある[要出典]。
ところが、喜前が治める大村藩内はバテレン追放令後も布教が盛んであったため、この方針は
キリシタン派の反発を招き「大敵は喜前、その根源は清左衛門(ミゲル)」とされた。
喜前はミゲルを藩政から遠ざけさせただけでなく、この騒動の鎮静化を図るために
見せしめ的に処罰した。さらに島原の日野江藩に身を寄せるも、
本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった
有馬晴信の遺臣に瀕死の重傷を負わされる暗殺未遂が起きるなど、親キリシタン派からも
裏切り者として命を狙われ、長崎へ移り住むに至る[1]。
晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で
子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されており、領内で隠棲したものと考えられる。

伊木力の伝承では、大村喜前に対する恨みを弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという。

千々石(ちぢわ)ミゲルの墓所の基本情報

 所在地住所:長崎県諫早市多良見町山川内

 アクセス:JR長崎本線「大草駅」下車、長崎県営バス「下川内バス停」を南へ徒歩10分

 公式サイト:千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)

  これまでの調査という項目で過去の発掘調査の経過と成果の詳細が記載されています

上の写真は千々石ミゲルの墓所の位置をGoogle地図の上に示しました。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の遠景

上の2枚の写真はストリートビューよりで千々石ミゲル夫妻の墓所への入り口です。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の近景

上の写真は番組の中で解説される大石一久さん。

 

大石は法華宗寺院である琴海戸根町(旧戸根村)の本住山自證寺に残る浅田家

(千々石ミゲルの末裔)の位牌を調査した結果

墓碑には妙法の文字と千々石ミゲルの戒名 本住院常安とミゲルの妻の戒名 

自性院妙信 及び命日 千々石ミゲルが寛永9壬申年12月14日(新暦換算1633年1月23日)

ミゲルの妻が寛永9年12月12日(新暦換算1633年1月21日)

 

上の写真は2017年の第3次発掘調査(2017年8月20日ー9月20日)で出土の遺物

上の写真は長崎県教育委員会の「埋蔵文化財調査年報26 平成29年度調査分」Page10

(2018)出土遺物「棹(さお)通し」のクリーニング&保存処理の結果を示したもの。

さらに、ガラス製品(65点)の成分分析(蛍光X線分析)も実施された。

上の写真は発掘調査の結果からミゲルが最期まで信仰を保っていたことを示していると

語られた元長崎歴史文化博物館研究グループのリーダー大石一久さん。

イエズス会は脱会したものの信仰そのものを捨てたわけではないという結論。

千々石ミゲルは転び(棄教)したと後世まで裏切者扱いされ世間では「鬼の子」とまで

酷評されていたが上述のように信仰を捨てていなかった事が確定できれば名誉回復に

つながると期待されます。

千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会は、屈葬で墓石に戒名を刻みキリシタンの副葬品を

納めるという状況から潜伏キリシタン的埋葬状況だったと理解。

上の写真の右手下に地下レーダー探査の結果(真上から見た図)が示されています。

ミゲルの妻の墓壙(第3次発掘調査)の左手に方形の墓壙があることが事前調査で

判明している。(ミゲルが埋葬されている?)こちらを2021年8月から約2か月の予定で

発掘するとのこと。

 下記サイトに詳しく記載されています。

 天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土 : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土

天正少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる石碑(長崎県諫早〔いさはや〕市)の発掘調査が8月20日から始められ、8日、そこから「ロ...

クリスチャントゥデイ

 

 

 天正少年使節の千々石ミゲルの墓続報 出土の歯は25~45歳女性 、ミゲルの妻のものか : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

発掘調査に関する報道

発掘の骨はミゲル妻か 長崎・諫早の石碑調査 産経新聞記事(2017-11-12)
  https://www.sankei.com/west/news/171112/wst1711120030-n1.html

 内容要旨:

 16世紀末の天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの墓とみられる長崎県諫早市の

 石碑を2017年9月まで調査した市民グループは11月12日、発掘した人の骨や歯の鑑定結果

 について「20~40代の女性のものの可能性が高く、ミゲルの妻とみられる」と

 明らかにした。(骨や歯は長崎大学などの専門家が鑑定)

朝日新聞 2017-9-8記事
 https://www.asahi.com/articles/ASK984W3WK98TIPE01P.html

 内容要旨:

 ミゲルの子孫や地元の歴史愛好家、専門家らでつくる発掘調査実行委員会が8日発表した。

 実行委によると、見つかったのは、真ん中に穴が開いた直径2~5ミリのガラス玉計59個(5色)
▽長さ2・6センチの半円形のガラス板
▽人の歯とみられるもの――など。板と一部の玉は欧州で作られたアルカリガラス製の可能性が高く、
玉はロザリオなど、板は聖骨の入れ物のふたの可能性があるという。

 (施錠された長持ちを転用した木棺と思われる)

 諫早市多良見町伊木力(いきりき)地区にある石碑は2004年、元長崎歴史文化博物館研究グループ
リーダーの大石一久さん(65)が、地区は大村藩に仕えたミゲルが藩主から与えられた土地であることや、
石碑の裏にミゲルの子の名前が刻まれていることなどから、ミゲルの墓とほぼ特定した。

 (ミゲルの子供は4男の玄蕃)

 今回の発掘で、出土した陶磁器の年代から、17世紀前半の墓坑とみられ、石碑の没年と合致
▽木製の棺の上に石板を敷くなど丁寧な埋葬方法▽キリスト教の聖具とみられるものの発見――などから、
ミゲルの墓の可能性がさらに強まったという。

 16世紀のキリスト教世界の繁栄を目にしたにもかかわらず、ミゲルは帰国後の1601年ごろ、
イエズス会を脱会。4人の中で唯一棄教したとされてきたが、明確な理由はわかっていない。

 大石さんによると、16世紀末~17世紀、修道会同士の対立や寺社の徹底破壊など様々な問題が
噴出していたという。「(日本という)異文化に適応しようとしなかったイエズス会に、
ミゲルは異を唱えたのでは。信仰そのものを捨てたわけではないと思う」

毎日新聞 2017-9-2記事

 千々石ミゲルの墓:発掘調査 木製の棺跡発見 /長崎 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 内容要旨:木製の棺(長さ1m、幅60cm)に屈葬されていた。

記者発表資料:これまでの調査 | 千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)

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皇居で新たな江戸時代初期の石垣発見 

2021年04月25日 06時23分16秒 | 東京情報

2021年4月14日、NHKテレビ朝のニュースで表題のニュース報道を観ました。

上の2枚写真は石垣が見つかった現場を示したもので皇室ゆかりの品々を展示する皇居

東御苑の三の丸尚蔵館脇で尚蔵館の建て替え工事をしている現場で見つかりました。

4月13日、東京都千代田区が報道陣に公開されました。

石垣は埋め戻しされ保存されるので、今後このような写真を見ることが出来ない貴重な

ものですので、記録としてブログ記事としました。

 

石垣の幅16m、高さ4mほどで乱積みという手法で積み重ねられています(上の2枚の写真)

石垣は7段程度積み上げられています。

「乱積み」と呼ばれる技法は石の表面や接合面を平らになるよう加工したうえ、大小の石を

積み込んでいく手法です。

上の写真は丸い石がしようされている石積の一部

報道陣に説明をされている場面

石垣の多くが水に浸かっていたと推定

水堀のための石垣の一部だったとみられ、表面には当時の水流とみられる帯状の白い線が

残っていた。石垣下部の4~5段まで水があったとみられる。

造られたのは約400年前、江戸時代初期 慶長期後半~元和期(1610~1624)

私の持っている江戸城に関するデータでは慶長11年(1606)、元和8年(1622)に

築城の文書が残されている。

 

刻印は普請した大名を推定する手がかりになる可能性があります。

採取した土壌の分析や石垣の観察結果などをもとに、江戸初期の自然環境や築城の様子

について、新たな発見があるのではないかと期待されています。(上の写真)

石垣は、崩れたりするおそれもあるため、今後、埋め戻して保存される予定。

発掘調査に加わった国立歴史民俗博物館の小野正敏名誉教授は「これまで江戸城の初期の

姿はほとんどわかっていなかった。こうした資料が出てきたことで、江戸城の研究も

ひとつの大きな転機を迎えると評価できる」と話されています。(上の2枚の写真)

 

報道機関が作成したYoutube動画を添付しておきます。

Kyodo News 400年前の江戸城石垣か 「最初期」、皇居で発見

 

時事通信映像センター

皇室ゆかりの品々を展示する皇居・東御苑の三の丸尚蔵館脇で、現存する最古とみられる江戸城の石垣が見つかった。同館の建て替え工事に伴い発掘調査していた東京都千代田区が4月13日、報道陣に公開した。

最古の江戸城石垣か 皇居内で発掘、当時の姿で

 

日経新聞社

皇居で江戸城の石垣発掘 最古の遺構か

 

今後の発掘調査の成果についても追跡していきたいと思っています。

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神戸開港を主導した外国奉行「柴田剛中」について

2021年04月24日 03時52分54秒 | 神戸情報

神戸開港を主導した外国奉行兼大坂町奉行所兼兵庫奉行の柴田剛中(1823-1877)

について神戸でも名前は聞いたことがあるが詳しいことは判らないという人が多い。

私もその一人である。そこで柴田剛中(しばたたけなか)について調べてみました。

まず、Wikipedia(一部加筆)より柴田剛中の一生を俯瞰することとします。

柴田 剛中(しばた たけなか、文政6年1月17日(1823年2月27日)-
明治10年(1877年)8月24日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府
旗本・外国奉行。文久遣欧使節。通称は貞太郎・日向守。雅号は恬斎。

生涯・人物

江戸小石川に徒目付・柴田良通の長男として生まれる。幼名は真太郎。
10歳のときに父が急逝し、天保13年(1842年)に徒目付となる。
子供の頃より頭脳明晰で昌平黌(しょうへいこう)=湯島聖堂に入門、推薦で
幕府官僚の道を選んだ。

上の写真は湯島聖堂=昌平黌  撮影:2007年
嘉永6年(1853年)に評定所配属となり、安政元年(1854年)に留役助、
翌年には留役になった。安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり
100俵を給され(計125石)、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させた。
その後も外国人殺傷問題(生麦事件など)や通貨問題などで欧米外交団との
交渉の窓口となり、文久元年(1861年)には100俵の加増を受ける。

文久遣欧使節

文久2年(1862年)12月に幕府が派遣した遣欧使節(文久遣欧使節)の組頭として
ヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたった。翌年12月に帰国後直ちに
外国奉行並に任じられ、翌年11月に外国奉行として箱館派遣が決定され、
翌月には諸大夫に任じられた。慶応元年(1865年)閏5月に製鉄所建設及び
軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣された。
7月にフランスに入った柴田らはフランスとの製鉄所建設と軍事教練に
必要な協定を締結することに成功するが、薩摩藩との関係を強めつつあった
イギリスとの交渉には成功しなかった。11月にフランスを出発し、翌年1月に帰国した。

帰国後

帰国直後、外国奉行並(場所高千石)に昇任し、文久3年に外国奉行として函館に赴任し、
諸太夫になった[1]。慶応元年、製鉄所建設と軍事調査のため再び仏英に派遣され、
同年末帰国[1]。慶応3年(1867年)5月13日には大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して、
当時八部郡二茶屋村にあった善福寺を宿所とし、もっぱら外国人居留地問題などの
外交問題を担当した。神戸港に関しては、運上所や埠頭・居留地の造成、
西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)などを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、
大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。開港当日、柴田剛中は、まず税館(運上所)を開き、
英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等出席の下、開港式典が行われ、西洋の新年への賀と
兵庫開港・大坂開市の賀を申し述べる旨の宣言書を読み上げた。

慶応4年(明治元年/1868年)の鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の江戸城引揚
に際して運上所施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を
罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある上総国山辺郡富田幸谷村に退いた。
その後もその見識と人物を評価されて明治政府より出仕要請が出されるが、これを辞退する。
ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。

引退後、東京では神田淡路町に屋敷を構え、こちらで亡くなっている。 
墓は台東区下谷の随徳寺にあったが、関東大震災で損壊し、
現在は過去帳のみにその名前が記載されている。

柴田家は三河の忍を配下に持つ家系で、家訓は「生延びよ。」 イギリスの学者ストーム
によると柴田剛中はグラバーに対抗するために隠密を暗躍させており、それらの中には
廻国者集団の「柴田連中」などがあった。

赤字は神戸開港に関する記述

上の写真は文久2年(1862年)オランダにて文久遣欧使節の仲間とともに。

右から柴田剛中、福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎

出典:Wikipedia

 

神戸開港、正式には兵庫開港を迫る欧米列強に屈した幕府は慶応3年(1867)5月、

勅許を得て柴田剛中を兵庫開港主管者に任じます。

柴田剛中は遅延がちな工事の督促や施設計画、開港関連の外交諸務などを懸命に行い

「ビードロの家」と呼ぶ運上所や倉庫の建設さらに3本の波止場、外国居留地の整地

なども期限内に完成させた。いわば神戸の恩人の一人でもある。

慶応3年(1867)12月7日(新暦換算1868年1月1日)神戸開港のセレモニーを取り

仕切った柴田剛中はセレモニー終了後、何故か漁民に変装し江戸へと逃亡した。

「ええじゃないか」の大騒音と狂乱の踊りに追われるように海上に消えたという。

上の写真は青山大介氏の力作です。 撮影:2017-1-13

神戸開港当時の絵(原画は1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン 
ニュースで英国海軍 F・J・パーマー中尉代理が描いたもの)では神戸開港を祝う
18隻の英米仏の艦船が描かれて精巧に描かれています。

旗艦「ロドニー」は1833年にイギリスのベンブロークの造船所で進水した英国海軍の
第2級戦艦です。建造当初は98門の大砲を装備した帆船でしたが1860年にイギリスの
チャタム造船所で蒸気機関によるスクリュウ推進に改造。その後、中国駐留艦隊の所属となる。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)の神戸開港を祝うために集まった英米仏の外国艦船
18隻のうちイギリス艦船12隻の旗艦として神戸に来航し、21発の祝砲を放ち世界に向け
神戸の開港を祝いました。1882年にその役目を終え解体されました。

ロイヤル・サルート(祝砲による儀礼)とイラストレイテッド ロンドン紙に関して

詳細は下記ブログで記載。


 神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

動画も添付しておきます。

神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

 

開港当時の波止場や居留地の様子については下記ブログで書いています。

 明治40年(1907)第一期修築工事起工以前の神戸港 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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若き日の習近平国家主席(37歳)が神戸市を訪問 on 1991-5-24

2021年04月23日 05時13分48秒 | 神戸情報

中国の習近平国家主席は平成3年(1991)5月24日、神戸市諏訪山公園の

ビーナスブリッジを訪れ、記念写真に納まっていたと神戸新聞が2019年6月24日の

夕刊で報道していました。

上の写真がその写真で中央が習近平国家主席です。

当時は福建省の省都福州市のトップで、まだ37歳。今よりもやや細身で、口元に

笑みを浮かべている。神戸の福建華僑の人達が案内接待をしたとされています。

来日の経緯は当時の神戸福建同郷会のメンバーが代替わりで不明であるが、伝え聞く

ところ、福建省と姉妹都市の長崎県や沖縄県を訪問した際、神戸にも立ち寄ったとのこと。

詳細は神戸新聞NEXTのサイトで記載されています。

 神戸新聞NEXT|総合|若き日の習近平氏 神戸ビーナスブリッジでの一枚 (kobe-np.co.jp)

1993年10月にも習近平国家主席は友好代表団の一員として来日し大阪で京阪神の華僑と

宴席を囲む写真が残っているとのこと。

写真は関帝廟の前にある福建同郷会館に展示されています。

上の写真はビーナスブリッジからの神戸市の景観と愛の鍵のモニュメント付近です。

 

神戸華僑の歴史については下記のブログで纏めています。再掲載します。

 福建商業会議所の石碑 in 福建会館ビル on 2020-9-16 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

神戸華僑の歴史は1868年の神戸港開港とともに始まります。最初は長崎から移住

してきた人達であった。華僑は故郷とのつながりを大切にします。戦前から神戸

では、広東、福建、そして三江(浙江、江南、江西)の3つの地域から来た華僑が

夫々、広業公所(広東系)、福建公所(福建商業会議所)、三江公所(三江商業会)

の3団体が作られました。

広業公所は現在その役目を終え解散している。海岸通のKCCビル(華僑歴史博物館が

2階に入っている)の海側に記念碑がひっそりと残っているのみである。

福建公所(福建商業会議所)は現在も財団法人福建会館として活動しています。

主に福建の南部の閩南(びんなん)の人々が中心で戦前は台湾出身の人々も出入り

していた。三江公所(三江商業会)は昔は福建公所に隣接してあったが、現在は

三江会館といい、多聞通の神戸地方裁判所近くに移転しています。

尚、福建公所の前身である神戸八閩公所は明治3年(1870)に設立されています。

華僑を代表する団体として1909年5月、当時の駐日領事の勧告で、神戸中華商務総会

が設立されました。事務所は1893年に創建の中華会館に設置されました。

会長や理事は広江公所、福建公所、三江公所が輪番で担当。

1911年11月、神戸の華僑が当時の辛亥革命政権を支持するため、清政府と直接関連

する中華商務総会が「中華民国僑商統一連合会」に改称され、1912年3月に連合会が

解散され、商務総会の名称に戻ったが、1918年中華民国商会法により神戸中華総商会

と改名した。

戦後は華僑総会が華僑を代表する機関として総領事館や県市の窓口となっている。

現在は大陸系の神戸華僑総会(下山手通)と台湾系の留日神戸華僑総会(北野町)の

二つが活動しています。

 

習近平国家主席が主導する中国の最新の五中全会2020と全人代2021について簡単に

纏めておきます。

五中全会2020

中国共産党第19期中央委員会第5回全体会議(五中全会)は2020年10月26日~

10月29日に開催されました。

要約

(1)習主席の後継者を示唆する重要人事があるとの観測があったが、なかった。

   2022年秋に開催される予定の第20回党大会では、内規の年齢制限にかかわらず

   習近平氏が最高指導者として続投する可能性が高い。

(2)2021年~25年の経済運営目標「第14次5カ年計画」では米中対立の長期化を

   にらみ、成長の軸足を外需依存から内需主導型への移行を目指す新政策「双循環」

   が盛り込まれた。具体的な成長率2021年3月の全人代で決定される予定。

(3)2035年までの国家戦略を先進発展国家の水準に引き上げるとし、高齢化や環境問題、

   貧富の格差などを課題に挙げた。2019年の中国の一人当たりのGDPは1万ドル余

   (10,162ドル)

  関連サイト:

   中国共産党第19期五中全会コミュニケの要点--人民網日本語版--人民日報 (people.com.cn)

 
全人代2021
 第13期全人代第4回会議は2021年3月5日から3月11日に開催されました。

 (1)2021年の国内総生産(GDP)成長率の目標は6%

 (2)2021年から2025年の経済目標「第14次5か年計画」で成長率目標設定せず

 (3)2035年までの長期目標で1人あたりGDPを中進国の水準に引き上げ

 (4)香港の選挙制度に明らかな欠陥があるとして見直しを提案

 (5)2021年予算案で前年比6.8%増の国防費計上。2020年予算案より伸び率拡大

 

 関連サイト:

  2021年全人代の政府活動報告要旨: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 
最後に最近の習近平国家主席の写真を添付して筆を置きます。

 

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なぎさの池 in 神戸市西水環境センター垂水処理場 on 2021-4-20

2021年04月22日 05時52分37秒 | 神戸情報

神戸市西水環境センター垂水処理場の東系水処理施設が2011年5月に完成し
最終処理水の回流池(最終沈殿池)を兼ねたなぎさの池が整備され神戸市民の憩い
の場として整備され開放されたのは平成26年(2014)4月15日のことである。

2021年4月20日にウォーキングを兼ねて寄りましたので写真紹介します。

下水処理場の話も含めたブログは下記で書いています。

 なぎさの池 in 神戸市西水環境センター垂水処理場 on 2015-5-21 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真はパーゴラを中心に撮りました。背景は塩屋の街並み。

上の写真はなぎさの池と背景の旗振山&須磨浦山上公園

上の写真はなぎさの池と背景の下水処理場&滝の茶屋

上の写真は山陽電車を背景に撮ったなぎさの池

 

上の3枚の写真はクローバーを中心に撮ったものです。

上の写真は両岸を結ぶ中州

中州付近から撮ったなぎさの池の遠景

上の写真は中州付近で泳ぐ鯉

上の3枚の写真はなぢさの池で見ることができる鳥

 

ichiro kobeさんが撮ったYoutube動画をGooで共有させていただきました。

なぎさの池の水鳥たち-神戸市垂水区-2017 03 25

 

こちらではコロナの心配も少なく自然の景色を楽しみながら散歩でき、健康管理に

最適な場所だと思います。

最後になぎさの池からジェームス山方面を撮った写真を添付して筆を置きます。

ジェームス邸の橙色の瓦が見えます。

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