CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

鑑真大和上と唐招提寺

2017年12月10日 05時28分10秒 | 奈良情報
唐招提寺には2012年6月7日に訪問し訪問記のブログを作成しました。(下にリンク)
 唐招提寺の御影堂の鑑真像、没後1250年を記念して特別公開 


唐招提寺はデジタル大辞泉の解説によれば
「奈良市にある律宗の総本山。開創は天平宝字3年(759)、鑑真(がんじん)の開山で、
ここに戒壇を設け律宗の根本道場とした。金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、
経蔵・宝蔵などは奈良時代の建物で国宝。薬師如来像・鑑真和上(わじょう)坐像(国宝)
のほか多数の文化財を所蔵。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして
世界遺産(文化遺産)に登録された。招提寺。」


最近BS-TBS高島礼子・日本の古都#90 2時間スペシャル 世界遺産歴史ミステリー
「鑑真と唐招提寺1200年の謎」(2017年9月8日放送)の録画を観たことも
あり表題のテーマで纏めてみることにしました。

乾漆鑑真和上坐像


上の写真は乾漆鑑真和上坐像です。 鑑真和上は
688年〈持統天皇2年〉生まれ - 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉没
像が鑑真の弟子の忍基(にんき)他が鑑真和上の死期を知り手作りで造立
したと伝えられる像でわが国初の肖像彫刻で国宝に指定されています。
脱乾漆像で重量は12Kgと軽く火事でもすぐに持ち出せ造立当時のものが残されて
います。出典:総合日本史図表 監修 坂本賞三、福田豊彦 第一学習者(1994)

鑑真和上、日本への渡海
鑑真和上は日本の2人の僧、栄叡と普照の懇願を受け入れ日本への渡海を決意したが
5回の失敗を重ね6回目で日本への上陸を果たした。

上の写真は中国揚州大明寺で鑑真和上に懇願する栄叡と普照

Wikipediaよりその経緯を追ってみる。

1回目 743年夏 鑑真55歳 渡海を嫌った弟子が港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」
    と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた

2回目 744年1月 鑑真55歳 周到な準備の上で出航したが
    激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

3回目 744年鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が
    逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。

4回目 744年 栄叡は病死を装って出獄に成功し、
    江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を
    立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を
    気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、
    4回目も失敗する。

5回目 748年 鑑真60歳 栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。
    懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月
    風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の
    漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、
    海南島に数々の医薬の知識を伝えた。751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を
    離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ
    向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の
    気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。


上の写真は海南島から揚州までの2,500Kmの旅程で鑑真の1番弟子祥彦(しょうげん)
と日本の僧栄叡(ようえい)が死去してしまう。出典:上述BS-TBS番組

6回目 753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ
    渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、清河は鑑真の同乗を
    拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を
    乗船させた。天平勝宝5年11月16日(753年12月15日)に
    遣唐使の四舟が同時に出航する。第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋
   (現在の沖縄本島)に到着。第三船はすでに前日20日に到着していた。
    3船は約半月間、沖縄に滞在する。12月6日(754年1月3日)に南風を得て、
    第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)(現在の種子島)
    に向けて就航する。 出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は
    岩に乗り上げ座礁したが、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した
    のち第一船はベトナム北部に漂着。第一船の一行は唐に戻ることとなる。
    7日後(七日去)の天平勝宝5年12月12日(754年1月9日)に益救嶋(現在の屋久島)
    に到着して鑑真の来日が叶った。鑑真66歳。
   朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。
   翌19日に遭難するも古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日(754年1月17日)に
   秋目(秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着[1]。 その後12月26日に、大安寺の延慶に
   迎えられながら大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日
   (754年3月2日)である。
(参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)


上の写真は遣唐使の4隻の船団が東征する様子 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は天平勝宝6年2月4日(754年3月2日)奈良平城京に到着の様子
 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は律宗の10の戒律


鑑真和上、日本での活動

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に
   隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
  孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する
  こととなった。
  4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた
  これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
 
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる
  労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
  鑑真大和上70歳

天平宝字3年(759年)新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
 戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、
                     日本にこれらの知識も伝えた。
 また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。鑑真大和上71歳

天平宝字5年(761年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
  大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に
  整備されていった。 鑑真大和上73歳

天平宝字7年(763年)5月6日唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳
   
唐招提寺

唐招提寺の基本情報

住所:奈良市五条町13−46 TEL:0742-33-7900
宗派:律宗 御本尊:廬舎那仏 開基:鑑真 759年創建

公式サイト:http://www.toshodaiji.jp/about.html

Goo地図を添付しておきます。
 


上の写真は唐招提寺の現地説明板(2012-6-7撮影)
唐招提寺と鑑真は井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった
さらの昭和55年(1980)には映画化もされ鑑賞した記憶があります。


唐招提寺の意味は「各地から集まった僧が住むところ」出典:上述BS-TBS番組

金堂


上の写真は金堂の建物(国宝) (2012-6-7撮影)
金堂は天平期に建立された建物で火災に遭っていないので建設当時に近い形で
残されている。当時の最先端の建築様式でパルテノン神殿と同じ8本の
エンタシス柱で重量を支えています。
唐招提寺は私寺であったため経済上の困難も多く、770年代に入り鑑真の弟子の
如宝らによって建立されました。

金堂は平成の大修理が平成12年(2000)より奈良県教育委員会文化財保存事務所の主導
によりスタートし平成21年(2009)11月の落慶法要まで10年をかけて実施されました。


上記修理の中で天平期の色を確認された。(上の写真)出典:上述BS-TBS番組


確認された色彩をベースにコンピューターグラフィックで金堂が再現された(上の写真)
出典:上述BS-TBS番組


金堂内の仏像彫刻




上の2枚の写真は金堂内の仏像で中央が乾漆盧舎那仏坐像、右は木心乾漆薬師如来立像
左は木心乾漆千手観音立像 3体ともに国宝  出典:上述BS-TBS番組

御本尊の乾漆盧舎那仏坐像の台座内組板に漆部造弟麻呂、物部広足、沙弥浄福などの
名が記されています。





上の2枚の写真は乾漆盧舎那仏坐像(国宝)のX線写真撮影風景と仏像の手の部分
から2つの水晶製数珠が見つかった(両手で4つ)鑑真和上が使用していた数珠か?
出典:上述BS-TBS番組


上の写真は平成の大修理の際に分解された木心乾漆千手観音立像 木心乾漆千手観音立像

金堂内には上記の三尊以外に木造梵天、帝釈天立像や木造四天王立像(いずれも国宝)
があります。


上の写真は木造梵天立像 出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造 帝釈天立像
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 持国天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 増長天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 広目天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 多聞天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


講堂


上の写真は講堂(国宝)平城京の東朝集殿を移築・改修された。
平城京の官庁を知る唯一の遺構である。
 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は平城京の東朝集殿(儀式の時に百官が参集する場所)
 出典:上述BS-TBS番組

鑑真和上坐像の里帰り

1980年に鑑真和上坐像は故郷中国の揚州の運搬され公開されました。









上の5枚の写真はその時の様子です。 出典:上述BS-TBS番組
 






 
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法楽山 専称寺と網干 善教先生

2017年09月11日 04時11分38秒 | 奈良情報
故網干 善教先生(あぼし よしのり、1927年9月29日 - 2006年7月29日)は、
日本の考古学者、関西大学名誉教授。専門は考古学、古代史、仏教史。
文学博士(関西大学、1979年)。昭和47年(1972)、関西大学助教授で
奈良県立橿原研究所所員だった時に高松塚古墳で彩色壁画を発掘されたことで
知られています。

古代文化研究会 月刊発掘情報 第3号(1997.11.1)に網干先生が1997年の
10月4日に関西大学で行われた考古学入門講座で高松塚古墳の発掘調査について
講演された内容の要旨が掲載(Page53-56)されていました。

高松塚古墳と網干善教先生について調べていたら法楽山 専称寺が先生の生家である
ことが判りましたので備忘録として残しておきます。


上の写真は法楽山 専称寺 撮影:2017-1-9






上の3枚の写真は都塚古墳の現地説明会があった時(2014-8-16)に撮影の専称寺

法楽山 専称寺の基本情報

住所:奈良県高市郡明日香村祝戸101
宗派:浄土宗 山号:法楽山  御本尊:阿弥陀如来


Goo地図を添付
 

網干善教先生についてWikipediaより引用紹介させていただきます。

網干善教先生の父の網干順三は梶井基次郎の異母弟。順三は1924年(大正13年)9月、
奈良県磯城郡桜井町(現・桜井市)の浄土宗大願寺の徒弟となり、その後宇陀に住む
マサヱと結婚し、1927年(昭和2年)9月29日に長男の善教が生まれた。
善教の生家は石舞台古墳のすぐ下にある専称寺という浄土宗の寺で、1933年(昭和8年)
から始まった第一次石舞台発掘調査に接して考古学に関心を持つようになる。
旧制畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)時代より、京都帝国大学考古学研究員で
あった末永雅雄(橿原考古学研究所初代所長、関西大学名誉教授、文化功労者、
文化勲章受章者)が陣頭指揮を執る石舞台古墳の発掘調査に参加するなど、考古学に傾倒し、
橿原考古学研究所に通いつめ、末永の薫陶を受ける。中学校を卒業後、佛教専門学校
(現、佛教大学)に学び、末永博士が教えていた龍谷大学文学部史学科へ進学。
以降、末永博士の講義を学部、大学院、その後と17年間聴き続けた。
龍谷大学大学院文学研究科修了。文学博士。関西大学助教授で奈良県立橿原研究所所員だった
1972年、高松塚古墳で彩色壁画を発掘、日本中に考古学ブームをもたらした。
その後、末永雅雄の後任として関西大学文学部教授、同博物館長を経て名誉教授。
その後、佛教大学講師などを歴任。末永門下で三羽烏の一人(他に森浩一、伊達宗秦)。


網干善教先生について紹介したサイトへのリンク
 http://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/70/21_greatman/index.htm

 http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200705070108.html

高松塚古墳と被葬者について紹介したサイトへのリンク
 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_24.htm

2017年5月12日(金)放送の歴史秘話ヒストリア「飛鳥美人 謎の暗号を解け~高松塚壁画のヒミツ~」を視聴して
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第1回考古学写真甲子園 in 奈良県立橿原考古学研究所博物館

2017年09月07日 04時30分41秒 | 奈良情報
昨日(2017-9-6)の朝、NHKテレビが奈良県立橿原考古学研究所博物館で8月31日より
行われている「考古学写真甲子園」の紹介をしていました。(10月1日まで展示

私は9月2日に奈良県立橿原考古学研究所博物館を訪問し写真を撮っています。
NHKテレビでの報道内容と合わせて写真紹介します。

考古学写真甲子園は奈良県内の遺跡から出土した埴輪の写真を高校生のグループが撮影して
その出来栄えを競うもので、2018年9月に橿考研創立80周年を記念した企画で県内の
12校の写真部13グループが出展しました。

7月17日に撮影会があり14グループが参加、審査は8月29日、表彰式は9月3日に
実施されたそうです。





上の2枚の写真は13グループの写真展示(上)と埴輪の展示 撮影:2017-9-2


上の写真は応募作品一覧

以下はNHKテレビの報道によるものです。


上の写真は7月17日の撮影会の様子


上の写真は展示会の会場


上の写真は所長賞に選ばれた 作品「主とともに」 奈良県立畝傍高等学校 代表・大窪佑季さん
橿原市の四条遺跡から出土した人型の埴輪3点を異なるアングルから撮影した作品です。


上の写真は有史会賞を受賞した作品「始まり」奈良県立添上高等学校 代表・河端宣慧さん

奈良県三宅町の石見遺跡から出土した埴輪の顔を撮影
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史跡大安寺旧境内 講堂の調査(DA137・140次)

2017年09月06日 04時24分33秒 | 奈良情報
2017年9月2日に橿原考古学研究所の土曜講座「大和を掘る35」の講演があり聴講した

その中から奈良市教育委員会の鐘方正樹氏の「史跡大安寺旧境内 講堂の調査」について
纏めてみました。

1.調査地の位置


上の写真は現在の地図に調査地点が書き込まれたものです。


上の写真は大安寺旧境内伽藍配置に調査地の位置を書き込んだものです。


上の写真はDA137次発掘区(平成27年度)とDA140次発掘区(平成28年度)の位置

2.DA137次&DA140次発掘区の写真


上の写真はDA137次発掘区(平成27年度)幅1.3m(除く水路)


上の写真はDA140次発掘区(平成28年度)幅3m

参考として昭和38年(1963)の調査の写真を添付(下の写真)

昭和38年の調査で基壇西辺及び南西隅の延石、南面階段の痕跡、講堂南西隅柱の礎石
据え付け穴に伴う根石が確認されています。

3.基本層序

(1)DA137次発掘区(平成27年度)


上の図4のとうりである。
発掘区の西側では運動場造成土の下に昭和38年の調査区を埋める黄褐灰色瓦礫土(3層)
灰褐色礫混土(5層)はコンクリートが混在するので昭和30・34年の旧校舎解体時の
造成土である可能性があります。この下に奈良~鎌倉時代の瓦を含む黄茶灰色土(9層)が
堆積し、茶褐色土(12層)の講堂基壇盛り土に至ります。


(2)DA140次発掘区(平成28年度)


上の図5のとうりである。



4.大安寺古文書に残る講堂の基本情報


上の写真は「大安寺伽藍縁起井流記資財帳」に書かれたデータ


上の写真は大安寺の旧伽藍 (大安寺宝物館の展示パネルより)


5.講堂の復原


上の写真は講堂の復原図です。

講堂の規模は長さ43.2m 幅27.2m
基壇の規模は長さ49.9m 幅34.2m
平城京の大極殿とほぼ同じ規模になります。

北面及び東西面の3面に軒廊があります。
今回の発掘調査では北軒廊 の痕跡(SD03)が検出された。


上の写真は北軒廊の検出遺構

6.隅木蓋瓦

今回の発掘調査で特筆すべき遺物として隅木蓋瓦があります。復原幅は57cm程度で平城宮
大極殿の40~43cmと比べて大きく講堂の規模が大きかったことを物語っています。







関連ブログ:南都七大寺 大安寺訪問記 on 2017-6-6 その2 旧伽藍跡

      南都七大寺 大安寺訪問記 on 2017-6-6 その1 現境内      


関連報道:大安寺講堂の巨大さ物語る瓦 奈良市教委発掘調査で破片出土
      産経新聞 2017-2-10
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餃子の王将 橿原神宮店でのランチ on 2017-9-2

2017年09月05日 05時02分16秒 | 奈良情報
2017年9月2日に頂いた餃子の王将 橿原神宮店でのランチを写真紹介します。
住居地の近くのお店には頻繁に行っていますが、このお店には3回目の訪問です。

餃子の王将 橿原神宮店の基本情報

住所:奈良県橿原市城殿町251−7 TEL:0744-22-5909
営業時間:月~土 11:00~23:30 日曜 11:00~22:30
定休日:無休


公式HP:https://www.ohsho.co.jp/



当日いただいたフェアセットAです 910円(税込)でした。(上の写真)


上の写真は9月のフェアセットのメニュー紹介表です。

お店から徒歩圏で行ける本薬師寺では現在ホテイアオイが見ごろのようです。
近鉄橿原神宮前駅の構内で見つけた案内板を添付しておきます。(下の写真)



本薬師寺(もとやくしじ)については下記のブログで紹介していますので良かったら
見てください。

  薬師寺東塔 心柱立柱式 on 2017-1-9

ホテイアオイに関する情報もあります。


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極楽寺ヒビキ遺跡大型掘立柱建物復元模型 in 橿原考古学研究所付属博物館 on 2017-9-2

2017年09月04日 06時00分17秒 | 奈良情報
極楽寺ヒビキ遺跡大型掘立柱建物復元模型 in 橿原考古学研究所付属博物館 on 2017-9-2


2017年9月2日、橿原考古学研究所が企画した「土曜講座 大和を掘る35」を
聴講した。その折に橿原考古学研究所付属博物館にて展示も観覧しました。
橿原考古学研究所付属博物館のホワイエに極楽寺ヒビキ遺跡大型掘立柱建物復元模型が
展示されていましたので写真紹介します。
以降、橿原考古学研究所を橿考研と略します

極楽寺ヒビキ遺跡(二光寺廃寺跡)の基本情報

住所:奈良県御所市大字極楽寺
年代&遺構:5世紀前半(古墳時代中期前半)の豪族居館遺跡
発掘調査:2004年10月から橿考研が調査 現地説明会が2005年2月26日に実施

 現地説明会資料は橿研のHPの刊行物-説明会・講演会資料-2004年度より閲覧できます。




上の2枚の写真は極楽寺ヒビキ遺跡大型掘立柱建物復元模型です。
神戸大学の黒田龍二先生の研究室の指導により制作されたものです。


上の写真は模型に関する説明パネル


上の写真は極楽寺ヒビキ遺跡の遺構平面図です。


上の写真は極楽寺ヒビキ遺跡の検出遺構と復元CGの合成 CGは黒田龍二氏作成

極楽寺ヒビキ遺跡は葛城山麓高台の上に位置し、大型建物の面積は220㎡と5世紀代で
最大級である。この地は葛城氏の本拠地とされる南郷遺跡群の南部に位置し、その政庁跡
と推測されています。

邪馬台国大研究のサイトに現地説明会など詳細な資料を整理されています。
 
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石上神宮 訪問記 on 2015-11-5

2017年08月11日 07時38分49秒 | 奈良情報
石上神宮 訪問記 on 2015-11-5


2015年11月5日に訪問した石上神宮(いそのかみじんぐう)を写真紹介します。

石上神宮の基本情報

住所:奈良県天理市布留町384 TEL:0743-62-0900
主祭神:布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 神剣に宿る神霊
    布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
    布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
配祀神(はいししん):宇摩志麻治命(うましまじのみこと)物部氏の遠祖
           五十瓊敷命(いにしきのみこと)
           白河天皇(しらかわてんのう)
           市川臣命(いちかわおみのみこと)
創建:(伝)第10代 崇神天皇7年(紀元前90年)

公式サイト:http://www.isonokami.jp/


上の写真は石上神宮の拝殿と本殿

Wikipediaによれば
「この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」
などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。
1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造
(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。
1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている」



上の写真は西回廊




上の2枚の写真は楼門を中心とした遠景


上の写真は境内の案内図です




上の2枚の写真は国宝の七支刀(しちしとう)説明書き

七支刀は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる
「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられています



上の写真は境内に飼育されている鶏


上の写真は御守りの説明パネル


上の写真は社務所


上の写真は手水舎


上の写真は牛の像


上の写真は鏡池の天然記念物ワタカの説明板




上の2枚の写真は江戸時代まで石上神宮の神宮寺であった永久寺の名が残っている
消火道具の展示とかって栄華を誇っていた永久寺の境内図
永久寺は明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺に追い込まれてしまいました。




上の2枚の写真は鎧櫃の展示と説明板


上の写真は摂社 出雲建雄神社 拝殿(国宝)




上の2枚の写真は摂社 天神社と七坐社と現地説明板




上の2枚の写真は摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)と現地説明板














上の写真は境内の歌碑と説明パネル


上の写真は参道と鳥居
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奈良市下高畑町 柳堂地蔵尊 on 2017-6-6

2017年07月21日 03時50分45秒 | 奈良情報
2017年6月6日、頭塔から新薬師寺に向かって歩いている時に表題の柳堂地蔵尊を
偶然見つけましたので写真紹介します。

所在地は奈良市下高畑町


上の写真は柳堂地蔵尊の建屋


上の写真は現地の説明板
下記のように書かれています。


柳堂地蔵尊由来

当地蔵尊は当初荒池付近にあった興福寺の別院である龍華樹院に
祀られていた。龍華樹院が中世に廃絶後、下高畑町の北側、現在は
道路となっているあたりに沙門道音房が薬師小堂を再興したことから
道音房薬師。
また東へ通らない奥の行あたりにあった故、億薬師堂と呼ばれた堂の
一角にあった柳の堂に移され、柳堂地蔵尊と称せられていたと言う。
時期は不明であるが奥薬師堂火災の際地蔵尊は救い出され、その後
長らく民家の奥座敷で祀られていたが、明治42年に下高畑町内有志
の手により一間三間のお堂が建立され、その後。現在地に昭和42年
(1967)規模を縮小して移され、以来柳堂地蔵尊として下高畑町の
人々の手で大切に守られてきたもので、現在に至るも毎年7月24日
の地蔵盆には町内揚げて地蔵尊をお祀りしている。

地蔵菩薩半跏坐像は木造檜材割矧造
鎌倉時代13世紀の作
着衣形式は鎌倉風ながら、肉どり、細部の彫風に前代の
風を留めるものである。

平成28年(2016)7月24日
下高畑町自治会



上の写真は頭塔から新薬師寺に向かう道(下高畑町)


地蔵尊に関する話題ということで、頭塔の入口があるホテルウェルネス飛鳥路にあった
椿地蔵尊についても写真を添付しておきます。


上の写真は椿地蔵尊(高畑町)


上の写真は椿地蔵尊の現地説明板

説明より、奈良地方では7月24日頃に地蔵盆が行われることも判ります。

日本における地蔵尊(地蔵菩薩)信仰は上の説明版にきさいされているように平安中期
から鎌倉時代に盛んになっています。

日本における地蔵尊信仰についてWikipediaの解説を引用紹介します。

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、
必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの
救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりと
なり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、
また小僧姿も多い。賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より
仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において
地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。
また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。



上の写真はホテルウェルネス飛鳥路の入口の看板


今回、地蔵尊(地蔵菩薩)自身の写真がないので過去に撮ったものを添付しておきます。


上の写真は神戸再度山、大龍寺の山門の右手の墓の入口にある六地蔵です。(神戸市中央区)


上の写真は舞子延命地蔵(神戸市垂水区)


上の写真は西垂水高尾子安地蔵(神戸市垂水区)


上の写真は高野山女人堂前のお竹地蔵(和歌山県高野町)


上の写真は西光寺(神戸六地蔵 6番霊場)のシンボル、万霊供養大地蔵尊(神戸市西区)


上の写真は六波羅蜜寺のお地蔵様(京都市)


上の写真は長福寺(神戸市兵庫区)の行暮(ゆきくれ)地蔵


上の写真は踊り松地蔵(神戸市東灘区)


上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字妙号石(神戸市長田区)


上の写真は須磨寺塔頭 桜寿院の前の石造地蔵尊のデッサン(神戸市須磨区)


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後藤大峰研修の碑 on 2014-4-3

2017年06月18日 07時19分02秒 | 奈良情報
2014年4月3日、吉野へ出かけた時に金峯神社の参道脇に表題「後藤大峰研修の碑」を
見つけましたので写真紹介します。神戸に所縁の深い企業ということで取り上げました。

後藤回漕店の社長の後藤勝一氏が社員教育の一環として昭和35年(1960)から開始された
大峰研修はすでに50回を越えて継続実施されています。


上の写真は金峯神社の参道で左手に「後藤大峰研修の碑」があります。


上の写真は「後藤大峰研修の碑」33度記念と50度記念の碑が建てられています。


上の写真は現地の説明板です。

後藤大峯研修
後藤大峰研修は、後藤勝一が社長在任時代に、将来を見越して人材育成に力を注ぎ、
社員教育の一環として「規律ある団体行動と心身の鍛錬」を目的として、確立されたものであります。
第1回目の研修は、昭和35年7月に行われ、当時の参加者は後藤勝一、後藤勝三(当時中一)、
辰巳喜志雄他8名の僅か11名の研修でありました。
その後、、(株)後藤回漕店社員を中心に、関係会社を含め延べ3000名以上の方々が大峰研修に
参加され今日に至っております。本年度で54回目を迎えることが出来ましたのも後藤勝一の教育の
賜物であり、その意志を引き継ぎ会社の繁栄と共に未来永劫に大峯研修が継承されていくことを願い
ここに記念碑を建立いたします。


後藤回漕店
後藤回漕店について簡単に記しておきます。
後藤回漕店は、信州・長野出身の後藤勝造が明治10年(1877)10月10日、神戸に創業した
「“まるま”蒸気船問屋後藤勝造本店」を起源とする老舗の港湾運送業者です。
現在も物流に関連する事業をグローバルに展開する企業です。
後藤回漕店の本社は現在も神戸市中央区海岸通3丁目で軟式野球が強く活躍しています。
2016-12-10全神戸選抜軟式大会では6年ぶり3度目の優勝を果たしています。
上記の後藤大峰研修の項で出てきた後藤勝三氏は後藤勝一氏に次いで社長となったが昨年(2016)
11月、仕事で訪問した堺市で倒れ帰らぬ人となってしまいました。(享年71歳)
変革、改革、改善、改良を常に念頭に置いて仕事を進められていたそうです。
現在の社長は後藤博史氏(創業者後藤勝造から数えて6代目)が務められています。

創業者の後藤勝造氏は鈴木商店とのつながりが深く台湾で樟脳事業を展開を開始するに
当たって鈴木商店番頭の金子直吉に台湾総督府民政長官や外相、東京市長を歴任した
後藤新平を紹介した人物です。

詳細は鈴木商店記念館の下記サイト
 http://www.suzukishoten-museum.com/profile/cooperative_firm/goto/

及び神戸新聞の遥かな海路 巨大商社鈴木商店が残したもの 2016年7月10日及び17日の朝刊
に記載されています。
2016年7月10日の記事には後藤回漕店5代目社長の後藤勝三氏の写真も掲載されています。








上の4枚の写真は金峯神社と現地の説明版

金峯神社

Wikipediaによれば

金峯神社(きんぷじんじゃ)は奈良県吉野郡吉野町吉野山1651にある神社である。
吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神を祭る。
金山毘古命(かなやまひこのみこと)が祭神。式内社(名神大)で、旧社格は郷社。
境内はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の
構成資産の一部

修験道の行場で藤原道長も祈願したとされています。
また、 境内から坂道を3分ほど下ると、義経が弁慶らと追っ手から逃れるために隠れた
義経隠れ塔があります。


大峰奥駆道の入口にもあたりますので現地の説明版と役業者像の写真を添付しておきます。





大峰奥駆道

Wikipediaによれば

大峯奥駈道は、吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。
1000-1900m級の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道を指す。
2002年12月19日、国の史跡「大峯奥駈道」として指定された。
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部。
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新薬師寺の鎮守 南都鏡神社 on 2017-6-6

2017年06月16日 04時40分58秒 | 奈良情報
2017年6月6日、新薬師寺の鎮守 南都鏡神社を訪問しましたので写真紹介します。
南都鏡神社は怨霊となった藤原広嗣公が祀られています。
社伝では藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられています。

現在の松浦廟宮(佐賀県唐津市鏡)が上記の鏡神社に相当

南都鏡神社の基本情報

住所:奈良県奈良市高畑町468番地 TEL:0742-22-3900
御祭神:天照皇大神、藤原広嗣公、地主神
創建:大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建


公式サイト:http://www1.kcn.ne.jp/~fujishrs/


上の写真は本殿
現在の本殿は、延享3年(1746)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたものである。
一間社春日造建築で、奈良市指定文化財となっている




上の2枚の写真は南都鏡神社本殿の現地説明板


上の写真は新薬師寺側からの入口遠景


上の写真は拝殿


上の写真は末社の祖霊社 昭和36年(1961)創祀 歴代の氏子功労者が祀られています

藤原広嗣
Wikipedia「藤原広嗣」よりまとめて記しました(一部加筆)

藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年? - 天平12年11月1日(740年11月24日))は奈良時代の貴族
藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の娘。
官位は従五位下・大宰少弐。
聖武天皇の時代に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった
(不比等の四子は737年に相次いで天然痘で亡くなっている)
天平9年(737)の9月28日に従六位上から従五位下に昇叙される。天平10年(738年)4月22日、
大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降に式部少輔に任官されている。
朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。
広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に
起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。
(橘諸兄は敏達天皇の子孫で元の名前は葛城王)
真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、
その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して藤原広嗣の召喚
の詔勅を出す。
広嗣は勅に従わず、天平12年(740年)弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の
兵力を率いて反乱を起こした。→藤原広嗣の乱
しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、
同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。
藤原広嗣の乱について経過を記載すると(740年9月3日~11月1日)
9月3日には都に上奏文が到着し,朝廷は謀反と判断.
    大野東人を大将軍に任じ東海道,東山道,山陰道,山陽道,南海道の五道の軍
    1万7,000人を動員するよう命じた.
9月21日,関門海峡に達した大野東人は,9月22日,勅使佐伯常人らに兵4,000人を率いて渡海させ、
     板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略.
9月29日,全九州の官人・百姓にあてて勅が発せられる.
10月9日,広嗣軍1万騎が板櫃川に到り,大規模な戦闘が起こる.
     敗走した広嗣は船に乗って五島列島を経て新羅へ逃れようとした.
     ところが船が進まなくなり,風で吹き戻されてしまう.
10月23日,松浦郡値嘉嶋(五島列島の古い名称)で広嗣捕縛.
11月1日,広嗣,肥前国松浦で斬刑される.

これによって多くの式家関係者が処分を受け、
奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く
要因の一つになった。


 参照サイト:藤原広嗣の怨霊と鏡神社

鏡神社の由緒(英文)を添付しておきます。





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