CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

NHKラジオ きょうは何の日 3月31日

2024年03月31日 06時17分55秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月31日をお送りします。

■1889年(明治22年) エッフェル塔完成
  パリ万博に合わせて建設、2年2ヵ月という驚異的な速さで完成 。
  設計者のエッフェル氏(1832-1923)は自由の女神の設計者としても著名

■1970年(昭和45年) よど号事件
  赤軍のメンバー9人が日航機を乗っ取った事件。乗客、乗員129名は解放。
  赤軍メンバーは北朝鮮に亡命。

■1981年(昭和56年) ピンク・レディー解散コンサート
  後楽園で行われた解散コンサートには3万人が集まり別れを惜しんだ


■1854年(嘉永7年) ペリー提督と江戸幕府の間で日米和親条約が結ばれ、鎖国が終わる



 
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神戸市須磨区の現光寺の桜の開花状況 on 2024-3-28

2024年03月30日 17時02分45秒 | 神戸情報
本日(3月30日)大阪でも桜の開花宣言がありました。そこで桜に関するブログを書きます。
2024年3月28日、神戸市須磨区にある源氏物語13帖「須磨」の巻に所縁の現光寺の桜
写真を撮ってきましたので写真紹介します。
上の写真は桜のごく一部での桜開花状況です。 撮影:2024-3-28

上の写真は全体の状況で多くの蕾は開花を待っている状況です。
メジロが2~3羽、木の枝にいましたが望遠レンズの付いていないカメラでの
撮影で上手く写っていません。撮影:2024-3-28


姫路城の開花状況
年     開花   五分咲き  満開近し  満開   散り始め
令和4年  3月25日  3月30日  4月1日   4月2日
令和3年  3月19日  3月27日  3月29日   3月30日 4月3日
令和2年  3月24日  3月31日  4月4日   4月5日   4月11日
平成31年 3月29日  4月4日   4月5日   4月6日   4月15日
平成30年 3月25日  3月28日  3月29日   3月30日   4月4日

上の表は少しデータが古いですが姫路城の桜の開花状況です
平成29年   4月2日    4月6日    4月7日   4月8日   4月13日

上の写真は2022年4月7日 に撮影した姫路城の桜です。

詳しくは下記ブログで書いています。 

現光寺に関する最近のトピックスとして源氏物語絵巻の複写絵について写真紹介します。



上の2枚の写真は神戸市須磨区の現光寺本堂の襖に描かれた国宝「源氏物語絵巻」の複写絵
撮影:2024-1-12
上の写真は源氏寺碑である。(2024-3-28撮影)
源氏物語の主人公光源氏が従者数人と京より須磨に蟄居していたところと古来より伝えられ
ています。この石碑はもともと現在の場所より北西約20mはなれた場所に建てられていま
したが平成7年(1995)1月17日阪神淡路大震災後、都市計画道路千森線の整備に
あわせて新しく平成14年(2002)再建された現光寺の門前に移されました。

上の写真は現光寺の本堂です。 撮影:2024-3-28
謡曲「須磨源氏」は、日向国の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立ち寄ると、
老樵夫(きこり)賀桜の木陰から現れ、光源氏一代の略歴を物語り、自分はその化身であることをほのめかす。その夜、旅まくらの興範の前に、菩薩となっている光源氏が、気高く優雅な姿で天下り、在りし日の須磨のくらしを回相しつつ青海波の舞を舞って夜明けと友に消えうせるという典雅な曲である。
須磨は観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心を慰めるのに格好の地だと千年前に生きた紫式部も知っていたのでしょう。
以上は謡曲史跡保存会作成の説明書きより一部引用しました。

 

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NHKラジオ きょうは何の日 3月29日

2024年03月29日 05時51分26秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月29日をお送りします。

■1952年(昭和27年) 無形文化財を初指定
  文化財保護委員会が歌舞伎や民俗芸能の所作も無形文化財に含み指定
  第1回では相馬野馬追 などが指定された

■1963年(昭和38年) 東京・数寄屋橋交差点に騒音自動表示器登場
  翌年開催の東京五輪を控え騒音計が設置された。車社会の黎明期でもあった。

■1973年(昭和48年) アメリカ軍がベトナムから完全撤退
  1973年1月27日にべトナム和平協定(パリ和平協定)を成立させ、アメリカ軍は
  軍事活動を停止し同年3月、ニクソン大統領の最終判断で南ベトナム駐留の
  アメリカ軍が撤退を開始、1973年3月29日までに完了した。 

■2020年(令和2年) 志村けんさん逝く
  新型コロナウイルス感染症が流行した初期の頃で志村けんさんがコロナで
  死去されたニュースが大きく報じられていました。


日刊スポーツの「今日はどんな日」3月29日では下記話題などを取り上げています。
■2018年(平成30年) エンゼルス大谷が敵地アスレチックス戦に「8番DH」で大リーグデビュー。初打席でメジャー初安打を記録



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神戸華僑歴史博物館特別展 「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」観覧記 on 2024-2-21

2024年03月29日 04時50分23秒 | 神戸情報
2024年2月21日、神戸華僑歴史博物館特別展「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣
観覧しました。その時に撮った写真及び関連写真を紹介します。
この特別展は直木賞作家の陳舜臣さんの生誕100年を記念して企画されました。
特別展は終了しています。

陳舜臣さんは1924年(大正13年)2月18日神戸生まれ
2015年1月21日午前5時46分、90歳、老衰のため神戸市内の病院で死去されています。 

特別展要項  
テーマ:「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」
会期:2024年1月31日~2月24日の水曜~土曜及び2月11日(日)
但し2月23日(祝)は休館
会場:神戸華僑歴史博物館(神戸市中央区海岸通3丁目1−1 神戸中華総商会ビル 2F )
神戸華僑歴史博物館のTEL:078-331-3855 
開館時間:10:00~17:00
主催:孫文記念館友の会、神戸華僑華人研究会、神戸華僑歴史博物館

所在地のGoogleマップを添付しておきます。


最初に概要を掴むため、サンテレビが作成したYoutube動画にGooで共有させていただきました。
神戸華僑歴史博物館特別展 「神戸を愛し神戸に生きた陳舜臣」

展示遠景
上の写真は特別展の展示遠景
特別展は「陳舜臣さんを語る会通信」を2020年からネットで発信されている
神戸華僑歴史博物館の学芸員の橘雄三さんが主に動いて展示されました。

特別展あいさつ(館長)

上の写真は神戸華僑歴史博物館長(愛新 翼さん)が書かれた特別展の開催に寄せての挨拶文
陳舜臣さんの写真
上の写真は2003年、陳舜臣さん79歳頃の写真

特別展概要

陳舜臣さんの紹介


パネルNo.6
上の写真は神戸華僑歴史博物館の学芸員の橘雄三さんが企画展に合わせ作成された
13枚のパネルの中の一部(No.6  作品に描かれた神戸2)です。
このパネルの1番下の写真(2015年撮影)は私が撮った写真が使用されています。
陳舜臣さんが須磨寺を訪れた時に作った七言絶句2首の歌碑が現在も建っています。
私のブログで詳細に書いていますのでリンクしておきます。

その他のパネルで陳舜臣さんの神戸市内での引っ越し歴や、推理小説などの
舞台となった神戸の街並みなどが紹介されています。
神戸に生まれ、神戸で亡くなった陳舜臣さんの神戸愛を感じ取ることができる
展示となっています。

陳舜臣作品(推理小説)


陳舜臣作品(一般)



陳舜臣作品(海外版)


陳舜臣さんは生涯で約250点の作品を残しているそうです。

陳舜臣さんの生涯
参考資料:
 3) 神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示

大正13年(1924)2月18日 台湾人貿易商の次男として神戸・元町7丁目に生まれた。
          父:通 母:蘇嬌 本籍は台湾・台北市
昭和5年(1930)6歳 神戸市立諏訪山尋常小学校に入学
昭和6年(1931)7歳 中央区北長狭4丁目に転居
昭和7年(1932)8歳 神戸尋常小学校に転校
昭和9年(1934)10歳 神戸市海岸通5丁目に転居
昭和11年(1936)12歳 4月、神戸市立第一神港商業学校
昭和12年(1937)13歳 秋に、父の店に特高警察が踏み込む事件が起きる
昭和16年(1941)17歳 4月、大阪外国語学校印度語部に入学
昭和17年(1942)18歳 この頃、台湾から日本の学校に受験する青年達が陳家に泊まった。
        彼らから刺激を受け、中国の文学作品を多く読む。
        新学期にモンゴル語科の福田定一(司馬遼太郎)が入学
        第2外国語としてペルシャ語をとる
昭和18年(1943)19歳 春から秋に大阪のガスビル斜め前の「大防空壕」堀に動員される
        9月、繰り上げ卒業し、母校の阿南亜細亜語研究所助手になる。
昭和19年(1944)20歳 陳家は貿易商仲間の蔡家が所有する北野町1丁目の洋館に間借り
        空襲警報が鳴るとここに避難した。
昭和20年(1945)21歳 3月13日、大阪外国語学校は空襲で殆ど焼け落ちた
        3月17日の神戸大空襲で海岸通の家が焼ける
        神戸市垂水区の御霊町の一軒家に引っ越す
        藤沢恒夫の勧めで「清文学」3月号に「印度現代詩抄」掲載
        日本の敗戦で日本国籍ではなくなり大阪外国語学校を退職
昭和21年(1946)22歳 学者を諦め台湾に渡ることを決意
        蔡錦墩 と婚約
        3月、台湾の叔父の家、台北県に住所を移す
        台北県立新荘初級中学の英語教師として勤務
昭和24年(1949)25歳 10月、日本に帰る 帰国直後に初めて小説を書く
        家業(ちちの経営する貿易業)に従事
昭和25年(1950)26歳 3月26日、5歳下の蔡錦墩 と結婚
                新居は神戸市生田区布引町2-3-19
        
昭和27年(1952)28歳 1月、生田区北野町1-7 外人アパートに転居
         5月14日 長男 立人誕生
昭和32年(1957)33歳 10月、生田区北野町1-31 妻の実家に転居
        この頃からぼちぼち小説を書き始める
昭和33年(1958)34歳 1月1日 長女、山果誕生
昭和34年(1959)35歳 
   長女を看病中に推理小説を読み「これくらいなら自分にも書けるかも」
   とペンを取る。これが1961年のデビュー作「枯草の根」講談社につながる
昭和35年(1960)36歳 10月 「風のなか」が第11回文学新人賞の最終審査候補作となる
昭和36年(1961)37歳 「枯草の根」で第7回江戸川乱歩賞を受賞 作家生活に入る
    この作品は500枚の長編推理小説で主人公は「陶展文」
    この頃、「コスモポリタン(国際人)」を自任
上の写真は「枯草の根」に関する解説パネル
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧

昭和37年(1962)38歳 
       「三色の家」講談社  のち文庫、扶桑社文庫
 三色の家のモデル神戸市海岸通5丁目の家は昭和20年(1945)の神戸大空襲で焼失していた。
上の写真は「三色の家」に関する解説パネル
フランス国旗の家とも呼ばれていた。
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧
上の写真は「三色の家」の復元模型 明石高専 水島あかね研究室
出典:神戸開港150年事業「神戸 みなと 時空」の展示 in KIITO
  2017年1月25日~12月28日開催 陳舜臣と神戸ミステリー館の展示
  2017年1月28日観覧

       「弓の部屋」東都書房  のち講談社文庫
       「割れる 陶展文の推理」早川書房  のち角川文庫、徳間文庫
以上の3つの作品では神戸在住の華僑で中華料理店「桃源亭」の経営者陶展文が活躍
       「怒りの菩薩」桃源社  のち集英社文庫
       「方壷園 推理小説集」中央公論社   のち文庫
昭和38年(1963)39歳
    「天の上の天」講談社  のち徳間文庫(『宝石』1963年9月-)
昭和39年(1964)40歳
  「白い泥」学習研究社(ガッケン・ブックス) のち徳間文庫
  「まだ終らない」角川小説新書  のち徳間文庫
  「月をのせた海」東都書房  のち徳間文庫
  「黒いヒマラヤ」中央公論社  のち文庫
昭和40年(1965)41歳
  9月「神戸というまち」を書き下ろし至誠堂新書として発行
昭和41年(1966)42歳
  3月 生田区山本通4-72-16に転居
  辛亥革命にかかわる推理小説「炎に絵を」をオール読物5月号から8月号で連載
  12月 長編推理小説「影は崩れた」を読売新聞社より刊行
     灘区篠原伯母野山3-1-14に家を新築 転居
昭和42年(1967)43歳
  朝日、毎日、東京、サンケイ、「現代」、「旅」などに多くの新聞や雑誌にエッセイ寄稿
  10月、11月 中国歴史小説(約3千枚)「阿片戦争」(全3巻)講談社
昭和43年(1968)44歳
  「孔雀の道」を神戸新聞5月12日から12月31日まで連載
   長編小説「濁った航跡」を読売新聞社から書き下ろし出版
  9月 歴史推理小説「青玉獅子香炉」を「別冊・文藝春秋」に掲載
  神戸市民主催の「半どんの会」賞を受賞
昭和44年(1969)45歳
  1月 第60回直木賞(1968年下半期)「青玉獅子香炉」で受賞
   「玉嶺よふたたび」徳間書店
   「幻の百花双瞳」講談社   のち角川文庫、徳間文庫
   「孔雀の道」講談社 のち文庫、双葉文庫、広済堂文庫
  7月、中国現代史に村をとった推理小説「凍った波紋」をサンデー毎日7月27日号から
    1970年5月24日号まで連載
   「銘のない墓標」講談社  のち徳間文庫、中公文庫
   「他人の鍵」文藝春秋
昭和45年(1970)46歳
  3月 「玉嶺よふたたび」、「孔雀の道」で昭和45年度日本推理作家協会賞
  5月 アメリカとカナダを旅する

昭和46年(1971)47歳
  5月18日 父、通が死去(76歳)
  書き下ろし長編エッセイ「日本人と中国人」祥伝社 ベストセラーに
  「実録アヘン戦争」で第25回 毎日出版文化賞を受賞
  「残糸の曲』朝日新聞社  のち角川文庫、徳間文庫、朝日文庫
  「異郷の檻のなか」中央公論社
  「六甲山心中」中央公論社
  「北京悠々館」講談社  のち徳間文庫、集英社文庫
  「崑崙の河」三笠書房 のち角川文庫、徳間文庫、中公文庫、広済堂文庫
  「なにも見えない」講談社 1971年 「望洋の碑」徳間文庫
  「夜の歯車」実業之日本社(ホリデー新書)  のち徳間文庫
昭和47年(1972)48歳
  7月 はじめて夫人と一緒に沖縄を訪れる
  10月 初めて中国に行く 身分は日本の旅券
    日中国交回復から中国各地、シルクロードなどを旅
  「南十字星を埋めろ」実業之日本社(ホリデー新書) のち徳間文庫
昭和48年(1973)49歳
  中華人民共和国の国籍を取得。以降、台湾に入れなくなった
  海洋ロマンとも言うべき「風よ雲よ」中央公論社  のち講談社文庫、中公文庫
  「中国任侠伝」(正続) 文藝春秋  のち文庫、徳間文庫
  「長安日記 賀望東事件録」毎日新聞社 中公文庫
  「柊の館」講談社
  「虹の舞台」光文社カッパ・ノベルス  のち角川文庫、徳間文庫
  「失われた背景」サンケイ新聞社  のち中公文庫
昭和49年(1974)50歳
  「秘本三国志」(全6巻)文藝春秋 1974年-1977年のち中公文庫
  「青雲の軸」旺文社文庫  のち集英社文庫
昭和50年(1975)51歳
  8月から9月 敦煌を旅する
  10月 神戸市民文化賞を受賞
  「青春の烙印 神田希望館」講談社  のち徳間文庫
  「新西遊記」読売新聞社 のち講談社文庫
  
昭和51年(1976)52歳
  3月12日 母、蘇嬌が死去
  9月「敦煌の旅」で第3回大佛次郎賞
  「桃花流水」朝日新聞社  のち中公文庫、朝日文庫
昭和52年(1977)53歳
  7月 中国シルクロードを旅する
 「旋風に告げよ」講談社 
 「鄭成功」中公文庫
 「小説十八史略(全6巻)毎日新聞社 1977年-1983年 のち講談社文庫
 「闇の金魚』講談社  のち徳間文庫(書き下ろし)
 「蘭におもう」六興出版 のち徳間文庫
昭和53年(1978)54歳
 「漢古印縁起」講談社  のち中公文庫
 「燃える水柱」徳間書店 のち広済堂文庫

昭和54年(1979)55歳
  5月、NHK特別番組「シルクロード」制作にあたり中国西安へ行く
  12月 インドの仏蹟をまわり、タイから帰国
昭和55年(1980)56歳
  4月 特別番組「シルクロード」第1部「中国編」が始まる
昭和56年(1981)57歳
  4月 松陰女子大学の教授となり文学概論の講座をもつ(1998年3月まで)
昭和57年(1982)58歳
  9月から10月にかけてNHK「シルクロード」の取材でイランに行き、
  トルコ、ローマ、北京を経て帰国
  10月 韓国を訪ねる
昭和58年(1983)59歳
  1月から2月にかけタイ、シンガポール、アメリカを訪ねる
  10月 第20回日本翻訳文化賞「叛旗 小説・李自成」(弟の陳謙臣と共訳)
  「中国五千年」平凡社  のち講談社文庫
昭和59年(1984)60歳
  6月 ローマ、パリ、ロンドンを訪れる
昭和60年(1985)61歳
  2月 NHK「シルクロード」関連番組への出演などにより第36回放送文化賞
昭和61年(1986)62歳
  4月 アメリカからイギリスへ旅する
  8月 イスタンブール、ジュネーブ、パリ、ロンドンを訪ねる
  10から11月にかけて上海・浙江を取材訪問
昭和62年(1987)63歳
  4月「茶事遍路」の取材に中国訪問(黄帝陵を参拝。成都、昆明、西双版納傣(シーサンパンナタイ)族自治州・ 景洪県へ )
  8月 妹・妙齢らと中国を旅する(北京、承徳、旅順、大連、天津など )
  12月 中国を旅する(上海、福州、泉州、安渓、廈門など )
昭和63年(1988)64歳
  1月、蒋経国総統死去。副総統李登輝が総統に 
  9月、峨眉山へ 
昭和64年、平成元年(1989)65歳
  2月 「茶事遍路」で第14回読売文学賞の随筆・紀行賞
  6月4日 天安門事件
平成2年(1990)66歳
  3月 李登輝、総統選挙で選出される 
  10月 日本国籍を取得
  11月 41年振りに訪台
平成3年(1991)67歳
  3月に中央公論社から出版の「諸葛孔明」(上・下)がベストセラー
  5月から6月「世界の都市の物語」の取材でウィーンに滞在後トルコ・カッパドキアなど訪問
  6月から7月 読売新聞の企画でチンギス・ハーンの墓を探すプロジェクトでモンゴルを訪問
  10月 韓国を訪問
  11月 台湾へ旅する。台北、高雄、花蓮、台東など を歩く
平成4年(1992)68歳
  1993年度NHK大河ドラマ「琉球の風」取材で沖縄各地を度々訪問
  3月 ロンドンに大英博物館を訪問
  「諸葛孔明」で第26回吉川英治文学賞
  9月22・23日「日中文化・経済シンポ」(大連)で基調講演を行う
   北京に引き返し取材や中国人作家を訪問
  9月28日 北京人民大会堂で「中日国交正常化20周年記念宴」に出席
   愛親覚羅溥傑に会う
平成5年(1993)69歳
  元旦 司馬遼太郎の「街道をゆく」の取材同行で台北へ
  1月27日 第63回朝日賞受賞
  NHKで大河ドラマ「琉球の風」が始まる
  5月「那律楚村」の追加取材で中国へ行く
  6月「紙の道」の追加取材でロシア、カザフスタン、ウズベキスタン、モスクワなどを歩く
  9月 台北市に「陳舜臣と書室」がオープンし開館式が行われた
平成6年(1994)70歳
  5月 「那律楚村」がベストセラーになる
  5-6月 フランス、シリア、トルコ、イスラエル、ヨルダン、エジプト、イタリアへ
  7月 台湾に行く
  8月10日 宝塚歌劇80周年記念行事の講演中に脳内出血で倒れ入院
平成7年(1995)71歳
  1月13日 5か月間の闘病を終え退院
  その4日後、阪神淡路大震災、不自由な身体でもあるので2日後ホテルに入り
  1週間ほど滞在した後、元々リハビリで行く予定にしていた沖縄へ
  3月 第51回 日本芸術院賞を受賞
  10月 台湾へ行く
  11月 井上靖文化賞を受賞
平成8年(1996)72歳  
  4-5月 中国に遊び、敦煌を訪れる
  9月  台湾を訪ねる
  10月 神戸市東灘区西岡本2-7-2に転居
  10月 大阪芸術賞受賞
平成9年(1997) 73歳 

  2月 次の毎日新聞連載小説「天球は翔ける」の取材を兼ねてハワイへ旅行
  3月下旬 香港返還の意味を見つめ直すテレビ朝日の番組で紫禁城で収録
  6月 ニューヨークに行く
  7月 ハワイへ行き、リハビリ
  10月ー11月 台北から香港へ旅する 
平成10年(1998) 74歳
  1月―2月 ハワイへ 脳内出血以降、寒い時期に暖かい場所へ行くようになる
       ハワイ天理文庫に陳舜臣文庫開設
  5月 上海、台北に遊ぶ
  6月 ハワイのワイキキの浜でリハビリ
  8月 アメリカを取材、イギリスに渡り帰国
  11月 勲三等瑞宝章を受章
  「曹操残夢 魏の曹一族」がベストセラーに
平成11年(1999) 75歳
  「陳舜臣ライブラリー」が早稲田大学総合学術情報センターに設置
  7月 「小説すばる」連載予定の「桃源郷」取材のため中国雲南省へ行く
平成12年(2000) 76歳
  台北で結婚50年を祝う会
  8月 「桃源郷」の追加取材でスペイン、ポルトガルへ行く
平成13年(2001) 77歳
  2月 ハワイ、ラスベガスに遊ぶ
平成14年(2002)78歳
  5月 「毎日新聞インターナショナル」のオープニンキグセレモニーにパネリストとして
     ロスアンゼルスへ行き、キューバも取材する
平成18年(2006) 82歳 
  講談社「群像」にて「天空の詩人」を連載(遺稿になる)
平成20年(2008) 84歳
  1月5日 2度目の脳内出血で倒れる 
平成21年(2009) 85歳
  神戸新聞「わが自叙伝」を口述筆記で連載
平成22年(2010) 86歳 
  7月 台湾の一滴水記念文庫開設される
     水上露子氏と窪島誠一氏と台湾で対談
平成23年(2011) 87歳
  妻未知(蔡錦墩) 5月15日に逝去
平成26年(2014) 90歳
  5月6日 陳舜臣アジア文芸館プレオープン。開館直前に車椅子で訪館
平成27年(2015) 91歳
  1月21日 老衰で逝去。この日を桃源忌とする。                                                                                             


陳年舜臣さんの家族の写真

上の写真は陳舜臣さんの両親 出典:神戸ものがたり(2017)Page208
上の写真は祖父の陳恭和さん 出典:神戸ものがたり(2017)Page211
上の写真は陳舜臣さんと妻・未知、長女・由果 出典:神戸ものがたり(2017)Page252

陳舜臣さんの国籍
 陳さんは1972年の日中国交正常化後に中華人民共和国籍を取得し、何度も中国を旅行した。1989年の天安門事件を経て再び日本国籍を得ると、今度は台湾訪問を重ねた。

陳舜臣さんと司馬遼太郎さん
作家、陳舜臣さんと司馬遼太郎さんの関係は陳さんが1941年に大阪外国語学校
(現大阪大学外国語学部)に、司馬さんは翌42年に入学の同窓生です。
卒業後それぞれ違う道を歩み始めたように見えたが、同じ歴史を舞台にした小説家へ
神戸華僑歴史博物館で開催中の特別展では、東京への転居を考える陳さんに、
司馬さんが「神戸、関西から離れるのは賛成できないなぁー」と語ったと
紹介されています。2人の命日は桃源忌、菜の花忌と呼ばれる。
色鮮やかな桃に黄色がまばゆい菜の花。春が似合う二人である。


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NHKラジオ きょうは何の日 3月28日

2024年03月28日 07時37分20秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月28日をお送りします。

■1876年(明治9年) 廃刀令布告
  警察官、兵士、祭礼など特殊な例を除き刀を差し歩くことは禁じられた

■1940年(昭和15年) 戦時下でカタカナ芸名を改めさせる指示
  ミス・コロンビア、ディック・ミネさんらが芸名を変更させられた

■1979年(昭和54年) スリーマイル島原発事故
  米国ペンシルバニア州のスリーマイル島で原発2号炉のメルトダウン事故
  原因は機械故障、操作ミスなど。45年経つ現在もデブリから強い放射能。

■2023年(令和5年)坂本龍一さん逝く
  戦場のメリークリスマスの曲など数多くの名曲を残した
  YMO(イエロー マジック オーケストラ)のグループで音楽活動


日刊スポーツの「今日はどんな日」3月28日では下記話題などを取り上げています。
■1876年(明治9年) 明治政府が廃刀令を発布



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NHKラジオ きょうは何の日 3月27日

2024年03月27日 06時08分34秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月27日をお送りします。

■1968年(昭和43年) いたいいたい病の原因はカドミウムと最終報告
 富山・神通川に神岡鉱山 からのカドミウムが「いたいいたい病」の原因と
 厚生省が委託した専門チームから報告された 

■1973年(昭和48年) マーロン・ブランドがオスカー受賞拒否
 映画「ゴッドファーザー 」の主演を務めたマーロン・ブランドは先住民の
 描き方に問題がある訴えて受賞拒否
 替わりにアパッチ姿のリトルフェザーさん を送り込んだ

■1990年(平成2年) 夕張市から炭鉱の灯が消える
  三菱南大夕張炭鉱 の操業がストップ


■2017年(平成29年) 栃木・高校生雪崩事故
   那須町の春山登山講習会に参加していた高校の生徒や引率教員らが雪崩に巻き込まれ
   生徒7人と引率教員1人の計8人が死亡、計40人が重軽傷を負った。 

那須の雪崩事故から7年 栃木県教育委員会が27日に「再発防止策」公表へ

日刊スポーツの「今日はどんな日」3月27日では下記話題などを取り上げています。
■1968年(昭和43年)  宇宙飛行士第1号のソ連ガガーリン大佐が戦闘機の訓練飛行中に墜落死 



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兵庫津の教育を担った「明親館と明親小学校」について

2024年03月27日 05時21分30秒 | 神戸情報
現在、神戸市立図書館から借りている本、高田静夫 著「兵庫津風土記」(1994)の

Page122に「兵庫津の教育・明親館」という記述があります。

そこでこの資料をベースに書いていきます。
江戸時代末期に藩校明親館が柳原天神社付近を中心に発祥し神戸最古の小学校である
明親小学校につながっていきます。

明親館(めいしんかん)は明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校
した 郷学の学校で
開校時は兵庫学校*1と称していたがのちに明親館と伊藤博文により命名された。
明治5年(1872)の学制発布で、兵庫第6小学校として明治5年10月13日に
スタートを切りましたその後、明治6年(1873)8月明親小学校と改称されました。 
*1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
    「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
    新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。
 明親小学校は神戸で1番古い小学校として知られています。
明親小学校は神戸市兵庫区須佐野通4丁目1-19に現在も存在しています。

以下、前述の記述と重なる部分もありますが話を続けます。
 
兵庫出在家の豪商神田(岩間家)兵右衛門が主導して安田総兵衛、北風惣右衛門の
連名で兵庫津の住民子弟に教育をしたいと裁判所(県庁)に願いが出された。
すぐ許可されて、切戸町の旧幕府・函館物産会所の建物を使い、姫路藩の秀才儒者の
菅野狷介(けんすけ)*2を教頭に招致し明治元年(1868)6月13日に生徒30-40人集めて開校。
*2 菅野狷介は、文政3年(1820)2月6日菅野真斎の3男として高砂の生まれ。    父真斎は、通称を武助といい、幼少より学問に秀で安芸国福山に赴き菅茶山に学び、頼春水(頼山陽の父)と交友を持ちます。さらに京都に出て医学を学んでから高砂に帰り、申義堂の教授となりました。文政10年(1827)には、姫路藩家老河合寸翁に招かれ仁寿山校の教授に就任します。頼山陽が仁寿山を訪ねるきっかけは、真斎との交友があったからです。後に姫路藩尊攘派のリーダーとなる河合惣兵衛は、この頃仁寿山校で真斎に学んだ志士です。狷介は、父に従い仁寿山校の傍らに住み学を究め、京都・摂津に師を求め医学を学びますが、次兄が早逝したため菅野家の分家の祖となりました。 
菅野狷介(白華)については下記サイトが詳しい。

高砂市十輪寺の墓地には菅野白華と菅野家の墓碑があり、下記ブログで紹介しています。
上記ブログで菅野白華について次のように紹介しています。
菅野白華は文政3年(1820)2月6日、菅野松塢(武助)の三男として高砂町今津町で生れた。
文政10年(1827)姫路仁寿山黌に学び、仁寿山黌の人々は彼を「字引」と称したという。
姫路藩は、白華が21歳の時にを江戸昌平坂学問所(昌平黌)に入らせた。
31歳で姫路藩の江戸藩邸の教官を務めます。
朱子学者であったが海防問題などにも関心を持ち有志の若者が集まったとのこと。
37歳で奥羽・蝦夷地を巡覧しのちに「北遊乗」を著しています。
安政の大獄(1858-1859)で投獄されたが、出獄後姫路藩の好古堂の副督学をつとめ
明治維新後は兵庫県の明親館の教頭を勤めた後、兵庫で病死しました。
帰郷した時に申義堂で教壇に立った可能性があります。

同年9月、裁判所(県庁)が坂本村の新庁舎に移ったのでその跡地へ移転して
「明親館」と名付けられた。
明治5年(1872)3月、兵庫町会所(岡方惣会所)に移転
同年10月、県立神戸洋学校(神戸洋学伝習所)を併合。
和・洋・漢の学問が学べる学校となった。
しかし、明治6年(1873)6月24日には経営不振、新学制公布(1872年)等により閉校。
明親館の教育内容は3クラスに分けて下等は素読、輪読、書法、中等以上では
詩文、暗記、外人も雇って英語の教育も取り入られていた。
月1回は、講日として官吏や一般聴講を許し道徳教育も行われた。
先生には上述の教頭・菅野狷介の他に北仲町の儒学者「広瀬旭荘」や一般医師が登用された。
神田兵右衛門は明親館の運営に大きく関わり資金、資材の提供をしています。
小学校が設立される前の兵庫における教育に果たした役割は一定のものがあったとされる。
神戸市兵庫区に明親小学校、また町名「明親」として名を残している。
兵庫岡方文書の中に、有栖川宮熾仁親王書「明親館」扁額が残っている。
ここで学んだ者に卜部兵吉等がいる。
明治6年(1873)10月、明親館に因んだ名の明親小学校が開校された。


以下、明親小学校の歴史について記載しました。
1871年(明治4年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、
1876年(明治9年)9月3日まで兵庫県令を務めた神田孝平も小学校の創設に
積極的に関与し功績が大であった。
その他、明親小学校の設立に尽力した人物として神田兵右衛門と北風正造らがいる。
明治8年に和田小学校と広明小学校を合併、明治20年には弁天兵庫小学校の
明親分教場と改称。
明治33年9月 明親小学校として独立
明治37年4月 明親尋常高等小学校に改称
明治37年7月 道場尋常小学校開校
明治42年4月 明親尋常小学校に改称
大正10年4月 須佐尋常高等小学校開校
大正12年4月 再び明親尋常高等小学校に改称
昭和16年4月 明親国民学校(高等科)と改称 昭和22年3月31日廃校

昭和16年4月 上記の道場尋常小学校(後に国民学校)と須佐尋常高等小学校が
        合併して道場須佐小学校として発足
昭和23年4月 明親小学校と改称

明親小学校の沿革については明親小学校のHPに詳しく記載されています。
下記リンク:神戸市立明親小学校-沿革 (kobe-c.ed.jp)

因みに神戸で2番目に古い学校は現在の雲中小学校です。
雲中小学校は明治6年(1873)4月の創立です。

明親館に関する写真があるといいのですが適当なものが見つかりません。
そこで、神戸市須磨区にある綱敷天満宮の境内の明親尋常小学校にあった忠孝碑の写真
を紹介することにしました。 撮影:2023-2-28
横に忠孝碑に就てという説明書きがありましたので引用させていただきます。
この石碑は元神戸市立明親尋常小学校校庭に建設された
  建設年月日 大正13年(1924)1月
  文字揮毫者 文学博士 高田忠間 氏
  当時学校長 中安儀太郎 氏
  碑石寄贈者 川瀬ウメ刀自
 昭和20年(1945)3月戦災のため同校罹災し校舎移転終戦等
 事情一変のため当社(綱敷神社)に於て保存建設することとなった
   昭和45年(1970)10月30日  宮司 久野木 理
  (教育勅語発布80周年記念の日)

また、Googleストリートビューで最近の明神小学校の写真を添付して筆を置きます。




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NHKラジオ きょうは何の日 3月26日

2024年03月26日 05時56分55秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月26日をお送りします。

■1945年(昭和20年) アメリカ軍が慶良間諸島に上陸
  太平洋戦争の末期、沖縄戦の始まり 

■1958年(昭和33年) ナンシー梅木さんが米アカデミー助演女優賞受賞
  「さよなら」での演技が評価された。日本人初の快挙。

■1995年(平成7年) EU7カ国が出入国管理を撤廃
  仏、独、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、スペイン、ポルトガル の間で
  自由に行き来できるようになった。シェンゲン圏が誕生 

■2018年(平成30年) 角野栄子さんが国際アンデルセン賞受賞
  「小さなノーベル文学賞」と呼ばれる児童文学の最高峰で角野栄子さんの
  「窓の宅急便」などが評価された。日本人3人目の受賞。

日刊スポーツの「今日はどんな日」3月26日では下記話題などを取り上げています。
■2016年(平成28年) 北海道新幹線の新青森駅~新函館北斗駅間が開業

 
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世界パラ陸上で使用されるメダルがお披露目 on 2024-3-22

2024年03月26日 05時24分30秒 | 神戸情報
2024年3月22日、「神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会組織委員会」の総会が
神戸市役所で開催され、大会で使用される金メダル、銀メダル、銅メダルと
メダルを獲得した選手に贈る記念品「フォトフレーム」がお披露目されました。組織委員会の増田明美会長がデザインなどについて説明しました。
第10回世界パラ陸上・神戸大会が2024年5月17日~5月25日に神戸総合運動公園の
ユニバー記念競技場で開催されます。

私は3月22日、18時からのNHK総合テレビ番組「ほっと関西」で知りました。
上記番組より写真紹介します。






神戸経済ニュースが作成したYoutube動画をGooで共有させていただきました。
世界パラ陸上競技選手権大会のメダル・記念品をお披露目(神戸経済ニュース)
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NHKラジオ きょうは何の日 3月25日

2024年03月25日 06時39分26秒 | Weblog
NHKラジオ5時台の放送より「今日は何の日」3月25日をお送りします。

■電気記念日
  明治11年(1878)の3月25日、工部省電信局は万国電信連合に加盟する準備として
  東京・木挽町に電信中央局を設け、その開局祝賀会を東京・虎ノ門の
  工部大学校(現在の東京大学)の講堂で開催しました。 
  会場に電気灯を使用するよう工部卿伊藤博文から特に命ぜられていた英国人エアトン教授は
  グローブ電池50個を使い、講堂の天井に設置されたアーク灯を点灯
  この事を記念して昭和2年(1927)に制定されました。 

■1964年(昭和39年) 日米テレビ宇宙中継実験に成功
  国立競技場や銀座の風景が送信されました

■1996年(平成8年) 百武すい星が地球に最接近
  地球から1,500万Kmまで接近 440年ぶりの明るい「すい星」が観測された

■2007年(平成19年) 能登半島地震
  M6.9 能登半島の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強


日刊スポーツの「今日はどんな日」3月25日では下記話題などを取り上げています。
■1837年(天保8年) 大坂で大塩平八郎の乱が起こる
  


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