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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

大相撲一敗力士(白鵬、朝乃山、照ノ富士)の対戦相手予測

2020年07月31日 15時46分19秒 | Weblog

大相撲のテレビ中継を毎日、熱心に観ています。

昨日(2020-7-30)16時頃のNHKテレビの放送で優勝争いをしている白鵬、朝乃山

照ノ富士が一敗で並んでおり、三人の今後の対戦相手を予測していましたので、

その場面を写真紹介します。

 

 

昨日の取り組みで横綱白鵬が破れ2敗となりましたが、朝乃山と照ノ富士は1敗を

守りました。また昨日の白鵬は取り組みで右足を負傷した恐れがあり、休場の

可能性もあります。

13日目、本日は1敗同士の対戦があり、その勝敗が優勝争いの大きなポイントと

なりそうです。

新大関の朝乃山を応援しており是非、優勝に向けて頑張ってもらいたい。

 

7月31日(金) 15:44に追記

白鵬が休場となった結果、

14日目の取組 朝乃山は照強 照ノ富士は正代と対戦となりました。

千秋楽はあくまでも予測ですが朝乃山は正代、照ノ富士は御嶽海との対戦が

組まれると予測しました。

他の力士を含めた取組は

日本相撲協会TOP  > 力士情報・成績 > 七月場所情報 > 日別の取組・結果

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都医師会会長「法改正し補償と休業要請を」

2020年07月31日 07時10分33秒 | Gooニュース

2020年7月30日の午後、東京都医師会の尾崎治夫会長は会見を開き、新型コロナウイルス

に関して、国に対する要望と現状認識と対策などを判り易く説明されました。

私はミヤネ屋で会見の模様を視聴しました。

Gooニュースでは次のように動画を交えて報道されています。


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/ntv_news24/nation/ntv_news24-690689

 

以下はミヤネ屋で放送された内容をピックアップしました。

上の写真は新型コロナ感染症を収束に向かわせるための提言

この説明の中で東京は無策では無い、無症状者を含む感染者の積極的な隔離を

実践しており、その結果が下の表の感染者数となっています。

もし、このような対策をしていなければもっとすごい感染者数になっている。

下の写真は30日、16:00のNHKニュースの報道

上の2枚の写真は「今のやり方は限界」特別措置法を改正し、法的拘束力のある

休業要請を行うことが必要と訴えられました。

直ちに、臨時国会を召集し議論していただきたい。

休業要請は休業補償を行い、エピセンター化している地域を限定し14日間程度とする

エピセンターに関しては下記のブログで書いています。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/3343e109dd0789a2e10a2eed9c4ca4de

 

上の写真はPCR検査の利用目的と意義について整理されたパネルの説明

 

14日間の休業中にエピセンター化した地域一帯の大規模なPCR検査を実施し、陽性者を隔離

東京都医師会から心からのお願い

「今すぐに国会を召集し、法改正を。」と訴えられました。

上の写真はミヤネ屋の番組で示された東京都の感染者数に関するグラフ

上の写真は今後の対応に関する提言

上の写真は東京都の現状、基本データ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大丸須磨店4階に設置予定の「神戸市名谷図書館」

2020年07月30日 05時14分49秒 | 神戸情報

大丸須磨店の入り口付近に、2021年3月末に設置予定の「神戸市名谷図書館」の

設置計画に関するPRポスターが掲示されていましたので写真紹介します。

 

上の写真が大丸須磨店4階に設置予定の神戸名谷図書館のPRポスター

撮影:2020-7-10

蔵書7万冊の内、2万冊が児童書となる予定だそうです。

神戸市のサイトでは次のように説明されています。

面積は約1,300平方メートル(4階部分全体は2,305平方メートル)、7万冊規模の図書館となります。
高齢者をはじめ、子育て世代や近隣の高校生ら若い世代も含め、多くの人に親しまれる空間づくりをめざします。
読書や学習に適した静かな空間と、子供たちや若い世代がリラックスして過ごせる空間との両立を目指します。
大丸須磨店を回遊する中で自然と図書館に誘われるような一体感のある空間をめざします。

 

上の写真も同じPRポスターの掲示で立体的な図で表されています。

撮影:2020-7-10

最近の図書館の整備では明石市立図書館が成功例として話題を呼びました。

図書館を駅の周辺に整備すると通勤者も利用でき便利である。

また飲食スペースやおしゃべり出来る憩いのスペースも必要

 

図書館の話題ということで令和5年(2023)頃に整備予定の垂水図書館の整備計画

についても写真で紹介します。

上の写真は整備計画をビジュアルにしたPRポスター

上の写真は垂水図書館の建設予定地のレバンテ垂水2番館の西側の駐車場

撮影:2020-7-29

 

 

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令和2年度神戸市埋蔵文化財センター春季企画展「地下に眠る神戸の歴史展2020」 on 2020-5-27

2020年07月29日 09時14分48秒 | 神戸情報
2020年5月27日、神戸市埋蔵文化財センターの表題の企画展を観てきましたので
写真紹介します。本題は「地下に眠る神戸の歴史展2020」
副題として「平成時代発掘精選」と名付けられています。
 
会期:2020年4月18日(土)~6月21日(日) 終了しています。
 
平成時代に行われた2,300件の発掘調査から選りすぐりの神戸の歴史が紹介されました。
 
展示の遠景
 
 
 
展示で紹介された遺跡一覧
 
 
縄文時代
上の写真は縄文時代 No.1~No.3の展示
 
No.1 都賀遺跡 狩猟場か?集落か? 平成8年度(1996)調査
 
No.2 垂水・日向遺跡 砂浜を歩いた縄文人 平成4年度(192)調査
No.3 原野・沢遺跡 竪穴建物と埋甕  平成7年度(1995)調査
 
No.1 上の4枚の写真は都賀遺跡 狩猟場か?集落か? 平成8年度(1996)調査
 
 
 
弥生時代
上の写真は弥生時代 No.5~No.6の展示
No.5 本山遺跡 近畿最古の水田農耕具  平成7年度(1995)調査
No.6 新方遺跡 縄文人的弥生人  平成8~9年度(1996~19997)調査
 
No.7  北青木遺跡 銅鐸を2回埋めた穴 平成18年度(2006)調査 説明パネル
砂浜で祭祀が行われていた。
 
 
上の写真は弥生時代 No.7~No.9
 
No.7 北青木遺跡 既述のとおり
No.8 西神NT No.65遺跡 銅鐸の鋳型を造ったムラ 平成3年度(1991)調査
No.9 大手町遺跡 「龍」に願った雨乞いか  平成18年度(2006)調査
 
 
古墳時代
 
No.10 西求女塚古墳 前方後方墳と地震の痕跡 
    平成4~5年度、平成6年度、平成12~13年度、平成14年度調査
上の写真は No.11~No.12 及び No.14の展示
 
No.11 塩田北山東古墳 珍しい三角縁一仏三神四獣鏡 平成17年度(2005)調査
No.12 白水瓢塚古墳 学史に残る著名な古墳 平成15年度(2003)調査
No.14 北神NT No.2&No.3古墳 古墳時代後期の首長墳 平成3年度(1991)調査
 
 
No.13 狩口台きつね塚古墳 大型横穴式石室の中に石棺 平成4年度(1992)調査
 
 
古代
No.15 深江北町遺跡 古代山陽道の芦屋駅家  平成11・12・23年度
 
No.16 上沢遺跡 かっていた貴族?高僧? 平成11年度(1999)調査
 房王寺に関するブログ:https://seiyo39.exblog.jp/21740842/
 
No.17 白水遺跡 「延命寺」に吊るされた鐘
No.18 祇園遺跡 福原京の邸宅の園地 平成5~7年度 平成6年度
 
中世
No.19 楠・荒田町遺跡 福原京内邸宅の空堀 平成22年度(2010)調査
 
過去に書いたブログにリンク https://seiyo39.exblog.jp/8401855/
 
 
No.20 二葉町遺跡 舟材を転用した井戸 平成10年度(1998)調査
 
上の写真はNo.21~No.22の展示
 
No.21 頭高山遺跡  山岳寺院と僧の墓 平成8年~9年度に調査
No.22 櫨谷城跡   持ち出せなかった鎧 平成17年度(2005)調査
 
No.23 湯山御殿跡 豊臣秀吉も好きだった温泉  平成8~10年度調査
 
 
 
近世
上の写真は近世 No.24~No.26の展示遠景
 
No.24 兵庫津 姿を現した幻の城 平成24年度、平成25~27年度調査
No.25 明石藩舞子台場跡 明石海峡を守る 平成15~16年度(2003~2004)調査
No.26 和田岬砲台 最新鋭の砲台 平成24年度(2012)調査
 
 
 
近現代
 
No.27 旧外国人居留地 煉瓦造下水道 居留地の下水道 平成26年度(2014)調査
 
近現代 No.28~No.29の展示
 
No.28 御影郷古酒蔵群 江戸で大評判の下り酒  平成18年度(2006)調査
No.29 神戸臨港鉄道 南本町架道橋台跡 神戸港に届いた積荷を運ぶ 平成16年度(2004)調査
 
No.30  二葉町遺跡  太平洋戦争中の代用品  平成19年度(2007)調査
 
 
 
 
現在開催中の夏季企画展
 
最後に現在、開催中の夏季企画展「骨が語る 昔ばなし」 7月23日~10月18日
のリーフレットを添付して筆を置きます。
 
 
 
 
 
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神戸市須磨区 旧室谷邸と須磨離宮公園内の「泉水」のモニュメント

2020年07月28日 05時25分13秒 | 昔こんなものがあった 平成編

本日は昭和10年(1935)に木材商の室谷藤七(むろたに とうしち)氏の自邸

として建築され、平成19年(2007)2月に解体され現在はマンションが建って

いる旧室谷邸を取り上げます。

 

旧室谷邸の基本情報

住所:神戸市須磨区離宮宮前町2丁目 所有者:室谷藤七

設計:W.M.ヴォーリズ 施工:竹中工務店

着工:昭和9年(1934) 竣工:昭和10年(1935)

 

これから紹介する写真は特記しない限り須磨離宮公園内に2010年4月に完成した

馬の水のみ場「泉の水」モニュメントの解説板からのものです。

撮影は2020年7月25日(土)

 

旧室谷邸の写真

 

上の写真は南側外観(大震災後1996)*3

 

上の写真は室谷邸の邸宅と庭園 

出典:須磨の近代史 明治・大正・昭和史話 2版 (2007) Page72

チューダーゴシックと呼ばれるイギリス中世期の様式 木造2階建(一部3階)

壁面に部材が露出させるハーフティンバーや急こう配の切妻屋根に特徴がある。

昭和12年(1937)に茶匠是足庵の設計され、数寄屋棟梁の平田雅哉によって、

母屋の西側にあった茶室(松風庵と命名)は現在、神戸女学院内、北東に移築。

昭和20年(1945)の神戸空襲による損害がなかったので終戦後、昭和21年(1946)

から昭和26年(1951)進駐軍に接収された。

平成7年(1995)の阪神淡路大震災では損壊があった。

平成19年(2007)2月に解体され現在はマンションが建っています。

 

上の写真は旧室谷邸 入り口付近

出典:須磨の近代史 明治・大正・昭和史話 2版 (2007) Page72

 

上の2枚の写真は泉水を中心に撮ったもの 2007年 *5

上の写真は東側外観(2005年)*1

上の写真は門屋内部(門側・1996年)*3

上の写真は門屋内/主や玄関(創建時1935年)*1

 

上の写真は 居間内部(創建時 1935年)*1

上の写真は食堂(隣室は居間) 創建時・1935年 *1

上の写真は南庭園(創建時・1935年)*1

上の写真は1階の平面図 *1

上の写真は2階平面図 *1

上の写真は現地解説板の全体遠景

室谷邸は昭和8(1933)年ヴォーリズ建築事務所(建築家W.M.VORIES/ウイリアム・

メレル・ヴォーリズ)の設計により翌年建てられた英国の伝統的様式のチューダー・

スタイルによる主屋(建築面積85坪・約280㎡)を中心とする邸宅であった。主屋は

鉄筋コンクリート造の地階をもつ木造であるが、外観の1階部は煉瓦造、2階部は

ハーフティンバー、急勾配のスレート屋根、化粧煉瓦積みの煙突を立ち上げていた。

外部の意匠では煉瓦塀に取り付く門屋の屋根が伸び主屋に接続し、渡り廊下風の

玄関ポーチの構成が目を惹いた。内部では楢材の木目を生かした繊細な表現が凝ら

された印象をうける意匠だった。ヴォーリズ建築事務所の設計になる同様式の住宅

に昭和7(1932)年の旧下村邸(現大丸ヴィラ・京都市に現存)が良く知られる。*2

 

写真の原出典:

 *1 ヴォーリズ建築事務所作品集・1908-1936 城南書院発行

 *2 兵庫県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書 2006年刊

 *3 山形政昭氏より写真提供

 *4 中尾嘉孝氏より写真提供

 *5 橋本健治氏より写真提供

 

室谷邸が存在していた時代に撮られた写真が掲載されたサイトにリンク

 http://michiyo0520.blog20.fc2.com/blog-entry-552.html?sp

 http://sano567.my.coocan.jp/muroyatei/index.htm

 https://fkaidofudo.exblog.jp/7368421/

 https://blog.goo.ne.jp/hirohiro009/e/248ef1a8edde0639d919e4e1d2aec7dc

 https://trystero.exblog.jp/8878811/

 https://gipsymania.exblog.jp/4426825/

 

モニュメント 「泉水」について

 設置場所:須磨離宮公園東入り口付近

 設置:神戸市教育委員会事務局  竣工:平成22年(2010)3月

 モニュメント作成:遊空間工房(設計協力:意匠人設計房)

 協力:離宮前赤れんが不滅会/伊藤ハウジング・藤井工務店・絞郎美術工房

    四国工業・シンプロ/須磨ライオンズクラブ

 

上の写真はモニュメント「泉水」 撮影:2020-7-25

以下現地説明板の解説より引用。

室谷邸が存在したことの証しを保存継承するものとして保管されている一部の

解体撤去材の中から、表門の横にあって親しまれていた「泉水」の吐水部の石彫

「男の子の顔」を再活用してモニュメントとした。

室谷邸のイメージをよく伝える赤い化粧煉瓦(レンガ)は、残存していた車庫の

内壁部分から採取し転用しています。

 

上の2枚の写真は室谷邸モニュメント整備記念 植樹「セイヨウニンジンボク」

 離宮公園赤れんがの会 平成22年(2010)10月30日実施

室谷邸モニュメント「泉水」について整備された時期に書かれたサイトにリンク

 https://ameblo.jp/suma-hajime/entry-10518752141.html

旧室谷邸の現況

 

上の写真は旧室谷邸の跡地に建ったマンション(中央)の遠景

撮影:2020-7-11

 

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廃絶した須磨寺の鬼追い

2020年07月27日 05時35分16秒 | 神戸情報

現在、県立図書館より兵庫県民俗研究会編「兵庫県民俗資料 上」(1982)を

借りています。本のPage480-481に新聞記者で民俗学者でもある五十崎杏沖が

「神戸市須磨寺の鬼追」という題で記載されている内容について要約して紹介

します。五十崎杏沖が明治30年(1897)1月6日に須磨寺における鬼追式を観覧し

同年1月8日大阪朝日新聞に掲載された内容を記載したものです。

また上述の本のPage508に廃絶した須磨寺の鬼追い(追儺式)についての記載があり、

この内容も加味して記載していきます。

須磨寺で鬼追い(追儺式)が行われた記録は上述の明治30年(1897)以外に無いが

この時期の前後には実施されていたと推定される。須磨寺の「當山歴代」をチェック

したが見当たらなかった。

例年正月27日又は旧暦6日の1月6日に実施。

追儺式は黄昏時より釣鐘の続打に始まり、21時頃に読経が住んだ後、法螺貝が吹かれ

西の山門より赤鬼、青鬼、小鬼が登場。鬼は松明を手にして大師前に来て参集者の

間を乱舞、松明の火の粉をまき散らす所作が約40分続く。(小鬼は4匹)

今度は赤鬼が木槌を腰に挟み、左手に斧、右手に松明を持ち正覚院の僧坊より登場。

同じく青鬼が左手に鉾、右手に松明を持ち鬼踊りを披露する。

終了時刻は22時頃。

鬼に扮する若者は数日前から身を潔め、当夜は疲労で身は綿の如くなるも、一は神仏

の恵みを身に受くるものなり。一は村の姐さん達から昨夕の鬼はよく出来たと褒められる

を唯一の楽しみに、荒行を競ふて勤める。(西摂大観郡誌篇29Page)

法要について、住職以下七僧は正装で本殿須弥壇にて五穀豊穣国家安泰の祈祷を実施。

本殿の前で鏡餅割の儀式が行われます。赤鬼と青鬼が礼拝した後、舞楽を披露。

赤鬼は斧を振り上げて太鼓を打てば、少年などは一斉に「どつさり」大声をあげて

打ち囃す。この喧噪の中に鏡餅割の式をなし、その斧を青鬼に渡さんず身振りするに

青鬼は頭を左右に打ちふりて歯が痛いゆえ受け取らずとて三回辞み、やうやうに

受け取りぬ。かくてまた赤鬼は木槌にて同じ式を行い、青鬼に木槌を渡し終了。

 

上の2枚の写真はかって須磨寺で行われていた鬼追(追儺式)で使用されていた

鬼面(宝物館の展示)。

運慶作(伝)との説明書きがあります。 撮影:2014-3-8

 

追儺式が夜に実施される例は兵庫県では勝福寺以外はないと思いますが、奈良県の

法隆寺や興福寺では現在も夜に実施されています。

古来の伝統を守っている例だと思います。

 

昭和8年(1933)の著作物なので原文も添付しておきます。

 

 

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神戸市須磨区潮見台町にかってあった藤田ガーデン

2020年07月26日 06時35分11秒 | 神戸情報

昭和40年代に閉鎖されるまで神戸市須磨区潮見台に「藤田ガーデン」と呼ばれた

明治期に藤田財閥を築いた大阪実業家の重鎮、藤田伝三郎の別邸がありました。

現在はマンションになっておりその面影は無い。

神戸新聞 須磨マンスリー 今昔八景 幻の社交場「藤田ガーデン」その面影を

探るという記事が2019年6月25日の朝刊29面で紹介されています。

現在の「藤田ガーデン跡地」とかっての藤田ガーデンについて写真紹介すると共に

藤田伝三郎(藤田男爵)及びその一族について調べた結果を記載していきます。

上の写真はかって潮見台にあった藤田ガーデン(藤田別邸)の建屋

明治時代後期(はっきりとした年月は不明)に建設された当時は政財界人を接待

する迎賓館的なものであった。

戦後は貴婦人が集う社交場として開放されていたと聞いています。

上述の神戸新聞の記事によれば、「須磨の人々の記憶に残るのは、昭和30年代に別邸

の御殿や庭園を活用しオープンした藤田ガーデンで、施設内には御婦人だけで使用

できるバンガローやビヤガーデン、御殿式サロンなどがあった。花見や避暑、月見、

クリスマスといった四季折々のイベントに加え、ダンスやハワイアンパーティも

開かれていた。御婦人方のパラダイスと言える場所であった。

上の2枚の写真は昭和5年(1930)に印刷の須磨周辺の地図で藤田邸として地図に

記載されています。東隣には藤田男爵の甥の久原房之助の別邸も記載されています

さらに、その東側には荻野邸と思われる建物が確認できます。

地図には記載されていませんが久原邸の南側には川崎家の別邸もありました。

藤田邸の南側には八本松という地名あり。

敷地の広さは約8千坪であったとか・・・・・

上の写真は国道2号線から観たマンション「須磨シーサイドヒルズ」

Suma Seaside Hills

現在の住所としては神戸市須磨区潮見台町2丁目

上の写真は須磨海岸から観たマンションの遠景

上の2枚の写真はマンションの北側から撮ったものです。

上の写真はマンションの北側でかっての藤田ガーデンの敷地であった潮見台南公園

住所表示は神戸市須磨区潮見台町2丁目21-3

藤田ガーデンのの名ごこりと思われるのは石がそうであろうと推察

須磨神戸市編入50周年記念誌「須磨」の年表に昭和38年(1963)4月藤田ガーデン

にて「第1回美術家まつり」開催とあります。

美術品収集家でもあった藤田財閥の当主たちは「藤田美術館」に秀品を集め一般の

人にも開放されています。

 

次に、藤田別邸にかってあった2つの石造品についての話題に話を変えます。

1つ目は現在、一の谷の潮音寺に安置されている不動明王の摩崖仏である。

この摩崖仏はかって藤田男爵の別邸にあったが昭和13年(1938)7月3日~5日の

大水害で一の谷川の河口まで土砂とともに流され埋まっていたもので神戸市元町の

永田良介商店の方々をはじめ信仰ある皆様により掘り起こされ潮音寺に手厚く

祀られたものである。梵音山潮音寺は昭和47年(1972)の建立時、不動堂も建立

一の谷不動尊として摩崖仏も安置された。摩崖仏は暦応4年(1341)2月、石大工

行有の他、桜井市多武峰周辺で活躍した藤原系一門の作で南北朝時代(後村上天皇

足利尊氏らが活躍した時代)のものである。

高さ2.7m、厚さ61cm、幅1.03m

全国的にも有名な石造品である。摩崖仏は元々、奈良県天理市にあったもので藤田別邸

が建設された時(明治末~大正初期)に藤田別邸まで運搬された。

上の写真が潮音寺不動堂(護摩堂)に安置されている不動明王の摩崖仏 

 撮影:2019-7-4

2つ目は現在、須磨寺護摩堂の東側にある十三重塔です。

奈良県山辺郡の来迎寺にあったものを、須磨一の谷、藤田邸(もと男爵)に移された後、
昭和36年(1961)に川崎重工業社長だった手塚氏が譲り受け、手塚氏がその年の9月6日
福祥寺(須磨寺)に寄進されたものです。

上の写真は須磨寺護摩堂東側の十三重塔 撮影:2014-3-8

花崗岩でできており、高さは5.24mだそうです。
礎石(軸石)の北面中央に嘉暦2年7月(1327)の刻銘があります。
鎌倉時代に建てられた数少ない石造の遺品で県の指定文化財になっています。
下部(軸部)には金剛界四仏をあらわす梵字が彫られています。
彫り方の特徴から薬研彫りであることが判るそうです。

塔の上部は上から宝珠・水煙・九輪・請花となっています。
相輪の先の四方に小さな突起が見られる部分=水煙は石造の十三重塔には大変珍しい
ものだそうです。

 

藤田伝三郎と一族についてWikipedia(一部加筆)より略歴を引用紹介します。

概要

藤田傳三郎(1841年7月3日(天保12年5月15日) - 明治45年(1912)3月30日)は、

明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である。建設・土木、鉱山、電鉄、

電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、多くの名門企業の前身を築いた。

大企業としてはDOWAホールディングスがある。藤田の名前が付いた有名企業は

藤田観光であり、太閤園、椿山荘、小涌園などを創設した。

また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても
名高い。号を香雪と称す。藤田組の創始者。男爵(民間人で初めての男爵)。

長州藩(現在の山口県萩市)の出身。元奇兵隊士。 
長男は藤田平太郎、次男は藤田徳次郎、三男は藤田彦三郎。

甥に田村市郎:日本水産(ニッスイ)の創業者、久原房之助:日立製作所の創業者。 

上の写真は藤田男爵の肖像写真 出典:Wikipedia

生い立ち
長州藩・萩(現山口県萩市)の酒屋の四男に生まれた。家業は醸造業のほか、藩の下級武士に 融資をおこなう掛屋を兼営していた。幕末の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、

木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結び、この人脈が後に藤田が政商として活躍する素因となった。 
明治2年(1869年)、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、
藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得た。同年、大阪に出て革靴の製造からスタートし、建設業に手を広げた藤田は、明治10年(1877年)の西南戦争で陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげた。  

財閥の形成
贋札事件の直後は陸軍や大阪府からの発注が途絶え、苦境に立たされた。
しかし明治14年(1881年)、それまでの藤田傳三郎商社を藤田組に組織替えして再出発を図った。藤田組は鉄道建設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負い、
建設業で躍進すると共に明治16年(1883年)には大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。 
さらに明治17年(1884年)、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると、技術革新に力をいれ、
明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。
そのほか、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道(国鉄に吸収)、宇治川電気(関西電力の前身)、
北浜銀行(後に三和銀行)などの創設に指導的役割を果たした。
毎日新聞も行き詰った「大阪日報」を藤田が大阪財界人に呼びかけ「大阪毎日新聞」として再興した。
このように、多角的事業経営に乗り出し財閥を形成していった。 

湊川の付け替え明治30年(1897)に着工、 明治34年(1901)竣工

  明治17年(1884)9月に北風正造は神田兵右衛門、藤田積中、長谷川彦一、
  光村弥兵衛、小野正直、松原良太らと共に湊川付け替えの見積もり概算書を提出
  起工に向けて寄付などで支援した。

  大阪商法会議所(五代や藤田)にも支援を依頼

明治20年(1887)6月 藤田伝三郎が兵庫県知事に「湊川附換之儀御願」藤田伝三郎が個人で兵庫県知事より、すべて私費でなら許可の指示を受ける。

明治21年(1888)3月 藤田伝三郎、鴻池善右衛門、村野山人ら7名で再願い

その後も紆余曲折を経て湊川隧道を掘削することで決着。藤田伝三郎も大きな役目

を果たした。

 経過の詳細 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kok11/ko05_1_000000019.html

児島湾干拓事業65年の歳月をかけて昭和38年(1963)に完成。詳細は略

 
美と教育
藤田が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高い。
大阪市都島区網島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館(現在休館中)には、
藤田と息子平太郎と徳次郎が集めた国宝9点、重要文化財51点を含む数千点が収納されている。
藤田の大阪本邸は太閤園、東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、
京都別邸はホテルフジタ京都に衣替えし、藤田観光が経営する。 
美術品蒐集だけでなく、慈善事業や学校教育のための寄付に励み、
自身は兼ねがね徒手空拳から大富豪になったので「富者の楽しみ」と
「貧困の味」をよく知っていると語っていた。
また日本女子大学の化学館、慶應義塾大学の旧図書館の建設や、
早稲田大学の理工学部の創設などには、藤田からの多額の寄付があてられた。 
尚、藤田が明治十八年の淀川洪水によって被害を受けた大長寺(後に移転)の敷地を
買い取って建てた大阪本邸(網島御殿)の土地は戦後に分割されて藤田美術館、太閤園の他、藤田邸跡公園、大阪市公館になっている。 

 

藤田伝三郎の略歴年譜

明治6年(1873年)井上馨が設立した先収会社の設立に参画する。
明治9年(1876年)井上馨の斡旋により藤田三兄弟による「協約書」が作成され、後の藤田組の基盤がつくられる。
明治10年(1877年)西南戦争が勃発すると征討軍の軍需物資を用立てて巨額の富を得る。
明治11年(1878年)大阪商法会議所創設の際、発起人の一人となる。
明治12年(1879年)藤田組贋札事件で伝三郎は逮捕されるが、後に冤罪が判明して釈放される。
明治13年(1880年)愛媛県の市ノ川鉱山の経営に関与して鉱業に進出。大阪硫酸製造会社を創設する。
明治14年(1881年)関西貿易社設立へ参加する。同年、社名を藤田組に変更する。
   資本金は6万円。その内訳は藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎は各15000円である。
明治15年(1882年)琵琶湖の太湖汽船を設立する。
明治16年(1883年)大阪紡績初代取締役頭取に就任する。
明治17年(1884年)9月、政府から秋田県の小坂鉱山の官業払い下げを受ける。この鉱山は以後藤田財閥の中核となっていく。そして、阪堺鉄道(後に南海電鉄)の設立に参画する。
明治18年(1885年)大阪商法会議所第二代会頭に就任する。(初代は五代友厚)
明治20年(1887年)3月、渋沢栄一、大倉組の大倉喜八郎と組んで土木事業に進出し、有限責任日本土木会社を設立する。大阪商品取引所理事長に就任する。
明治21年(1888年)1月、山陽鉄道設立に参画する。同年、大阪毎日新聞成立に参画する。
明治22年(1889年)岡山県の児島湾干拓事業の認可を受ける。
明治25年(1892年)11月、有限責任日本土木会社解散。
明治26年(1893年)6月、大倉喜八郎が単独経営の大倉土木組(現・大成建設)を創設し、日本土木会社の事業は大倉土木組に継承され、藤田組の所有であった軍需・土木事業が譲渡される。
明治26年(1893年)12月、藤田組の本社を合名会社に改組し、合名会社藤田組としてグループ企業の中枢管理機関となる。
明治30年(1897年)1月、北浜銀行の設立に参画する。
明治32年(1899年)5月、本山彦一の下で児島湾干拓事業を開始

     (埋立が完了したのは昭和38年(1963年))。

      同時に1600町歩にも及ぶ藤田農場の開発に着手する。
この頃、小坂鉱山の事務所長であった久原房之助(久原庄三郎の四男)が鉱山事業の立て直しに成功し、経営の多角化と投機の失敗で借金が膨らんでいた藤田組を持ち直させた。この功績は誠に大である。明治38年(1905年)、久原房之助は藤田組の取締役となっていたが、藤田三兄弟が財産争いを起こして紛糾し、嫌気がさして退社した。同年、茨城県の赤沢銅山を買収して日立鉱山と改名し、久原鉱業所を設立した。そして、日立鉱山を中心に手広く事業を行って久原財閥を形成していった。やがて、これが久原の妻の兄にあたる鮎川義介によって経営されるようになり、日産コンツェルン(鮎川財閥)となっていく。ちなみに、小坂鉱山から日立鉱山に移った小平浪平は、そこで後年の日立製作所の基礎を作って足場を固めて行った。 
明治38年(1905年)共同経営者として名を連ねていた伝三郎の甥達が相次いで独立した為、伝三郎の単独経営となる。
明治39年(1906年)宇治川電気設立に参画する。
明治44年(1911年)大阪亜鉛鉱業を設立する。民間人初の男爵に受勲。
明治45年(1912年)伝三郎死去。長男の藤田平太郎が家業を継ぐ。

児島湾埋立事業で第二区が完成し、その区域が児島郡藤田村と命名される。
大正4年(1915年)4月、秋田県の花岡鉱山を買収。
大正5年(1916年)9月、岡山県の柵原鉱山を買収。
大正6年(1917年)藤田銀行を設立。鉱山部門を藤田鉱業株式会社として分離する。
昭和3年(1928年)金融恐慌により藤田銀行が破産する。
昭和12年(1937年)3月、合名会社藤田組と一度分離した藤田鉱業株式会社が合併し、株式会社藤田組を設立する。
昭和20年(1945年)12月、同和鉱業株式会社に社名を変更。藤田鉱業株式会社を再び分離する。
昭和23年(1948年)藤田鉱業株式会社の名称を藤田興業株式会社に変更する。
昭和30年(1955年)藤田興業株式会社から藤田観光株式会社を分離する。
昭和32年(1957年)9月、分離していた藤田興業株式会社を合併する。
平成2年(1990年)1月、興産株式会社を合併する。
平成3年(1991年)4月、東京熱処理工業株式会社を合併する。サーモテック事業本部を設置する。
平成12年(2000年)4月、社内カンパニー制を導入する。
平成18年(2006年)10月、DOWAホールディングス株式会社に社名を変更し、持株会社制に移行する。事業会社DOWAメタルマイン、DOWAエコシステム、DOWAエレクトロニクス、DOWAメタルテック、DOWAサーモテックを設立する。

 

2021年2月12日に藤田観光が大阪市の太閤園を売却という報道がありましたので

リンクしておきます。

 藤田観光「太閤園」売却へ 財務改善の方針へ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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明石公園 ローンボウルス前のパーゴラ on 2020-7-22

2020年07月25日 04時00分57秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年7月22日、明石公園内の兵庫県立図書館に出かけていました。

その時に、ローンボウルス前のパーゴラの写真を撮りましたので紹介します。

上の3枚の写真は明石公園 ローンボウルス前のパーゴラの遠景、中景、近景

明石公園は大正7年(1918)に兵庫県が御料地を借り受けたことに始まります。

大正11年(1922)に剛ノ池、桜堀の南側一帯の整備工事が始まり競技場や園路

が造られました。昭和4年(1929)には明石城跡全域の整備が計画され昭和10年

(1935)に完成しました。パーゴラはこの時に園路の整備に合わせて数か所に

設けられました。

上の写真のパーゴラはその中でも規模の大きいものです。

ローンボウルス場付近にはかって音楽堂があり、音楽堂の前面、剛ノ池を

見渡せるところに設置されたものです。

延長約32m、幅2.7m、高さ約3mで片側8本、16本のコンクリートの柱で

支えられています。現在、天井は波板で覆われています。

景色がいいので現在も、たくさんの人が利用しています。

パーゴラについてWikipediaより語彙の説明を引用紹介します。

パーゴラ(pergola)は、住宅の軒先や庭に設ける、つる性の植物を絡ませる木材
などで組んだ棚。日陰棚(ひかげだな)、つる棚、緑廊(りょくろう)のこと。
日本では藤棚(Wisteria)が一般的である。建築用語のひとつ。

パーゴラとは、もともとイタリアでぶどう棚をさした言葉。
それがテラスの上部に組む棚をさす意味となり、植物をはわせることによって
日陰をつくり、ティータイムなどを楽しむくつろぎの場となったり、

ガーデニングの立体的な景観を楽しむものとなったといわれる。

上の写真はパーゴラの設置場所を示したものです。

 

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世界初の地震学教授 関谷清景の顕彰碑 in 禅昌寺(神戸市須磨区) 

2020年07月24日 05時02分29秒 | 神戸情報

現在、兵庫県立図書館で 須磨神戸市編入50周年記念誌「須磨」という本を

借りています。

須磨の史話 第十三夜「地震学の開祖 関谷清景博士の墓」Page34で

関谷清景博士の弟の関谷銘次郎が建立した頌徳碑の内容が記載されていました

のでその内容を紹介します。まず禅昌寺に眠る関谷清景の墓を写真紹介します。

関谷清景の墓(禅昌寺)

上の写真は従五位 理学博士 関谷清景の墓(2014-5-2に禅昌寺訪問)

禅昌寺にある関谷清景博士の墓については下記のブログで紹介しています。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/319ea8b5290b15b88858f29f81b0e88f

顕彰碑碑文

従五位理学博士関谷清景ハ美濃国大垣藩士関谷玄助君ノ長男ナリ安政元年二月

大垣ニ生ル明治三年朝廷ヨリ貢進生ニ徴サレ大学南校ニ入ル同九年英国ニ留学

ヲ命ゼラレ機械工学ヲ専修ス同十年肺患ニ罹リ帰朝ス、爾後数年且養且学ブ、

同十三年初メテ地震研究ノ事ニ従ヒ遂ニ之ヲ採リテ専攻ノ学トス、ケダシ宇内

斯学未ダ発達セズ而シテ本邦古来□震災ニ罹ルヲ以テナリ同十九年理科大学教授

ニ任ジラレ地震学ヲ教授ス同二十一年七月岩代国磐梯山破裂噴火ス君報ヲ得テ

病身ヲ以テ登山シ露臥数日細ニ此地変ヲ観測ス同二十二年七月肥後国熊本地

大ニ震フ是ニ於テ君朋友ノ諫止ヲ用ヒズ病ヲ冒シテ亦震災地ニ至リ輿ニ乗リテ

奔走シ日夜調査ヲ為シ人心ヲ鎮ムルコトニ尽力ス而シテ病益重キヲ加フ同二十四

年八月理学博士ノ学位ヲ授ケラル同年十月濃尾両州地大ニ震フ君時ニ病ヲ養ヒテ

摂州ニ在リ強メテ之ニ赴キ人心の動揺ヲ鎮静シ且ツ大垣ノ親戚故旧ヲ慰撫スケダシ

此時大垣ハ人ヲ殺シ家ヲ壊シ殊ニ悲惨ヲ極メタリ同二十七年六月東京強震ス君時ニ

病辱ニ在リ亦強メテ諸般ノ調査ヲ指揮ス同年秋病勢益加レルヲ以テ職を辞シテ摂津

八部郡板宿村禅昌寺ニ保養シ且自ラ此ヲ以テ埋骨ノ地ト定ム同二十九年一月八日

従五位ニ叙セラレ此日病漸ク革リ少シモ苦ムコト無クシテ長逝セリ君ハ実ニ本邦

地震学ノ開祖ニシテ斯学ヲ発達セシメ而シテ遂ニ身ヲ斯学ノタメニ殉シタリ嗚呼

偉大ナラズヤ君行清ク心剛ニ自ラ信ズルコト甚厚ク時ヲ惜ミ用ヲ節シ又克ク人ヲ

愛シ時ニ貧弱ヲ愛燐ス人其ノ徳ニ服セリ君終生娶ラス故ニ嗣ナシ一弟一妹アリ

弟ハ銘二郎妹ハ美志泉法輪ニ嫁ス弟銘二郎乃家ヲ嗣グ

 

上記の文章は読み難いので年譜形式で書いておきます。

Wikipediaも参照し重要事項は追記した

安政元年(1854)12月11日: 従五位理学博士 関谷清景は大垣藩士の関谷玄助の長男として岐阜県大垣市に生まれる。

明治3年(1870):朝廷より貢進生に選ばれ大学南校(現在の東京大学)に入学

明治9年(1876): ロンドンに留学(機械学)

明治10年(1877):春に、結核に罹患8月に英国を出発帰国。神戸で療養

明治12年(1879):神戸師範学校の教員として勤める

明治13年(1880):東京大学理学部機械工学科教員となる、地震学実験所助手

明治17年(1884): 『地震報告心得』を取りまとめる。

明治19年(1886): 帝国大学理科大学地震学教授になる。

明治21年(1888): 磐梯山現地踏査。

明治22年(1889)7月28日:熊本地震が発生 病(結核)をおして現地調査

明治24年(1891):理学博士の学位を授与(8月24日)。濃尾地震(10月28日)発生

     10月29日 - 被災地の人心安定のため、執筆活動を始める。

    • 11月17日 - 濃尾地震を調査する委員会の設立を政府に建議する。
    • 11月20日 - 大垣で駕籠を使用して被災状況の視察を行う。

明治27年(1894)6月:東京で強い地震があったが病床から調査を指揮。この頃病状が悪化12月から禅昌寺で療養生活

明治28年(1895):すべての職を辞す

明治29年(1896)1月8日: 結核が悪化し死去。従五位を叙勲

  関谷清景は若い時から結核に罹患したことから結婚せず終生、独身であった。

顕彰碑に兄弟のことが書かれています。調べて判明したことを記載しておきます。

 弟:関谷銘次郎(せきや めいじろう)陸軍大佐 正六位勲五等功四級
   生年不明~明治37年(1904)8月31日 日露戦争で戦死
   明治29年、兄の病没の時、学友その他諸名士よりの香典1,500円に達した
   銘二郎はこれに若干金を加へ金1,600円とし、地震学の奨励金とした。
   帝国大学に寄付され「關谷の奨学金」と銘名し運用された。 

 妹:名前は美志 陸軍中佐の泉法輪に嫁ぐ 関谷銘次郎の家を継ぐ

上の写真は従五位 理学博士 関谷清景の肖像写真 出典:Wikipedia

 

最後に禅昌寺(神戸市須磨区)の基本情報を添付して筆を置きます。

禅昌寺(ぜんしょうじ)の基本情報
住所:神戸市須磨区禅昌寺町2丁目5-1 TEL:078-732-2590
山号:神撫山(じんぶさん) 宗派:臨済宗南禅寺派(大応派)
通称:雀のお宿(スズメ寺)や紅葉寺として知られています。
本尊:十一面観音。
創建:延文年間(1356~1361年)月庵禅師宗光により創建
   後光厳天皇(1338-1374 在位=1352-1371)の勅願による


禅昌寺は下記の摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院
宝満寺(開基法燈国師) 南禅寺派 (法燈派) 神戸市長田区
福海寺(開山在庵禅師) 南禅寺派 (宗覚派) 神戸市兵庫区
廣厳寺(開山明極禅師) 南禅寺派 (明極派) 神戸市中央区 
福厳寺(開山佛燈国師) 南禅寺派 (大覚派) 神戸市兵庫区

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増田屋本店でのランチ on 2020-7-20

2020年07月23日 05時19分43秒 | 神戸情報

2020年7月20日(月)、神戸市垂水区の増田屋本店でランチをいただきました。
最近は平磯店にばかり行っており、本店への訪問は久しぶりでしたのでブログを

作成することにしました。早速、ランチの写真を紹介します。

増田屋本店の基本情報
住所:神戸市垂水区日向2-5-17  TEL:078-705-0333
営業時間:11:00~20:30  定休日:火曜日
料理ジャンル:寿司


公式HP:http://www.sushi-masudaya.jp/
 
公式Facebook:https://www.facebook.com/pages/%E5%A2%97%E7%94%B0%E5%B1%8B/405160282914906

地図は下記のブログで掲載しています。
 http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/4139a96a42c91b4c8f22732561dbeb80

 

上の写真は当日いただいたミニ会席(松) 1,400円(税別)

上の写真はミニ会席(松)が載っているメニュー表

上の写真は奥様の定番天ぷら定食 1,200円(税別)

上の写真は天婦羅定食の中の季節の一品 鱧(はも)のアップ

上の写真は天ぷら定食が掲載されているメニュー表

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