CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

祇園祭の起源について 2017-7-11 毎日放送 Voiceより

2017年07月12日 06時17分43秒 | 京都情報
7月1日より祇園祭が始まり7月31日の疫神社夏越祭まで続きます。
昨日(2017-7-11)、毎日放送 Voiceという番組で祇園祭の起源について 
東京大学史料編纂所名誉教授の保立道久氏が新たな解釈をされておりその内容を紹介した
番組であった。興味深い内容であったので憶えとして書いておきます。

Wikipediaによれば祇園祭の起源について下記のように書かれています。

疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。
御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残した
まま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が
続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、
869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、
全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を
卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。
この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。


番組での結論は祇園祭のきっかけは流行病を沈めるためだとされてきたがそれだけでなく
地震や津波などの災害や大疫を鎮めることが重要であるとのこと(下に添付)



下の一覧年表は少しスパンを長くした天地天変を纏めたものです。
 出典:保立道久 『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書) 
・678年、筑紫地震
・684年、南海トラフ地震
・729年、長屋王自死、怨霊化事件
・734年、河内大和地震(長屋王父の高市皇子墳墓も崩壊)
・737年、疫病流行(藤原四兄弟死去)
・740年、恭仁京遷都
・742年、紫香楽京造営
・745年、美濃地震(紫香楽京被災)、平城遷都
・752年、東大寺大仏開眼(華厳経、釈迦は地震を鎮める)
・800年、富士大噴火
・818年、北関東地震
・838年、伊豆神津島大噴火
・864年、富士大噴火(富士五湖ができる)
・869年、東北沖大津波(一昨年の大津波はこの繰り返しだった)
  祇園祭の始まり
・879年、南関東地震
・887年、東海・南海大地震(八ヶ岳山体崩壊)
・915年、十和田大噴火(記録のあるうちでは日本最大)

全体としては、七世紀末から八世紀半ばに地震の活発期があって、八世紀後半は少し
静かになり、九世紀の四半世紀頃から再び地震が激しくなるということになります。


神泉苑で行われたお祓い神事









番組では祇園祭の起源はWikipediaの解説にあるように貞観5年(863)神泉苑で行われた
御霊会がはじまりであったことが紹介されています。
神泉苑の鳥越英徳住職が全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、
その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓ったと説明されています。
八坂神社より神泉苑に行列を組んで神事が行われた。

御霊会では早良親王(崇道天皇)をはじめ藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂らの怨霊を祭る

下記サイトに祇園祭の起源と歴史が簡潔に纏められていますのでリンクさせて頂きます
http://ii-nippon.net/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%AD/1779.html

広峰神社から八坂神社に移された牛頭天王




東京大学史料編纂所名誉教授の保立道久氏は『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で
祇園祭のはじまりについて当時頻発していた地震を鎮めることが大きく関係していると
述べられています。
磯田道史は歴史家の中でも新説が浸透してきているとコメントされました。




八坂神社は牛頭天王・スサノオノミコトを広峯神社から連れてくることで地震を鎮めようと
考え移された。
広峯神社に祀られている牛頭天王は後にスサノオノミコトと同一視され、疫病や災害などを
防ぐ神として全国に知られていた。

さらに保立氏は八坂神社は花折断層と桃山断層に挟まれたところにあり、広峯神社も
山崎断層の裾野に位置している。
断層の動く場所を神様の居場所と見定め神社を置いたとの論を説明されました。
(下の2枚の写真)






昨年の祇園祭 前祭 山鉾巡行についてブログを書いていますのでリンクしておきます。

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その1 1番目の長刀鉾~6番目の太子山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その2  7番目の四条傘鉾~12番目の保昌山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その3  13番目の鶏鉾~18番目の木賊山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その4(最終回) 19番目の郭巨山~23番目の 船鉾
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ねじりまんぽと田辺朔郎氏の銅像 in 京都・蹴上 on 2017-4-13

2017年06月05日 04時34分51秒 | 京都情報
2013年11月3日BS朝日の百年名家の録画を観ていたら琵琶湖疎水と「ねじりまんぽ」の
映像があったのでそれに刺激されて2017年4月13日に訪問した写真を基に表題のテーマ
で記載していきます。

「ねじりまんぽ」とは地下鉄東西線蹴上駅を地上に上がってすぐのところにある歩行者用トンネル
の愛称で上からの大きな負荷に耐えられるよう、ねじったように斜めにレンガを
積んで作られたトンネルを意味します。英語ではNejirimanpo twisted tunnelとか
Spiral Brick Tunnelと訳されます。

英文での説明は下記サイトにあります。(京都 岡崎コンシェルジュのサイト)
 http://www.kyoto-okazaki.jp/spot/spnjmp

 Googleマップ(所在地の地図)へのリンク
 https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B000'31.1%22N+135%C2%B047'24.5%22E/@35.0086483,135.7879625,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.0086483!4d135.7901512


上の写真は国道143号線側の入口
篆書(てんしょ)体で「雄観奇想」(ゆうかんきそう)と書かれた扁額が目立ちます。
扁額は粟田焼きで、揮毫は第三代京都府知事・北垣国道だそうです。

「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味。
北垣国道は琵琶湖疎水が完成した姿を雄観と表現さらに若きエンジニアの田辺朔郎氏の突出した
アイデアを讃えさらに電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を奇想と表現したと推定
されます。


上の写真は上述の百年名家の番組の映像です。


上の写真はトンネル入り口付近に掲示の京都一周トレイルの案内板です。






上の3枚の写真はトンネルの内部。
(下の2枚は上述の百年名家の映像より)


上の写真は反対側の入口部分です。
扁額には「陽気発処」と書かれているようですが字が消えてしまっていて判読できません。

『陽気発処 金石亦透 精神一倒 何事不成』
(ようきはっするところ きんせきまたとおる せいしんいっとう なにごとかならざん)
という言葉の一部で『集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる』という意味だそうです。
上述のサイトでは次のように英訳されています。
we can do anything with our concentration


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示で「雄観奇想」の扁額が展示されていました。

琵琶湖疎水事業は、第3代京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者
として、明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

ねじりまんぽを設計・製作した田辺朔郎工学博士に焦点を当てて写真紹介していきます。


上の写真は田辺朔郎工学博士の業績を讃え建てられた銅像、顕彰碑と説明石碑の遠景です。


上の写真は田辺朔郎工学博士の銅像


上の写真は田辺朔郎氏の顕彰碑


上の写真は田辺朔郎工学博士の説明石碑

田辺朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)に工部大学校(現在の東大工学部)
の学生であった田辺は京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に
会い請われて翌年京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け明治18年(1885)
起工後は設計 施工の総責任者となる当時はほとんど機械 資材とてなく いわば人力のみに頼る
長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念不屈の精神力により
これを克服した。 また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し産業動力源
とするとともにわが国初の路面電車を京都に走らせた明治23年(1890)4月晴れの通水式を迎えた
田辺朔郎は28才であった。わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に近代都市京都
の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建てここに顕彰する
                        京都市


銅像は京都華頂ライオンズクラブが1982年11月に建て、京都市に寄贈した。(下の写真)









上の3枚の写真は琵琶湖疎水記念館の説明パネル(北垣国道知事と田辺朔郎工学博士)

疏水建設は当初、運河や水車動力が目的だったが、後に水力発電や上水道へと役割を変えた。
第二疏水も着工され、東京遷都によって沈滞していた京都の産業界は活力を取り戻した。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

蹴上(けあげ)発電所訪問記 on 2017-4-13

2017年05月06日 05時20分08秒 | 京都情報
2017年4月13日に琵琶湖疎水の水を利用した日本初の水力発電所「蹴上発電所」を敷地の外側
より写真を撮ってきましたので関連資料と共に紹介します。

琵琶湖疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、
明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

一方、蹴上発電所は明治21年(1888)に田辺朔郎と高木文平はアメリカコロラド州アスペンの
銀山で視察した水力発電に関心を持ち,導入を決定しました。
第一期蹴上発電所は明治23年(1890)に建設工事が開始され明治24年(1891)に完成しました。

明治45年(1912)第2疏水の完成に伴い第一期蹴上発電所が取り壊され、第二期蹴上発電所が開業。

昭和11年(1936)には、第一期発電所の跡地に第三期発電所が建設された。

2001年に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、夷川発電所、墨染発電所とともに
土木学会選奨土木遺産に認定されている


蹴上発電所(けあげはつでんしょ)の歴史や由来について、さらに詳細は下記サイトを参照
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000170052

蹴上発電所の現況については下記サイトを参照願います
http://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2016/__icsFiles/afieldfile/2016/09/12/0912_1j_02.pdf

蹴上発電所の基本情報

住所:京都市左京区粟田口鳥居町1番地 TEL:関西電力 蹴上発電所 非公開(見学不可)
現況:運転中 着工:明治23年(1890)1月  運転開始:明治24年(1891)6月
発電方式:水路式 最大出力:4,500kW 発電電力量:16.7百万Kwh/年
最大使用水量:16.7㎥/s 有効落差:33.74m CO2削減量:約8,300t/年



上の写真は蹴上発電所周辺の地図

前置きが長くなりましたが早速写真紹介に入っていきます。

上の写真は蹴上発電所のあゆみに関する現地説明板です。


上の写真は上記の説明版の図の拡大版です。


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示パネルで夷川発電所、墨染(伏見)発電所が竣工した
年代も確認できます。

第1期蹴上発電所

上の写真も同じく現地の説明板で第1期蹴上発電所についてと年表が記載されています。
この中に今は残存していませんが当時の建物の写真がありましたので下に添付しました。






上の2枚の写真は第1期蹴上発電所で使用されていたペルトン式水車の展示(琵琶湖疎水記念館)と説明板





上の2枚の写真は第1期蹴上発電所で使用されていたスタンレー式発電機の展示(琵琶湖疎水記念館)と説明板

第2期蹴上発電所


上の写真は第2期蹴上発電所の現地説明板








上の4枚の写真は琵琶湖疎水記念館における第2期蹴上発電所に関する展示















上の7枚の写真は現存する第2期蹴上発電所の建物






上の3枚の写真は2013-11-3放送 BS朝日 「百年名家 京都琵琶湖疎水の流れる町」からの
第2期蹴上発電所に関するもので当時の電線は発電機ごとに電線が分かれていることを説明
したもので建物から電線の穴が多数あることが判る(現存)

第3期蹴上発電所


上の写真は第3期蹴上発電所の現地説明板


上の写真は第3期蹴上発電所の現況 撮影:2017-4-13

小生の関連ブログ:南禅寺の境内の水路橋「水路閣」 on 2013-1-30

         銀閣寺(慈照寺) on 2012-9-5    
コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加

建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その3 法堂の天井画 小泉淳作氏の作品「双龍図」

2017年04月22日 04時10分04秒 | 京都情報
2014年の12月17日に建仁寺を訪問しています。

今回はその第3回として建仁寺・法堂の天井に描かれた小泉淳作氏の作品「双龍図」を紹介します。

第1回 建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その1 俵屋宗達の作品「風神雷神図」

第2回 建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その2 海北友松作の方丈の襖絵

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山(注)の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

(注)京都五山:南禅寺(別格)・天龍寺(1位)・相国寺(2位)・建仁寺(3位)・
        東福寺(4位)・万寿寺(5位)

 Wikipediaによれば「京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは
  決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、
  大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している」


公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm 

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm 

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/





上の2枚の写真は小泉淳作氏の作品「双龍図」
作品は2年の歳月をかけ平成13年(2001)10月に完成
平成14年(2002)4月14日に開眼法要が行われました

龍が法の雨(仏法の教え)を降らすといわれ、また龍神は水をつかさどることから「火災から守る」
という意味も込められています




上の2枚の写真は小泉淳作の「双龍図」に関する現地説明板


上の写真は案内の看板 双龍図の他に仏像の写真もあったので添付しました。

作者の小泉淳作氏についてWikipediaより引用紹介します。

小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 - 2012年1月9日)、は日本画家、陶芸家。

鎌倉市生まれ。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。山本丘人に師事し、
1952年東京藝術大学日本画科を卒業。その後デザイナーとして活動し、陶芸家としても注目された。
その間も日本画を画き続けたが、日本画家として注目を浴びたのは1970年代半ばである。
最近の重要な作品としては、建仁寺および建長寺の天井画がある。
陸軍予備士官学校の経験からか戦争には強烈な嫌悪感をもつ

父:小泉策太郎(立憲政友会所属の政治家)
母:大内ふみ
同母弟:汪(ひろし、俳優の小泉博)
異母兄弟姉妹多数、詳細不明(小泉策太郎の正妻には子がいない)
5歳のとき実母が急死し、東京広尾の本宅に移り住む。13歳のとき父小泉策太郎死去。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その2 海北友松作の方丈の襖絵

2017年04月21日 06時02分12秒 | 京都情報
2014年の12月17日に建仁寺を訪問しています。

今回はその第2回として海北友松の作品「雲竜図」他の方丈の襖絵を紹介します。

第1回 建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その1 俵屋宗達の作品「風神雷神図」

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山(注)の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

(注)京都五山:南禅寺(別格)・天龍寺(1位)・相国寺(2位)・建仁寺(3位)・
        東福寺(4位)・万寿寺(5位)

 Wikipediaによれば「京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは
  決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、
  大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している」


公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm 

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm 

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/





上の2枚の写真は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した海北友松の作の「雲龍図」8面です。


上の写真は海北友松筆「雲龍図」の現地説明板です。

上記の「雲竜図」の他に「竹林七賢図」16面、「琴棋書画図」10面、「山水図」8面、「花鳥図」8面
(すべて重要文化財)は栄西禅師800年大遠忌記念事業の一環として京都文化協会・キャノン株式会社
の協力により上述全50面の襖絵を高精細デジタルにて複製、一般公開され我々も複製品を鑑賞
できるようになりました。

オリジナル作品は、昭和初期の大型台風の影響で方丈が倒壊した際、幸いにも他の用件で襖を外していたので
難を逃れましたが、今後同じようなことが起こって貴重な文化財を消失させてはならないという理由で、
襖から掛軸に形を変えた上で、現在は京都国立博物館に保管されています。

2017(平成29)年4月11日(火)~ 5月21日(日)の会期で、京都国立博物館 平成知新館において
開館120周年記念特別展覧会 海北友松(かいほうゆうしょう)が開催されておりこれらのオリジナル作品を
鑑賞できます。






上の写真は「山水画」8面の襖絵。
海北友松が方丈襖絵を描いたのは慶長4年(1599)のことである。(下の年譜も参照)

海北友松(1533-1615)と関連事象に関する簡単な年譜を添付しておきます。
  出典:現地説明板とWikipedia

天文2年(1533) 海北友松、近江坂田郡に生まれる 浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。
         「友徳」、「紹益」とも。「如切斎」「有景斎」などとも号した

天文4年(1535) 父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行 
         このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳とも?

天正元年(1573) 織田信長により浅井長政滅ばされる
         この戦いで兄・海北主水正が戦死
         友松はこの頃還俗か?

天正5年(1577) 建仁寺291世 梅仙東甫が海北友松の画に着賛

天正7年(1579) 安国寺恵瓊 東福寺塔頭 退耕庵の住持に

天正10年(1582) 斎藤利三(春日局の父)山崎の合戦で敗れ礫にされる 
          海北友松 斎藤利三の首を奪い東陽坊長盛と共に真如堂に葬る
           (この功績により息子の友雪は後に春日局から褒賞を受けている。)
          秀吉の備中高松城水攻め、安国寺恵瓊が毛利軍との講和を斡旋

天正14年(1586) 建仁寺292世 英甫永雄が海北友松の画に着賛

天正17年(1589) 11月桂離宮御別業御造営
           一説に海北友松と狩野永徳が襖絵を描くとあり

文禄元年(1592) 文禄の役(慶長3年(1598)まで朝鮮出兵)
          海北友松石田三成と接触

文禄2年(1593) 施薬院茶会 海北友松は豊臣秀吉に招かれ出席

文禄3年(1594) 海北友松 青蓮院尊朝法親王に扇2本を進上
          秀吉伏見城を築く

慶長3年(1598) 海北友松 石田三成に伴って九州に下向する
          安国寺恵瓊 東福寺224世住持に
          豊臣秀吉没

慶長4年(1599) 建仁寺方丈 安国寺恵瓊により再興
         海北友松 方丈襖絵を描く

慶長5年(1600) 石田三成・安国寺恵瓊が刑死

慶長7年(1602) 石原家飲中八仙図を描く(京都国立博物館寄託六曲一隻 重要文化財)
         山水図(東京国立博物館)を描く 六曲一隻 紙本墨画
         桂宮智仁親王邸に出入りし襖絵の注文を受ける

慶長8年(1603) 正月、桂宮智仁親王邸へ年賀の挨拶に出向く

慶長9年(1604) 正月、桂宮智仁親王邸へ年賀の挨拶に出向く

慶長10年(1605) 建仁寺294世 古澗慈稽 (海北友松の画に着賛)
          花卉図(妙心寺)の金屏風 六曲一双 重文 この頃の作か?

慶長11年(1606) 建仁寺295世 三江紹益(海北友松の画に着賛)

慶長15年(1610) 建仁寺298世 筠渓玄徹(海北友松の画に着賛)

慶長16年(1611) 李白観瀑図

慶長17年(1612) 旧藪本家禅宗祖師図

慶長20年(1615) 6月2日(1615年6月27日)海北友松 没 82歳

建仁寺の襖絵では橋本関雪の筆の作品もあるようですが写真撮影していません。

関連サイト:
   http://souda-kyoto.jp/knowledge/culture/yusho.html

   http://yusho2017.jp/

   https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/138755/

   http://www.ryuss2.pvsa.mmrs.jp/ryu-iware/kyoto-2015/kenninji-kaiho.htm

   http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/04/27/%E9%9B%B2%E9%BE%8D%E5%9B%B3/




上の2枚の写真は海北友松「琴棋書画図 きんきしょがず(10面)」
方丈の上間一之間(衣鉢の間)にあります






上の3枚の写真は海北友松「竹林七賢図(16面)」






上の3枚の写真は海北友松「花鳥図(8面)」
コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加

志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)でのモーニング on 2017-4-13

2017年04月17日 06時55分52秒 | 京都情報
2017年4月13日(木)、京都市営地下鉄烏丸御池駅にある志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)で
モーニングをいただきましたので写真紹介します。

志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)の基本情報

住所:京都市中京区虎屋町地先 京都市営地下鉄烏丸御池駅構内 TEL:075-211-7205
料理ジャンル:ベーカリー(イートインコーナー有)
営業時間:7:00~21:00  定休日:年中無休(元日のみ休み)

公式サイト:http://www.sizuya.co.jp/


上の写真は当日いただいた モーニングセットB 500円です。
飲み物は選択できます。


上の写真はお店の外観


上の写真は京都市営地下鉄烏丸線のホーム安全ガードです。


上の写真は京都市営地下鉄東西線のホーム安全ガードです。
47歳で死去した義弟がスタッフの一員として設置の仕事に携わりました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

京都山科 毘沙門堂 on 2017-4-13

2017年04月14日 06時35分33秒 | 京都情報
2017年4月13日、京都山科の毘沙門堂門跡を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。
毘沙門堂は天台宗京都五門跡の一であり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。
「毘沙門堂門跡」以外のの門跡は①青蓮院門跡、②三千院門跡、③妙法院門跡、④曼殊院門跡

当日、京都へ行く時はいつもはJRを利用することが多いのですが阪急を利用したこと
京都地下鉄東西線の山科、御陵、蹴上の3駅で桜の疎水巡りで歩き過ぎたことさらに滋賀県
坂本の日吉大社の山王祭を観てきたことなどでいささか疲れました。

まず、いつものように京都山科 毘沙門堂の基本情報から始めます。

京都山科 毘沙門堂門跡の基本情報
住所:京都市山科区安朱稲荷山町18 TEL:075-581-0328
宗派:天台宗  山号:護法山  御本尊:毘沙門天
開創:大宝3年(703) 文武天皇の勅願で行基が開創した
拝観時間:8:30~17:00(16:30最終受付) 12月~2月は16:30閉門(16:00最終受付)


公式サイト:http://bishamon.or.jp/
公式FB:https://www.facebook.com/bishamondo


上の写真は毘沙門堂の本堂を中心とした遠景


上の写真は仁王門から観た毘沙門堂本殿


上の写真は毘沙門堂の現地説明板






読みづらいので拡大版を添付しました(上の3枚の写真)


上の写真はJR山科駅から毘沙門堂までのルートを示した説明版(毘沙門堂の説明も有り)




読みづらいので拡大版を添付しました(上の2枚の写真)





上の写真は毘沙門堂本殿の近景写真
扁額には出雲寺と記載されています。毘沙門堂は創建当初、出雲寺と呼ばれていました。
Wikipediaによれば
出雲寺の名前の由来は創建当初、出雲路(上京区・御所の北方)にあったことによります。
出雲路は現在の上御霊神社付近
平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を
合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、寛文5年(1665)徳川家康とも関係の深かった天海と
その弟子の公海によって現在地に移転・復興されました。


この中に御本尊の毘沙門天はこの本殿に安置されています。
この毘沙門天像は天台宗の宗祖伝教大師(最澄)のご自作で延暦寺根本中道の御本尊薬師如来の予材
で刻まれたもので像の高さは7cm程度だそうです。秘仏はお前立「毘沙門天像」の背後にある多宝塔
の中にあり300年?に1回御開帳があるとのことでした。

500円の拝観料を払って見どころを説明していただきました。
但し撮影禁止なのでリーフレットよりコピーしたものを使用して説明します。



上の写真は霊殿の守護龍で、狩野永叔主信の作。眼の向きや顔が、見る角度によって変化する。
案内に従ってうえを見ながら鑑賞させていただきました。

霊殿は元禄6年(1693)第3世公辦法親王の建立で阿弥陀如来を中心にした歴代住職の影像や位牌が安置



上の写真は宸殿内部の襖絵の一部で狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作だそうです
どの角度から見ても、鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法。

机を見ながら左右に動いてみるとみる角度で机の形が変わることを実感しました


上の写真は丸山応挙の作品で 鯉は背景の描き方さらに木目や節も考えた構図になっているとの
説明を受けました。


上の写真は極楽橋の近くに掲示してあった毘沙門堂の境内案内図です。

上記境内図の下側に毘沙門堂門跡の年中行事が書かれていましたので添付(下の写真)


これに従って境内案内をしていきます。
極楽橋



上の写真は極楽橋と現地説明板
第111代天皇「後西天皇(1637~1685)在位は1654~1663」が行幸された時のエピソード
如何に高貴な方もの橋の前では下車されたそうです。

仁王門

上の写真は仁王門の遠景です




上の2枚の写真は仁王門の仁王像


上の写真は仁王門の外側の蟇股(かえるまた)拡大図

地蔵尊

上の写真は地蔵尊の近景 遠景は既に添付した仁王門の遠景の中で右手に写っています。



本殿
本殿の写真は既に何枚か添付しています


上の写真は本殿前の唐風門


上の写真は本殿を側面から撮ったものです。


上の写真は弁天堂から撮った本殿


上の写真は本殿の周囲の回廊

経蔵


上の写真は経蔵の建物外観 中には仏像の他、お経の入った木箱が置かれていました。

手水舎


上の写真は手水舎

境内社

上の写真は境内社

弁天堂



上の写真は弁天堂の参道と弁天堂

鐘楼

上の写真は鐘楼

山王社

上の写真は山王社

宸殿





上の3枚の写真は桜に囲まれて華やかな宸殿


上の写真は宸殿の現地説明板

勅使門





上の3枚の写真は勅使門と現地説明板

前庭の枝垂れ桜









上の5枚の写真は毘沙門堂 宸殿の前庭の枝垂れ桜


上の写真は宸殿と前庭の枝垂れ桜のコラボ

晩翠園





上の3枚の写真は晩翠園と現地説明板
池の奥側に観音堂が建っています。

霊殿


上の写真は霊殿

毘沙門堂の拝観後同じ毘沙門堂の塔頭寺院の山科聖天双林院に寄りました。
これから出かける時間となり時間が足りませんので写真のみを添付しておきます。














コメント
この記事をはてなブックマークに追加

建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その1 俵屋宗達の作品「風神雷神図」

2017年04月13日 03時50分05秒 | 京都情報
2014年の12月17日に建仁寺を訪問しています。

今回はその第1回として俵屋宗達の作品「風神雷神図」を紹介します。

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山(注)の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

(注)京都五山:南禅寺(別格)・天龍寺(1位)・相国寺(2位)・建仁寺(3位)・
        東福寺(4位)・万寿寺(5位)
 Wikipediaによれば「京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは
  決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、
  大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している」

公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm 

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm 

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/




上の写真が俵屋宗達の作品「風神雷神図」

ここに置かれているのは、本物ではない。精巧に作られたレプリカである。
Canonの複写技術が生かされています。
国宝に指定されている本物の屏風は、京都国立博物館に寄託されています。




上の2枚の写真は俵屋宗達の作品「風神雷神図」の拡大図


上の写真は俵屋宗達の作品「風神雷神図」の現地説明版です。




上の2枚の写真は三十三間堂(妙法院)の国宝「風神像」と「雷神像」参考のため添付しました。
こちらは堂内撮影禁止なので三十三間堂の佛たちという冊子からのコピーです。

三十三間堂の千体観音立像の前に二十八部衆と両端の「風神像」と「雷神像」を加えた30体の像
が並んでいます。

両者共に鎌倉時代の彫刻で昭和30年(1955)2月2日に国宝に指定されています。
風神像は像高123cm、風神はVayu(ヴァーユ)で風天と訳されます。数頭立ての馬車で天を駆けて
悪神を追い払い、富貴栄達を授ける神とされ天界の神酒・ソーマを好むことからソーマバーとも呼称。
一方の雷神像は像高105cm、Varuna(ヴァルナ)という水神だといわれます。
天候を司る神であることから豊穣を祈る古代人から恩恵と畏怖心がこのような神格を生んだとされる。
6世紀に製作された中国の莫高窟の壁画が風神、雷神の最古のものとされています。



上の写真は「風神雷神図」の隣に金澤翔子(かなざわ しょうこ)の作で「風神雷神」と
墨書された大きな屏風です。彼女は1985年生まれの新進気鋭の書家である。新生児期に敗血症にかかり、
後にダウン症と診断されたが、5歳の頃より書道を始めた。2004年に書家としての号「小蘭」を取得し、
2005年には最初の個展である「翔子 書の世界」を銀座書廊で主催している。
2009年11月、彼女は建仁寺に「風神雷神」の屏風を奉納した。この作品が建仁寺所蔵の国宝「風神雷神図」
の隣に展示されたため、当時は大きな反響を呼んだそうである。


上の写真は上の写真は建仁寺境内図です。

上述の俵屋宗達の作品「風神雷神図」と金沢翔子の書は本坊の玄関にあります。


上の写真は本坊の建物を外から見たものです。
コメント   トラックバック (2)
この記事をはてなブックマークに追加

平等院 江戸時代の絵図を中心として 

2017年04月12日 16時39分30秒 | 京都情報
私の生まれ故郷京都府宇治市にある世界遺産平等院について江戸時代の絵図を
中心に写真紹介していきます。

出典は鈴木 康久 、西野 由紀 編「京都 宇治川探訪―絵図で読みとく文化と景観」(2007)
と神居文彰著&編 志村ふくみ(巻頭エッセイ) 古寺巡礼 京都/13 「平等院」(2007)
へい

私が小学校に通っていた昭和30年代の頃平等院の境内が通学路となっていました。
その頃は拝観料はとられていなかった。
いろんな意味でなつかしい平等院に関する思い出があります。
その頃修復工事も施工されていたと思います。
調べてみると昭和25年(1950)から昭和31年(1956)まで平等院鳳凰堂の
全面解体修理が行われ、昭和32年(1957)3月に3日間にわたり修理完工落慶法要が挙行


上の写真は文久3年(1863)文:暁鐘成、絵:松川半山「宇治川両岸一覧」の平等院
平等院鳳凰堂の前の阿字池は州浜の状態ではないことが判ります。


上の写真は安永9年(1780)に刊行の「都名所図会」で記載の平等院境内図
 文:京都の俳諧師秋里籬島、図版:大坂の絵師竹原春朝斎
平等院(びやうどうゐん) は宇治橋の南にあり。初めは河原左大臣融公の別荘なりしか、
その後陽成院この地に行宮を建てられ、宇治院と号し、また承平御門もこのところにて
遊猟したまふこと『李部王記』に見えたり。
それより六条左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月、御堂関白この院を得て
山荘とし遊覧の地としたまひ、その後、子息宇治関白頼通公、永承七年に寺となして
平等院と号し、法華三昧を修せしむ。
仏殿は鳳凰を象り、左右の高楼・回廊を両翼とし、後背の廊を尾とす。
棟の上に雌雄の鳳凰あり(金銅をもって造る)。風に随ふて舞ふ。かるがゆゑに鳳凰堂といふ。
本尊阿弥陀仏は長六尺の坐像にして定朝の作なり。
堂内の長押に二十五菩薩の像あり。同四壁ならびに三方の唐戸に浄土九品の相を画く。
絵師の長者為成の筆。
上には色紙形ありて観経の文を害す。中納言俊房(としふさ)の筆跡なり。
天蓋・瓔珞等は七宝を鏤め、古代の作物にして美麗荘厳他にならびなし。
鳳凰堂は永承年中、頼通公建立よりかつて回禄の災ひなし。南方の奇観とす。
釣殿観音堂は最勝院と号す。本尊十一面観音は立像にして春日の作なり。
地蔵尊・不動明王を左右にして脇壇に安置す。
このところ宇治院の釣台を建てたまひて、釣りを垂れたのしみたまふところなり。
扇の芝は源三位頼政、治承四年五月二十六日このところにおいて自殺す。
委しくは『平家物語』にあり。駒繋(こまつな)ぎ松 頼政、馬をつなぎしところなり。
鎧懸けの松 頼政、鎧をぬぎすてしところなり。
阿字(あじ)池 鳳凰堂のめぐりにある池なり。恵心僧都の作りたまふ。
鐘楼 この鐘は竜宮より上がりしといふ。園城寺の摸形にして本朝三鐘のその一なり。
阿弥陀水 鐘楼の下壇の池なり。傍らに六字の名号の石塔を建つる。
法華水 浄家方丈の西、竹林の内にあり。
楼門の跡 いまのかり橋の北にあり。焼失の後、形を遺す。
そもそも当院は天台・浄土の二流ありて、台家は三井寺に属し、寺務は円満院御門主なり。
浄家は宇治関白の御菩提所にして、心誉上人より世々浄土宗をもって当院を守る。
方丈に頼政の鎧・兜および画像あり。
『金葉』 うぢの平等院の寺主になりて、うぢに住み付きてひえの山のかたをながめやりてよめる
  宇治川の底のみくづとなりながらなほ雲かかる山ぞ恋しき  忠快法師




上の写真は釣殿観音 扇芝
釣殿は創建当初に貴族達が釣りを楽しんだ殿であるが現存せず
この地に本堂があり御本尊の十一面観音(春日の作)地蔵菩薩と不動明王を左右に安置
扇の芝と書かれた石碑が見えます。
源頼政は平家打倒を提唱し、以仁王の令旨を奉じ治承4年(1180)5月26日に
三井寺の僧兵とともに挙兵したが平知盛に破れ平等院の扇の芝(現存)付近の鎧懸松に鎧を懸け
で自害した。(平家物語に記載あり)


上の写真は江戸時代の平等院の境内図です。

次に創建間もない12世紀に改修された後の平等院伽藍について文献より引用
させていただきます。

上の写真は杉本宏著 日本の遺跡6 宇治遺跡群Page52 図21のコピー
です。


上の写真も同じく上記図書のPage54 図22のコピーです。
鳳凰堂の南側に伝説の経蔵や湯屋があります。










上の5枚の写真は平成24年(2012)9月3日~平成26年(2014)3月31日の平成の
大修理の前の平等院鳳凰堂です。 撮影:2011-12-29


上の写真は拝観券に描かれた平等院鳳凰堂


上の写真が小生の銅版画の作品(2011年2月に印刷)です。
文章が判り難いので記載しておきます。 Phoenix Hall and Pure Land Garden
平等院について少し述べておきます。

平等院の創建は今から約960年前の永承7年(1052)関白
藤原頼通によるものです。
平等院は浄土宗のお寺ですが別名「光の寺」と呼ばれています。
自然光により阿弥陀如来や雲中供養菩薩像52躯などが様々な
表情に変わっていきます。
とにかく落ち着ける場所であります。
平等院の年中行事
1/1 修正会
3/2 関白頼通忌(鳳凰堂)
3月 春季彼岸会(浄土院)
5/26 頼政忌(墓前、扇の芝)
9月 秋季彼岸会(浄土院)
11/25 十夜会(浄土院)
12/31 除夜会(鳳凰堂、鐘楼)


小生の書いたBlogにリンクしておきます。
また2009年の訪問記にもリンクしておきます。
平等院訪問記 その2


平等院にある鐘は日本の3名鐘の一つであります。

平等院の解説 By Wikipedia
Architecture of the Phoenix  Hall
The Amitabha Hall, the central bulding of Byodoin Temple,
came to be called as the Phoenix hall in the early Edo Piriod(1600-1867).
The name of the Phoenix Hall is believed to have been given
because the entire hall looked like a bird spreading its wings
and also because a pair of Phoenixes adorned the ridge of
the Chudo(central hall) ,an integral part of the Phoenix Hall.
Byodoin temple was originally built in the early years of
the Heian period (794-1185), as a rural villa called "Uji-dono"
for court noble Fujiwara no Michinaga. After his death,
Michinaga's son Fujiwara no Norimichi inherited the villa,
and in the seventh year of the Eisho period (1052)
he turned the villa into a Buddhist temple which was then
named "Byodoin." In the following year, the Amida Hall was
constructed to provide a place of eternal rest for Amida,
the Buddha of Infinite Light and Life, and this hall still contains
architectural works and Buddha statues made around
1000 years ago.
The Phoenix Hall is also well known around the country
as it features on both the 10 yen coin and the 10000 yen note.

The Byoudoin Temple was also placed on the World Heritage
List in 1994 by UNESCO.

Introduction of Byodoin By Sacred distinations




上の写真は最近の平等院境内図。






上の写真は源頼政の慰霊墓(宝篋印塔)とその説明板及び源頼政の顕彰碑


上の写真は2017-4-11 関西テレビ よーいドンで紹介の平等院です。
岸和田の6人のオバサンが宇治を訪問する内容の番組でした
コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加

御寺 泉涌寺の塔頭 雲龍院 on 2012-1-29 堂野夢酔筆の双龍風雷図を中心として

2017年03月13日 05時12分16秒 | 京都情報
第46回 京の冬の旅で水墨画家の堂野夢酔筆の襖絵「双龍風雷図」が初公開
され平成24年(2012)1月29日に水墨画が奉納されている泉涌寺の塔頭 
雲龍院の本堂「龍華殿」に出かけて写真を撮りましたので紹介します。

まずは御寺 泉涌寺の塔頭 雲龍院について記載します。

泉涌寺の塔頭 雲龍院の基本情報


住所:東山区泉涌寺山内町36 TEL:075-533-7150
宗派:真言宗泉涌寺派別格本山 山号:瑠璃山
開山:竹厳聖皐上人(泉涌寺第21代長老)
創建:応安5年(1372)に北朝第4代の後光厳天皇(1338-1374)の勅願により創建
御本尊:薬師如来  御住職:市橋朋幸
別称:泉涌寺別院



上の写真は第46回 京の冬の旅 非公開特別公開 泉涌寺 雲龍院の看板


上の写真は雲竜院の表門 Wikipediaでは不明門(正門)と表記されている
この門から歴代の北朝天皇御尊牌が奉安されている霊明殿や龍華殿に直接入れる。


上の写真は山門 奥に庫狸が見える


上の写真は雲龍院の境内より山門方向を見たもので右手に羅刹の難を救うと
言われている衆宝観音の石像があります


上の写真も境内より山門方向を見たもので 鐘楼と接待所が右手にあります


上の写真は境内の庭園


上の写真は庭側よりみた本堂「龍華殿」


上の写真は本堂「龍華殿」の扁額


上の写真は本堂の内部


上の写真は本堂「龍華殿」の説明板




上の写真は書院の「悟りの窓」

蓮華の間について2017年3月7日21:00より放送のBS朝日京都ぶらり歴史探訪
スペシャル 「古都に息づく皇室の思い」で泉涌寺雲龍院の紹介されており綺麗な
映像があったのでそちらから写真を引用紹介します。(下の2枚の写真)





上の写真は霊明殿


上の写真は霊明殿の前庭の燈籠で周囲に16葉の皇室の菊の御紋が描かれています。


話が前後しているかも知れませんがここで泉涌寺の広域境内図を添付します



上の写真は江戸期?の泉涌寺 雲龍院の境内図

前置きがながくなりましたが本題の堂野夢酔筆の襖絵「双龍風雷図」について
写真紹介していきます。








上の4枚の写真は平成22年10月に奉納された水墨画家・堂野夢酔(どうのむすい)筆の
迫力ある襖絵「双龍風雷図(そうりゅうふうらいず)」です。




上の2枚の写真は作者の堂野夢酔氏の思いと略歴が書かれた説明板

堂野夢酔氏の略歴は下記サイトに記載されています。
 http://www.musui.com/m-08-pro-01.html

2017年3月7日21:00より放送のBS朝日京都ぶらり歴史探訪スペシャル
「古都に息づく皇室の思い」の番組より御本尊の薬師如来坐像と日光・月光菩薩
を含めた薬師三尊像と北朝第4代天皇の後光厳天皇(1338-1374)の尊像を
添付しておきます。(下の2枚の写真)



コメント
この記事をはてなブックマークに追加