CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その9 角野邸

2017年02月28日 05時29分22秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第9回として角野邸をお送りします。


これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

  第4回 駒ヶ林蛭子神社

第5回 平忠度の腕塚

  第6回 雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所

  第7回 駒竹稲荷神社

  第8回 駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石

角野邸の持ち主は現在東灘区に在住で長年、空き家になっていたがNPO法人
「芸法」の小國陽佑氏らが中心となって家の掃除・整理を2年がかりで行い。
持ち主の角野氏は代々長田港の網元だったそうです。

芸術家をサポートする活動を行っているそうです。

NPO法人 芸法の基本情報

住所:神戸市長田区駒ヶ林町2-4-1 TEL:070-5665-0932
Facebook:https://www.facebook.com/geiho2008/


写真は上の1枚だけです。
Googleのストリートビューでも確認できます。

写真は長田港側から撮ったもので長田港側は洋風、裏側(北側)は
和風になっています。大正年間に建てられたものだそうです。
建築自体が貴重な文化財であると思います。

内部については下記ブログで紹介しています。
 角野邸 on 2016-6-16

トピックスとして、この角野邸で2017年6月公開予定の「ふたりの旅路
原題はMagic Kimono=邦訳「魔法の着物」のロケが行われたことです。

この映画はラトビア出身のマリス・マルティソンス監督がメガフォンをとり
桃井かおりと尾形イッセイが主演します。
神戸市とラトビアの首都リガ市の姉妹都市提携40周年を記念し、日本とラトビア、
そしてエストニアも出資して製作される3カ国の合作映画で、日本とバルト諸国
との初の共同製作作品だそうです。

ふたりの旅路のさらに詳しい情報は下記サイト
  https://www.facebook.com/magickimono

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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その8 駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石

2017年02月27日 04時25分36秒 | 役立つ情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第8回として駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石
をお送りします。


これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

  第4回 駒ヶ林蛭子神社

第5回 平忠度の腕塚

  第6回 雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所

第7回 駒竹稲荷神社


上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の全体写真です。
一番右手の立派な石碑が徳本上人六字名号石です。
駒ケ林南部自治会が作製された説明書きが掲示されています。
46体のお地蔵様が鎮座されています。
徳本上人六字名号石の他に六体地蔵や平家のお墓の名残りといわれる五輪塔が
あります。


上の写真は駒一地蔵尊と徳本上人六字名号石の上屋を含めた遠景です。

所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町1丁目2
駒ヶ林公園の北側で少し奥まったところにあるためわかりづらい
駒ヶ林町1丁目2-2の鈴木産業(株)の東側にあります。
または駒ヶ林町1丁目2-1の安田技研(株)神戸工場の西側
鈴木産業は釣具のメーカーで現在は株式会社フィネスに改称されています。
安田技研(株)は配電盤、車両向けなど各種の板金製作、機械加工部品、金型設計製作
上述の鈴木産業のGoo地図を添付しておきます。



上の写真は徳本上人六字妙号石です。
徳本上人独特の蔦文字と呼ばれる字体で南無阿弥陀仏と書かれています。
写真では前掛けで隠れています。
また台座には三界萬霊の文字が刻まれています。
土台の裏の銘文には文政6年(1823)に建立されたことと世話人3名の名前も
刻印されています。
文政6年(1823)、駒ヶ林村に来た徳本上人はその当時鵯越に出没して旅人を
悩ませていた悪者を仏教の力によって六字名号石を建てその下に封じ込めたと
言われています。

徳本上人は浄土宗の僧で諸国を行脚して解かりやすく仏教を伝えた。彼独特の
蔦文号(つたみょうごう)と呼ばれる独特な字体の六字名号碑が彼が行脚した
各地に建てられています。

上記の駒ヶ林の六字名号石には2つの不思議な話が伝わっています。
明治の末頃、六字名号石の裏手(北側)に大きな空き家があって近所の子供たち
の遊び場になっていた。ある日子供たちが遊んでいるとバリバリと突然大きな
音がして家が傾きはじめた。もともと名号石の方に傾いていた古い家だったので
みんなは大急ぎで外に避難した。しかしどういうわけか家は名号石の方には倒れず
北側の井戸の上に崩れ落ち名号石は無事であったという。
また同じ頃のことだが人々があまりにこの石を信心するので、ある男が名号石の
前にわざと杭を打とうとした。周りの者はばちがあたるとその人を止めたのだが
本人はそんなことは一向に耳を貸さず午前中に杭を打ち昼食をとりに家に帰った。
その男は午後になってもなかなか杭の所まで戻ってこなかった。みんなが心配
しているとあれほど元気だった男が家に帰って急に苦しみだし、その日のうちに
死んでしまった。このようにこの名号石は霊験あらたかで、この名号石のお陰で
駒ヶ林ではいまだかって大きな海難事故がなかったという。

以上の出典:ながたの民話 田辺眞人編著 長田区役所より発行(1983)



徳本上人についてWikipediaより引用させていただきます。
徳本(とくほん、宝暦8年(1758年)? - 文政元年10月6日(1818年11月4日)?)は
、江戸時代後期の浄土宗の僧。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。
紀伊国日高郡志賀村久志の出身。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。

27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、
念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、
修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、
江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。
一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する
者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は
関東・北陸・近畿まで及んだ。
「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。
徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。
墓所は一行院。


神戸市内に上人山 徳本寺が白鶴美術館の近くにあり寛政9年(1797)8月に
住吉村の呉田吉田氏の要請で住吉草庵に住んだことがあるようです。
また駒ケ林にも徳本上人は何回か説教に来ているようです。

「鬼ころすこころは丸く田の中に南無阿弥陀仏のうかぶ月かな」という
句も残されています。


上の写真は地蔵尊群のアップ写真です。

この地区では区画整理事業も進められている路地を生かした災害に強い街づくり
がキャッチフレーズのようである。
下の写真は路地の整備が終了した駒一ながさ小路です。
撮影日:2011-12-10





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花絵で祝おう 神戸開港150年 in 若松公園 鉄人広場 on 2017-2-26

2017年02月26日 17時38分44秒 | 神戸情報
鉄人28号の前に神戸開港150年のシンボルマークを鮮やかに表現した花絵が
鉄人広場に出現しました。

2017年2月26日に写真を撮ってきましたので紹介します。


上の写真は鉄人28号と神戸開港150年のシンボルマーク花絵の遠景


上の写真は鉄人28号と神戸開港150年のシンボルマーク花絵の中景


上の写真は神戸開港150年のシンボルマークと説明書き


上の写真はイベントのポスター






上の写真は4,000鉢以上の花で表現した神戸開港150年のシンボルマーク


上の写真は同時開催の写真集のブース





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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その7 駒竹稲荷神社

2017年02月26日 04時31分36秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第7回として西出高松前池線との交差点近くに
鎮座する駒竹稲荷神社をお送りします。


これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

  第4回 駒ヶ林蛭子神社

第5回 平忠度の腕塚

  第6回 雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所


駒竹稲荷神社の基本情報

住所:神戸市長田区駒ヶ林町1丁目9-16  TEL:078-611-4035(駒林神社)
御祭神:倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳だが19世紀初頭の文化・文政時代(1804~1829)と言われています





上の2枚の写真は市道高松線側から撮った駒竹稲荷神社の遠景
駒竹神社はかって徳本上人六字妙号石がある駒一地蔵尊8六地蔵さん)の横に
ありましたが都市計画により現在の場所に昭和39年(1964)10月に移設されました。
空襲の時には石でできたキツネの像がケーンケーンと鳴いて危険を知らせたと
言われています。
半世紀ほど前までは毎年冬の時期には氏子たちが列をなし、太鼓などの鳴り物を
鳴らしながら高取山の本宮まで参拝する「野施行(のせぎょう)」と呼ばれる行事が
行われていたそうです。上記の移転とともに消滅したようです。

毎年2月の初午祭の時には油揚げと赤飯のおにぎりが供えられるなど、
わずかながら野施行の風習の名残りは残されているようです


上の写真は拝殿


上の写真は拝殿前に吊るされた駒竹大明神と書かれた提灯


上の写真は境内から市道高松線に向かって撮ったもの
境内は狭いがよく管理されています。


上の写真は境内の手水施設






上の3枚の写真は境内の奉納者の名前が入った玉垣

神社の御利益は商売繁盛や芸の向上なのか玉垣の名前に芸妓さんらしき
ものが多いのでは?





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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その6 雑魚寝堂跡の 旧神戸市立駒ヶ林保育所

2017年02月25日 04時43分04秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第6回として雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所
をお送りします。


これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

  第4回 駒ヶ林蛭子神社

第5回 平忠度の腕塚







上の2枚の写真が雑魚寝堂跡に建てられた神戸市立駒ヶ林保育所です。
道路側が建物の裏手になります。
神戸新聞の記事によると市立駒ケ林保育所は大正期築の建物で、2013年に
新長田保育所と統合し閉鎖される。
施設は売却か解体されそうだが、地元住民らは、昔の風習にちなみ「婚活の場」
としての活用を提案する。2011年11月7日夕刊(大月美佳)


もう少し詳しく書くと旧神戸市立駒ヶ林保育所は大正13年(1924)旧駒ケ林公会堂
で神戸市の技師であった、清水栄二氏(1895~1964)による設計です。
清水栄二氏は旧神戸生糸検査所(同市中央区)、御影公会堂(昭和8年)などを
手掛けた建築家で神戸市で営繕課長として大正15年(1926)まで勤務後、独立
されています。

 清水栄二しについては下記ブログで紹介しています。
  旧西尻池公会堂(ワシオ外科)

所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町5丁目8-6

Goo地図はこちら
 

主題の雑魚寝堂について過去に書いた記事よりそのまま引用紹介します。

江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
      何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)


大正12年(1923)までは 市立駒ケ林保育所の建物のあった場所に海泉寺阿弥陀堂が
あり別名雑魚寝堂と呼ばれていた。
また阿弥陀堂が建てられた時期は棟札から文化3年(1815)である。
雑魚寝の風習とはおおぜいの男女が一堂に集まって, 雑魚(ざこ)のように
入りまじって寝る 風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや) や節分などの
季節の変り目の行事におけるおこもり の際に行われた。
最も有名なのが京都大原の雑魚寝で、江文 (えぶみ)神社の拝殿でかつては
節分の夜に行われた。
我が生まれ故郷の京都府宇治においても県(あがた)神社の県祭で
6月5日(かつては5月5日) から6日の未明にかけて行われるが,
梵天に神移しの儀が執り行われた 後はいっさいの灯火が禁じられる。
沿道の家々では男女が雑魚寝して お渡りを待ち、性的な行いも伴うので
種もらい祭ともいわれた。

海泉寺は正応2年(1289)の創建、上記のように市立駒ケ林保育所の建物の
あった場所にあったが、 明治6年(1873)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に
移って海泉寺とした。
阿弥陀堂=雑魚寝堂は火災後、駒野小学校として利用され公民館などを経た後
大正13年(1924)海泉寺本堂として移築されることとなり、新しく公会堂が建設
されることとなった。


雑魚寝堂(ざこね堂)について、神戸の歴史研究の大御所 故落合重信先生の著
「埋もれた神戸の歴史」昭和52年(1977)刊 Page177-181より引用させていただきます。

『摂陽落穂集』には「雑魚寝堂の事」として、矢田部郡駒ケ林村にあるざこ寝堂を
紹介して、「この村中の縁遠い女、嫁に来てのない男が年越しの夜、この堂に行って
龍もる。これを雑魚寝という。その夜、契った者は夫婦となる。」とある

駒ケ林に毎年年越しの夜、雑魚寝堂に籠る事あり。往古は此一村にいまだ嫁せざる
女娶らざる男年越しの夜此堂に籠る。
これを雑喉寝といふ。其夜契りたるもの夫婦となり、結ぶの神のひきあはせ給う
といひ伝へて旧例とせしが、年若き男老いたる女に契り、老年の男若きを妻とし
大ひに年の不都合なる事多くあるゆへ、中古これを止む、然共今も毎年年越し
の夜は女ばかり籠る也。此堂に籠れる女は難産の愁ひなしとぞ


8月24日の駒ケ林の地蔵盆で子供達が宿をする習慣もある。
地蔵さんの近くの家に集まって年長のものが頭となって大きな籠を持って
近くの家を廻って野菜、果物をもらってきてそれを子供達だけで煮付けやにぎり飯を
作ったりして夜を明かすのである。
もとは田畑の中にあったため狐や狼に化かされないように起きているのだという
伝説のようだが、大人の神事や慣習が子供の世界の遊びに残ったという見解を
落合重信氏は述べられています。


上の写真は同じく上記の故落合重信先生の著によるもので、原典は
武文彦氏の「桃源自叙画伝」の雑魚寝堂の絵で水の子塚についても言及されています。




上の写真は旧神戸市立駒ヶ林保育所に隣接して建つ地蔵堂



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東アジア地域包括的経済連携(RCEP)交渉 in 神戸

2017年02月24日 16時43分12秒 | 時の言葉
2月27日から3月3日まで、神戸市ポートアイランドの神戸コンベンションセンター
において、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)交渉の第17回交渉会合が開催
されます。

アジア16ヵ国の首席交渉官により全15分野のうち、これまで「経済技術協力」
と「中小企業」で合意しており、今回は「物品貿易」「サービス貿易」「投資」
など残り13分野を交渉することになっています。

世耕経済産業相は経済連携交渉の進展に期待するとのメッセージを発信されています。
詳細は下記NHKテレビ報道  首席交渉官が非公式会合
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170224/k10010888981000.html

神戸市のHPによれば「実現すれば、人口約34億人(世界の約半分)、GDP約20兆ドル
(世界全体の約3割)、貿易総額約10兆ドル(世界全体の約3割)を占める広域経済圏
が出現します。日本の主要輸出先である東アジア諸国を多く含む経済協定である
ことから、日本経済には大きなプラス効果が期待される」とのこと



本ブログでは東アジア地域包括的経済連携(RCEP)とは というテーマで
記事を書いていきます。

1.東アジア地域包括的経済連携(RCEP)とはWikipediaより

 東南アジア諸国連合加盟10ヶ国(インドネシア、カンボジア、シンガポール、
 タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス)に
 日本、中国、韓国、インド、オーストラリア、ニュージーランドの6ヶ国を
 を含めた計16ヶ国で自由貿易協定(FTA)を進める構想。


 英文名:Regional Comprehensive Economic Partnershipの略

2.過去のRCEP会合
  2013年5月9日〜5月13日の日程でブルネイにおいてRCEP交渉の第1回会合が
  開催以降16回の会合が重ねられています。

  2013年 3回  第1回~第3回
  2014年 3回  第4回~第6回
  2015年 4回  第7回~第10回
  2016年 6回  第11回~第16回

 会議の内容詳細は外務省のHPに記載提供されています。(下記サイト)
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/fta/j-eacepia/

 Wikipediaでも内容を簡略化してまとめられています
  https://en.wikipedia.org/wiki/Regional_Comprehensive_Economic_Partnership



3.TPP VS RCEP

  CNNの下記サイトで議論されています。
    http://edition.cnn.com/2017/01/24/asia/tpp-rcep-nafta-explained/index.html
 

内容はまだはっきりと解らないが実情です。
引き続き勉強します。

4.将来構想

 日本は、将来的な構想として、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)と
 TPP(環太平洋経済連携協定)を合わせた「FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)」
 の実現を目指しているそうです。





  
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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その5 平忠度の腕塚

2017年02月24日 04時25分04秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第5回として平忠度の腕塚をお送りします。
腕塚堂や平忠度塚という呼び方をする場合もあります。

これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

  第4回 駒ヶ林蛭子神社

平忠度の腕塚の基本情報

住所:神戸市長田区駒ヶ林町4丁目5-8
所有者:駒ヶ林4丁目南部自治会


所在地のGoo地図はこちら
 
アクセス
・JR神戸線「新長田駅」下車、南西へ徒歩15分
・神戸市営地下鉄「駒ヶ林駅」下車、南西へ徒歩5分





上の2枚の写真は腕塚の中の代表的な施設の十三重塔と塔の底部の石碑
塔の底部には平朝臣薩摩守忠度卿 御廊所と書かれた石碑があります。
平忠度腕塚は平成11年(1999)2月24日神戸市市認定地域文化財(史跡)に認定

腕塚堂は下記に記載のように散っていった平忠度の死を悼み、彼の切り取られた
右腕をを埋めて供養したものである。

平忠度(たいらのただのり)は平清盛の末弟で、腕力の優れた武将として有名、
また藤原俊成に師事し歌道にも秀でた才能を持つ人物である。寿永3年(1184)
一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。
合戦に敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、
忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされて
しまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。
その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、初めて平忠度であることが
わかったと伝えられています。


上の写真は現地の説明石碑


上の写真は左手にある堂内。
平忠度の御廟所としてこの堂内に位牌も祀られています。
ここも腕塚神社と同じように平忠度の切り落とされた腕を埋めたところと伝えられ
腕、腰、足の痛みがなおると人々に信仰されています。


上の写真は百度石


上の写真は「腕塚堂 従三位 朝臣 薩摩守忠度卿 御廊所」と書かれた石碑


平忠度を悼んで詠まれた歌が掲示されています。(上の写真)


上の写真も歌碑 


上の写真は位牌の収められている堂の対面のお地蔵さん群
駒ヶ林の周辺は源平合戦の犠牲者を祀った地蔵や色々な願いを込めたお地蔵さまが
とにかくたくさんあります。




平忠度腕塚堂は初めての方には判りにくいと思います。
上の写真は海泉寺や駒林神社が面している4車線の道路(兵庫県道489号)に
面したところにある看板と道標の拡大写真です。

路地を入っていくと「うでつか」と書かれた石碑があります(下の2枚の写真)






上の写真のような路地を進むと平忠度腕塚堂があります。


上の写真が平忠度腕塚堂の入口。


上の写真は手水設備


上の写真は平忠度腕塚堂の外観

腕塚堂から東に約300メートル離れた野田町8丁目には、平成14年度に地域文化財に
認定された、平忠度胴塚(首塚)があります。

今回は訪問していないので過去の訪問記にリンクしておきます。
 平忠度の胴塚(首塚)on 2009-4-6

平忠度公終焉の場所に関しては、ここ長田の地であるという説以外にも明石であると
いう説があり、山陽電車「人丸前駅」付近に腕塚神社が、そしてその南に忠度塚など
があります。

こちらについても過去の訪問記にリンクしておきます。
 両馬川旧跡と腕塚神社 on 2008-7-20

 忠度塚 on 2008-6-12
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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その4 駒ヶ林蛭子神社

2017年02月23日 04時00分02秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第4回として駒ヶ林蛭子神社をお送りします。

これまでの記事

  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

  第3回 海泉寺

駒ヶ林蛭子神社の基本情報

住所:神戸市長田区駒ケ林町4丁目4-1  
御祭神:蛭子命(えびすのみこと)、大己貴命(おおなむじのみこと)
    八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)
創建:不詳 1690(元禄3)年の記録には「恵比須社」という記事あり
   江戸時代初期には存在していた


Goo地図はこちら








上の3枚の写真は拝殿&本殿を中心とした遠景、中景、近景


上の写真は昭和43年(1968)5月10日に駒ヶ林浦漁業会によって社殿が改築
されたことを記念して作成された石碑

石碑には下記内容が書かれています
「駒ヶ林蛭子神社は蛭子神を祀り駒ヶ林浦の海の幸を守護しています。
施工は京都の奥山組 明治維新100年を記念して建立」



上の写真は拝殿&本殿に隣接する境内社「末廣稲荷神社」


上の写真は境内の魚供養碑
ウミガメの供養碑も境内にあるようです。




上の2枚の写真は道路から鳥居を中心に撮ったもの
平成7年(1995)の阪神淡路大震災の被害を受けた鳥居は翌年の4月に
再建されました。

埋め立て前は鳥居のところまで砂浜であったようです。




上の2枚の写真は平成12年(2000)5月に建立された駒ヶ林浦漁業会集会所の
竣工を記念して建てられた石碑と駒ヶ林浦漁業会集会所の建物外観


上の写真は手水舎


上の写真は奉納者の名簿


上の写真は駒ヶ林蛭子神社の斜め対面にある駒ヶ林魚市場


上の写真は長田港の当日(2017-2-19)の風景

同じく当日の長田港の様子を動画で紹介します。
かもめなどの海鳥がたくさんいました。







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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その3 海泉寺

2017年02月22日 07時07分28秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第3回として海泉寺をお送りします。

過去の記事
  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

  第2回 駒林神社

海泉寺の基本情報

住所:神戸市長田区駒ケ林町3丁目10-1   TEL:078-611-1241
宗派:臨済宗南禅寺派 山号:龍雲山
御本尊:阿弥陀三尊(快慶様式、鎌倉時代の作)、十一面観世音菩薩(札所本尊)
             福原西国観音霊場第三番霊場
御詠歌:「海原のなみに浮みて御仏の ちかひの網にもれぬうろくづ」
創建開基:正応2年(1289) 漸岸覚俊和尚(宝満寺の第二世)
勧請開山:正応2年(1289)法燈圓明国師(宝満寺の開山僧)
別称:子安観音駒ヶ林の大御堂(魚御堂)


文永三年(1266)東尻池の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、
松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。
松月庵は禅昌寺末。
慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた
残ったのは海泉寺と宝珠庵であった。宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株の
サツキが庭一面に枝を張り、 花時には賑わう名所となつていた。
駒ヶ林には古くより薬師堂、阿弥陀堂、観音堂があり大御堂と呼ばれていたのは
観音堂である。(福原西国巡拝記 昭和2年(1927)福原潜次郎著より)

また阿弥陀堂では雑魚寝という古い風習の行事が行われていました。
雑魚寝堂=ざこ寝堂について江戸後期の「摂陽落穂集」は、

駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
      何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)


雑魚寝堂(ざこね堂)がどの堂にあたるのかは諸説があり判然としない。
駒ヶ林の大御堂=ざこね堂  駒ヶ林の大御堂=阿弥陀堂 または観音堂
ざこね堂=阿弥陀堂  ざこね堂=観音堂などの説がある

海泉寺の雑魚寝堂については下記のブログで書いています。
  雑魚寝堂跡の神戸市立駒ヶ林保育所と海泉寺

寺伝では、正応元年(1288年)宝満寺の漸岸覚俊禅師が駒ヶ林で暴風雨にあい、
大樹に身を寄せ一心に観音経を念誦すると大樹の頂に龍灯が輝き、その導きで
無事宝満寺に帰ることができた。その奇端に感じ、正応2年(1289年)この地
駒ヶ林に創建されたのが海泉寺である。
同じく自伝では正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方(神戸市立駒ヶ林保育所付近)
にあったが、明治七年(1874)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。
大正十三年(1924)十七世住職真龍和尚の時に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の
木材を本堂に利用した。また庫裡(くり)、鐘楼東門を建立し再興した。
この時発見された阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
当時の代官、庄屋、棟梁等名前も書かれており1815年は幕府領であった
ことが解る。古来、阿弥陀堂では7月13日に「オシャムシャ踊り」という念仏踊り
を行っていたという。当時使われていた太鼓と鉦が海泉寺に保存されています。
昭和39年(1964)十八世諦道和尚は山門新築、湯川秀樹博士銘による全人類の
幸福を祈る梵鐘を新たに鋳造。平成元年(1989)には十九世眞澄和尚とともに
本堂修復、玄関、庫裡、高麗門を新築し龍雲山海泉寺は面目を一新した。

以上は福原西國霊場会事務局 『福原西國霊場寳印帳』 福原西國霊場会、1989年を
参照した。NCID BA64500550

前置きが長くなりましたが写真紹介に入ります。




上の2枚の写真は21年ぶりに再建された海泉寺本堂。2016年1月17日には
お披露目も兼ねて阪神淡路大震災の犠牲者を追悼する法要がこの本堂で行われました。



上の写真は本堂の扁額「龍雲山」と書かれています。




上の2枚の写真は海泉寺旧本堂の鬼瓦兼阪神淡路大震災と東日本大震災犠牲者慰霊碑
とその説明板


上の写真は2011-11-28撮影の海泉寺旧本堂と旧本堂の鬼瓦です


上の写真は観音堂(左手前)と庫裡(右手)
観音堂には札所本尊十一面観世音菩薩が安置されています。


上の写真は不動明王像 親山講の奉納?

不動明王像の右手に小さな祠がありますが今回写真を撮りませんでしたので
2008年8月11日に撮ったものを添付しておきます。

上の写真の小祠に阪神淡路大震災犠牲者の慰霊碑とノーベル物理学賞で
有名な湯川秀樹博士(1907-1981)の位牌が収められていましたが
現在は他に移されたようでありません。
湯川博士の未亡人のエミ夫人の依頼によりここに法名無礙光院殿照誉慈済秀樹大居士
と記された立派な位牌が収められていました。

尼崎藩主 青山幸利公の報謝碑も不動明王像の右手にありましたが現況を
確認するのを失念しました。




全人類の平和を祈って」と書かれた湯川秀樹博士の碑文があります。(上の2枚の写真)
裏面には第19世住職 染川眞澄和尚 と代理の染川月船和尚が
平成16年(2004)5月吉日に建立されたようです。


上の写真は高麗門の内側脇に建てられた石碑
「源平古戦場」と書かれており矢田達郎前市長の書によるもののようです。
裏面は未チェック(建立年月日不明)


上の写真は湯川秀樹博士命名の鐘「全人類の幸せを祈る鐘」であるが、震災で
倒壊し、まだ復旧されていない状態であった。




上の2枚の写真は高麗門 とにかく立派である。


上の写真は龍雲山海泉寺の遠景


上の写真は寺に隣接して設置された鎮守社(稲荷神社)と新たに平成27年(2015)
11月に新たに建立された「みあらい地蔵尊」と「義経堂」






上の3枚の写真は2015年11月建立の「みあらい地蔵尊」関係


上の写真は義経堂 中には義経像が安置されています。







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神戸市長田区駒ヶ林町の散策記 on 2017-2-19 その2 駒林神社

2017年02月21日 04時18分55秒 | 神戸情報
本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第2回として駒林神社(こまがばやしじんじゃ)
をお送りします。

過去の記事
  第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑

駒林神社の基本情報
住所:神戸市長田区駒ケ林町3丁目7-3  TEL:078-611-4035
御祭神:応神天皇(誉田別命)、猿田彦大神、奇稲田姫命
別称:駒ヶ林八幡宮 愛称:「駒ヶ林の厄神さん」「駒ヶ林の八幡さん」
創建:不詳だが 駒ヶ林の左義長が988(永延2)年1月15日に始められた
   といわれるているので1,000年以上の歴史がある

公式ホームページ:http://komagabayashi.jp/

公式FB:https://www.facebook.com/komagabayashi/

Goo地図はこちら


毎年1月18日 - 20日の三日間に行われる厄除け大祭には多くの参拝者が訪れます

駒ケ林神社(駒林神社)は海泉寺の対面にあります。
駒ケ林神社(駒林神社)前面の浜は、昭和32年(1957)から埋め立てが進められ、
長田港の完成(昭和36年(1961))により自然の海岸線は失われ、昔の姿は
資料でしかみられません。毎年1月15日に行なわれていた「駒ケ林のけんか祭」
と呼ぶ「左義長」は永延2年(988)から続けられていたが、昭和34年(1959)
1月15日を最後に、神社が主催で行われることは中止になってしまった。
猿田彦大神と奇稲田姫命をあわせて左義長の神と呼ばれている。
駒ケ林神社は板宿の證誠神社(板宿、大手、東須磨、野田、駒ケ林の5ケ村の氏神)
の子社(分社)であったそうである。
また、創建については證誠神社より古く、外国人の出入国を管理する役所である
玄蕃寮の出先機関が置かれていた敷地内に祠を建てて応神天皇を祀ったのが
駒林神社の始まりともいわれています。





上の写真は正面から見た拝殿を中心とした駒林神社の境内


上の写真は側面から観た拝殿


上の写真は側面から観た本殿


上の写真は手水舎


上の写真は社務所に掲げられていた今年(2017)の絵馬




上の2枚の写真は境内社の天光玉勝稲荷神社と説明板
 祭神:倉稲魂大神(うがにみたまのおおかみ)
 祭日:3月初午の日
 衣食住の守護神にましまして私たちの文明を支える一切の産業をお守り
 下さる神様です










上の5枚の写真は天光玉勝稲荷神社の祠の周囲の玉垣で無声映画時代の日活の大スター
で駒ケ林で育った俳優の澤田清(1906-1975)をはじめ超有名な大河内伝次郎、
片岡千恵蔵、山田五十鈴、入江たか子などの名前が刻まれています。

大河内伝次郎は戦前・戦中、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門
       長谷川一夫と共に「時代劇六大スター」と呼ばれた。

澤田清(1906-1975)氏について述べておきます。本名石川 晴正
澤田清は東京生まれ神戸市長田区駒ケ林で育った舞台俳優、映画俳優です。
1915年市川九蔵(団蔵)の門下に弟子入り市川芳之助の名前で初舞台。
1926年からは映画にもデビュー、当時は無声映画の時代。
1928年に日活に入社後、「お小姓組」でデビュー。その後多数の映画に出演。
1952年鶴田浩二、岸恵子主演の弥太郎笠では小頭牛五郎役。
1953年嵐寛壽郎主演の逆襲!鞍馬天狗では伊東安積役。
1954年の花と龍では仏の小左衛門役で大河内伝次郎(大河内傳次郎)と
    共演しています。
1955年の市川右太衛門主演の薩摩飛脚の前編では藤倉源左衛門役
1956年 月形龍之介主演の 水戸黄門漫遊記 鳴門の妖鬼では
      玉垣にも名を連ねている清川荘司とも共演しています。
1957年  片岡千恵蔵主演の 任侠清水港では大瀬の半五郎役を演じています。
1958年 片岡千恵蔵主演の新撰組は桂小五郎役。
1959年 新東宝の東海道 弥次喜多珍道中では国定忠治役。


浜口富士子について記す。 kotobankより引用

「1909-1935昭和時代前期の映画女優。
明治42年9月生まれ。新国劇研究生から映画界に転じ,
日活太秦(うずまさ)撮影所にはいる。昭和4年「蒼白き薔薇(ばら)」でデビューし,
美貌で注目された。7年「女七変化」などで共演した俳優神田俊二と結婚,翌年引退。
昭和10年10月9日病死。27歳。東京出身。一ツ橋高女卒。本名は鈴木富士子。」


神戸新聞2016年11月26日(土)の夕刊に
カルチャー<キネマコウベ 日本映画史余話>(14)「水戸黄門 来国次の巻」
(1934年公開)神戸・駒ケ林ゆかりの澤田清 美男スターしのぶ玉垣

と題して記事が掲載されています。駒林神社のFBやブログでも紹介されています。

上記記事で「俳優のほか、美嚢郡中吉川村(現三木市吉川町)出身の池田富保
監督の名前もあると書いてあったので池田富保氏の玉垣の写真も添付して
おきます。(下の写真)





上の写真は境内社の天光玉勝稲荷神社を側面から撮ったものです。




上の2枚の写真は境内社の神明社とその説明板

  祭神:天照大神
  祭日:4月16日、10月16日


上の写真は境内社の三宝荒神社(仏・法・僧の三宝を守る神を祀っています)
  祭神:火産霊大神 大国主大神 住吉大神
  祭日:10月中旬




上の写真は境内社の靖国神社と説明板
  祭神:氏子関係戦没の靖国の神霊
  祭日:毎月20日(10月は大祭)

5月3日には例祭が執り行われます。
子供神輿の他に神前で食材のタコをさばく包丁式も行われます。
2016年5月5日の神戸新聞神戸版で包丁式の紹介記事あり。




上の2枚の写真は平清盛上陸の地の木碑と説明板

平清盛が宮島の厳島神社へ参詣に向かう途中の治承2年(1178)6月9日、
和田岬を経由して駒ヶ林から上陸したことが「山槐記」に記されています

延元元年(1336) 建武の新政を行う後醍醐天皇と対立し、京都をめぐる争いで
南朝側の北畠顕家公や楠木正成公・新田義貞公に敗れ、赤松円心公の進言を受けて
足利尊氏が西国敗走の折、駒林神社に奉詣して下記の歌を詠んだ話が有名です。
「今むかふ方は明石の浦ながらまだ晴れやらぬ我が思ひかな」

以下、Wikipediaよりその後の駒林神社の主な出来事を記載します。 
文政13年(1830年)には井山城守石原清左衛門が社殿を改築し、井戸ノ町若中より
   狛犬一対が奉納される等、社頭整備が進む。

明治26年(1893年)- 拝殿が新築される。
大正13年(1924年)- 荒廃していた社殿等を大きく修築。八王子八幡神社に
          若宮社を始め村内の小祠を合祀し「駒林神社」と改称する。
昭和63年(1988年)- 社殿が焼亡する。
平成元年(1989年)- 社殿を再建する。
平成7年(1995年)- 阪神・淡路大震災に被災。同年に社殿を復旧する。
平成25年(2013年)- 阪神・淡路大震災にて倒壊した大鳥居が第六十二回
伊勢神宮式年遷宮と出雲大社遷座祭が共に行われたこの年に氏子により復興される。
「いかなごのくぎ煮発祥の地」の石碑がいかなごのくぎ煮振興協会より奉納される。
竣工潜初祭は第六十二回神宮式年遷宮の内宮遷御の儀の斎行日10月2日に斎行。









上の4枚の写真は左義長に関する写真です。

駒ヶ林の左義長は永延2年(988)年1月15日に始められ、1,000年もの長い
歴史を持つお祭りで、漁場を巡って毎年1月15日に左義長を行って地引網の
網入れ優先権を争ったそうです。

駒ヶ林の東西に分かれ、10mにも及ぶ高さの「お山」を100人ほどの漁師
たちが担いで浜辺で倒し合いを行うこのお祭りは、その年の漁獲が懸かっている
だけに壮絶を極め、流血の事態が起こることもしばしばであったために
「駒ヶ林のけんか祭り」とも言われていたそうです。

埋め立ての影響で天然の砂浜がなくなり昭和34年(1959)を最後にこのお祭り
は途絶えてしまいました。その後、平成5年(1993)に行われたアーバン・
リゾートフェアの中で久々に復活されたりしていますが、本格的な祭りの
復活までには至っていません。


上の写真は道路を挟んだ海泉寺側から観た駒林神社の遠景です。





 

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