CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

JR明石駅南口の植栽 on 2017-10-18

2017年10月20日 05時44分02秒 | 神戸市以外の兵庫県
2017年10月18日、山陽電車のシニアパスを購入するためにJR明石駅に居ました。

その時、JR明石駅南側に、いかにも明石らしい植栽がありましたので写真紹介します。






上の3枚の写真は明石ダコをテーマにした植栽です。


上の写真ハートマークの植栽


関連ブログ:
  時を刻むまち 明石

  明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10

  明石城の象徴 巽櫓と坤櫓

   船上城跡

   明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30

   牡蠣 タコ 居酒屋「明石」でのランチ on 2016-12-21

   玉子焼(明石焼き)専門店 松竹 パピオスあかし店でのランチ on 2017-1-6

   明石の寿司 浦正明石本店の浦正弁当 on 2016-12-1
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ホテル「ホップイン」アミング テラスレストラン 「ウェストリバー」でのランチ on 2015-12-16

2017年08月11日 15時44分54秒 | 神戸市以外の兵庫県
ホテル「ホップイン」アミング テラスレストラン 「ウェストリバー」でのランチ on 2015-12-16


2015年12月16日、ホテル「ホップイン」アミングのウエストリバーカフェで
ランチを頂きましたので写真紹介します。

ホテル「ホップイン」アミング テラスレストラン ウエストリバーカフェ の基本情報

住所:尼崎市潮江1丁目4番1号 ホテル「ホップイン」アミング
TEL:06-6491-0002(代表) 06-6491-0731(直通)
料理ジャンル:イタリアン
営業時間:【Breakfast】6:30~10:00、【Lunch】11:00~15:00、【Tea】14:00~17:00
     【Dinner】17:00~22:00
定休日:なし(無休)


公式サイト:http://www.hopinn.com/rest/index.html

私はウエストリバーランチの肉、奥様はウエストリバーランチ(魚)を注文 1,000円(税込)


まずスープとサラダが出てきます。


上の写真はウエストリバーランチの肉


上の写真はウエストリバーランチ(魚)


上の写真はランチセットケーキ 380円(税込)


上の写真ランチメニュー




上の2枚の写真はお店の外観


上の写真はお店側からJR尼崎駅を臨む
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高砂市 県指定文化財 「天磐舟」(家形石棺蓋石)訪問記 on 2015-2-15 

2017年06月30日 03時46分45秒 | 神戸市以外の兵庫県
昨日(2017-6-29)の神戸新聞の朝刊にわが町の文化財 79で表題の「天磐舟」
(家形石棺蓋石)の記事を観たことを受けて、本日のブログテーマに取り上げた。

2015年2月15日に訪問した時の写真を中心に記載していきます。

「天磐舟」(家形石棺蓋石)の基本情報

所在地住所(移転前の高砂市教育センター):高砂市曽根町2301番地の1
 現在は高砂市阿弥陀町生石61-1に移転済







上の3枚の写真は県指定文化財の「天磐舟」(家形石棺蓋石)と現地説明板

現地説明板についてそのまま転記します。

県指定文化財 家形石棺蓋石(天磐舟)

指定年月日 昭和47年3月24日
所有者・管理者 高砂市

生石(おうしこ)神社の社記に「この山頂に石あり、土中に入る。その形舟の如し、故に磐舟(いわふね)
と名づける。むかし大己貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)乗り来たり給う」
云々とあるのがこれであるという。もとは伊保山の南面に背部を下向けにし、半ば埋もれていたらしいが
環境が変わり、落下寸前の状態となったため、現在地に移設したもので、5世紀末から6世紀初頭ごろの
家形石棺の蓋石である。
播磨地方に多く遺存する石棺中でも、大きさにおいても屈指の遺品である。

平成4年11月  兵庫県教育委員会


伊保山は「石の宝殿」で名高い生石(おうしこ)神社のそば(北側)に立つ山で竜山石を
切り出している山でもあります。
また天磐舟が伊保山から教育センターに移設されたのは1963年のこと。さらに神戸新聞には
当時を知る人は「急な斜面で、どうして落ちないのか不思議であった」と語る。砕石時の爆破の
衝撃などで落下する危険があるため移設(下ろされた)
と記述されています。

前出の神戸新聞には「生石(おうしこ)神社に祭る巨石「石の宝殿」に宿る神様が、天から地上に
降りてくる際に乗ってきた舟だと伝わり天磐船(あめのいわぶね)とも呼ばれる」





上の2枚の写真は家形石棺蓋石の近くに展示の棺身と現地説明板

家形石棺についてWikipediaの解説を引用紹介します。

家形石棺(いえがたせっかん)とは、古墳時代にみられる石棺の一種。蓋石が屋根形で、
身は刳抜式または組合式の箱状の石棺である。蓋石の四方の傾斜部に断面長方形の縄掛突起がある。
古墳時代中期後半~終末期まで長期間用いられた。末期には身に格狭間を施したり、縄掛突起に
蓮華文を彫ったものもみられる。身の前面や側面に入り口を設けた横口式石棺もある。
畿内のものは竜山石(兵庫県高砂市産)、二上山白石(二上山麓産)、
阿蘇ピンク石(熊本県宇土半島産)などが用いられる。


近畿地方の家形石棺
鴨稲荷山古墳 - 滋賀県高島市
藤ノ木古墳 - 奈良県生駒郡斑鳩町
見瀬丸山古墳 - 奈良県橿原市
植山古墳 - 奈良県橿原市
小谷古墳 - 奈良県橿原市
菖蒲池古墳 - 奈良県橿原市、家に似せた精巧な彫刻
牧野古墳 - 奈良県北葛城郡広陵町
櫟山古墳 - 奈良県北葛城郡當麻町
茅原狐塚古墳 - 奈良県桜井市
赤坂天王山古墳 - 奈良県桜井市
ホケノ山古墳 - 奈良県桜井市、6世紀末の再利用時のもの
都塚古墳 - 奈良県高市郡明日香村
條ウル神古墳 - 奈良県御所市、石室・石棺ともに国内最大クラス
水泥南古墳 - 奈良県御所市、縄掛突起に蓮華文の彫刻
ハミ塚古墳 - 奈良県天理市
小口山古墳 - 大阪府羽曳野市
唐櫃山古墳 - 大阪府藤井寺市
長持山古墳 - 大阪府藤井寺市
一須賀古墳群 - 大阪府南河内郡河南町
玉手山古墳群東ワカ山古墳 - 大阪府柏原市
耳原古墳 - 大阪府茨木市
大谷古墳 - 和歌山県和歌山市
白鳥塚古墳 - 兵庫県宝塚市



上の写真は都塚古墳の家形石棺
出典:BSプレミアムで2015年4月10日放送された新日本風土記「飛鳥」より
2014年8月16日の現地説明会に行ったがなぜか石棺の写真を撮らなかった。


コトバンクによる家形石棺の解説
ふたが屋根形をしている。身のほうは刳抜式になっていたり,四側と底を組合せたものもある。
また,ふたには縄掛突起という突出部が前後と側面につけられている。
古墳時代後期に発達したが,飛鳥時代と思われるものもある。


注)突起のない家形石棺蓋石も多い

播磨地方には竜山石の家形石棺の蓋石を利用して石仏を彫り込んだ石棺仏が多く存在します。
その一例を写真(撮影:2015-2-22)紹介します。

上の写真は加西市の山伏峠上り口にある石棺仏で浮彫 阿弥陀如来坐像 建武4年(1337)の銘
石棺の形式は家形石棺(6c~7c)でその蓋を利用して制作
高さ:2.07m 幅:1.34m 厚さ:60cm 

兵庫県有形文化財(昭和47年3月24日指定)




上の2枚の写真は家形石棺蓋石を利用した加西市玉野石仏
玉野石仏の表面と裏面 浮彫 阿弥陀如来坐像 鎌倉時代の作 
裏面に字が刻印されているが読めなかった。


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近松門左衛門が眠る広済寺とその周辺散策記 on 2015-12-16

2017年04月28日 05時13分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年12月16日(水)、近松門左衛門が眠る広済寺とその周辺を散策しています。
長い間ブログを作成してこなかったので記憶が薄れている部分もありますが主に写真で紹介
していきます。
ブログを書くきっかけになったのは大国正美氏の近著「神戸・阪神 名所の旅」(2016年12月)
の中に摂津名所図会の川辺郡「久々知妙見堂」として紹介されており広済寺の近松門左衛門の墓
の写真も掲載されていた。Page121-123

広済寺の基本情報

住所:尼崎市久々知一丁目3-27 TEL:06-6491-0815
山号:久々知山 宗派:日蓮宗(以前は禅宗であった)
創建と中興:天徳元年(957)に多田満仲が勧請 正徳4年(1714)に日昌上人が再興し日蓮宗に改宗
御本尊:一塔両尊四師
 
公式サイト:http://www.kosaiji.org/index.htm

Goo地図はこちら



いきなりですが上の写真が広済寺の近松門左衛門の墓です。

以下Wikipediaより引用
近松 門左衛門(1653-1725)は承応2年(1653)越前国の武士杉森信義の次男として生まれました。
母は医者の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里 。
寛文4年(1664)、近松門左衛門11歳の頃父の杉森信義は吉江藩(現在の鯖江)を辞し浪人と
なって越前を去り、京都に移り住んだ。宝永3年(1706)の春、近松53歳の時
永年住み慣れた京都から大阪に移り住み、大阪の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび
逗留していました。 船頭や行商人、旅人たちから全国各地の話を聞き集め、それを題材として
作品を執筆していたと伝えられています。その船問屋は尼崎市の久々知にある広済寺を1714年に
再興した住職・日昌上人の実家と言われています。日昌上人と近松は親しく交際していたことから、
広済寺の再興には建立本願人となって大きく貢献します。
1716年9月に近松の母親が亡くなったときも、広済寺で法要が行われています。
青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしておりその後京都で評判の浄瑠璃語り宇治嘉太夫
(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになった(いつ頃かは不明)
天和3年(1683)近松30歳の時、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた「世継曾我」は近松の作と
言われておりこの頃には確実に浄瑠璃を書くようになっていたと思われる。
貞享2年(1685)に竹本座で出された近松(32歳)作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる
貞享3年(1686)、竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。
元禄6年(1693)以降、近松(40歳以降)は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤
この生活が約10年続いが、再び浄瑠璃の作者に戻ったとのこと。
元禄16年(1703)近松50歳で代表作の『曽根崎心中』が竹本座で上演、竹本座の座付作者となっている。
正徳5年(1715)の『国性爺合戦』(近松62歳の作)は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。
晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。
享保9年(1724)近松71歳、『関八州繋馬』を絶筆として享保9年11月22日〈1725年1月6日)死去

墓所は大阪市中央区谷町。もとは同地の法妙寺境内にあったが、法妙寺は大東市寺川に移転し、
近松の墓だけが旧地に留まった。ただし移転した法妙寺にも近松の墓が建てられており
ほかには広済寺にも墓がある。戒名は阿耨穆矣一具足居士。忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、
または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている(明治以降は新暦で行われる)。


近松門左衛門の主な作品の開設サイトへリンク
 http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc13/sakuhin/index.html


上の写真は近松公園の近松門左衛門の銅像


上の写真は園田公民館小国分館の中の近松門左衛門の像


上の写真は広済寺の山門


上の写真は広済寺の説明板(山門にあり)


上の写真は広済寺の手水舎


上の写真は広済寺の本堂


上の写真は広済寺の妙見堂(開山堂)


上の写真は広済寺の境内社の妙福稲荷(妙福大明神の扁額がかかっています)




上の2枚の写真は広済寺内に掲示の妙見宮の扁額と妙見宮の説明板
妙見宮をまつるお寺であったが廃仏毀釈の影響で広済寺の境内が削られてしまったこと
現在の須佐男神社の場所が久々知 妙見宮のばしょであることなどが記載されています。






上の3枚の写真は須佐男神社


上の写真は須佐男神社の現地説明板

下の文章は摂津名所図会に記載の久々知妙見堂の説明文
久々知妙見堂(くくちみようけんどう)久々知村広済寺にあり。日蓮宗。正徳年中再興せり。
本尊妙見尊 長七寸。天徳元年多田満仲公の勧請なり。当村の生土神にて、例祭九月十日。
寺説に云ふ、むかし当村に寺井氏といふもの開扉せしに、たちまち悩乱して狂死す。
その後、この社頭の神籬の竹木を猥りに伐り収るものあり。これも眩乱して樹上より逆に落つる。
また、産婦の穢は六十日を忌むなり。これを犯す時は崇ありとぞ。
広済寺はもと禅刹なり。その後、日蓮宗の沙門日昌、この妙見尊の示現を蒙り、ここに来たり、
正徳四年二月十五日、この寺を授かり、同年九日、官に訴へ、法華道場とす。
この時初めて開扉するに、中央は妙見尊、左は諏訪明神、右は牛頭天王なり。
妙見尊の神像は、衣冠束帯なり。祭神、実は国常立尊なりとぞ。
日蓮上人像 広済寺本堂に安ず。大覚僧正の作。本朝三体のその一なり。
足利尊氏公の四男関東の官領左馬頭基氏の嫡子、左兵衛督氏満、尊敬の記文あり。
中頃、備前国にありて、日昌上人ここに安ず。ほば霊験多し。
矢文石 社前にあり。源満仲公の矢文石といふ。由緒不詳。





上の2枚の写真は近松門左衛門の記念館と記念館前の説明板
当日良く調べていかなかったこともあり休館日に訪問してしまっています。




上の2枚の写真は近松門左衛門ゆかりの地の地図




上の2枚の写真はJR尼崎駅にある近松門左衛門の作品「冥土の飛脚」の主人公「横川」のモニュメントと説明板
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時を刻むまち 明石

2017年04月11日 04時22分39秒 | 神戸市以外の兵庫県
明石市が作成しと地図の中に1)時を刻む街として明石が紹介されており、さらに
説明書きには2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街、 3)柿本人麻呂
4)魚の棚商店街5)明石城
の名前が出てきます。

これらのキーワードに関連した写真を添付して明石を紹介していきます。







上の3枚の写真は上述の地図の中にあった明石の紹介
明石市の市章、市の木:キンモクセイ、市の花:キクも紹介されています。
現在の市章となる町章が制定されたのは明治44年(1911)3月30日

まず、明石市を全般を紹介するものを添付します。


上の写真は明石市のマンホールの図案です 撮影:2017-3-24


上の写真も明石市のマンホールで9月10日が下水道の日であること、2011年に
下水道が出来て100周年であることことをPRされています。
大久保小学校3年生の作品 撮影:2017-4-5


上の写真は私の銅版画の作品で明石の概要を紹介しています。2014年6月に製作


上の写真はJR明石駅北側にある看板の一部を撮ったものです
撮影:2017-4-5

ここで明石市の基本情報として人口などを添付します。
  平成29(2017)年4月1日現在
 推計人口:294,312人 

 推計世帯数:123,812世帯

 面積:49.22 km²


上の写真は明石市の市民生活指標 出典:明石市公式サイトより

最後に各アイテム毎に関連の写真を添付して終了します。

1)時を刻む街

明治17年(1884)にワシントンで開催された国際子午線会議でイギリスの
グリニッジ天文台を通る子午線がグリニッジ標準時(世界時)と定められました。
日本では明治21年(1888)1月1日より東経135度子午線の時刻を「日本標準時」
として使用されるようになった。

経度が5度違うと約20分のズレがあるのですがそれを日本全国一律に標準時で
管理運用されています。


上の写真は2013年6月10日に明石市立天文科学館を訪問した時のものです。

関連ブログ:
  時の記念日 in 明石市立天文科学館 on 2013-6-10

  明石市内の子午線のモニュメントや標識

  月照寺

  電波時計

2)明石海峡大橋、淡路島を臨む街


上の写真は明石海峡大橋と淡路島が写ったものです 神戸市垂水区より撮ったものですが・・・
 撮影:2007-11-7

3)柿本人麻呂

上の写真は柿本人麻呂の画と歌が書かれた絵葉書です。
 歌は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に  島隠れゆく舟をしぞ思ふ」と詠まれています。
 古今和歌集の「題しらず、詠み人しらずの歌」ですが
 「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」という脚注あり

万葉集にも柿本人麻呂が明石について詠んだ歌があります。
 天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見
(あまざかる ひなのながぢゆ こひくれば あかしのとより やまとしまみゆ)
【現代語訳】
 遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつやって
 来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきた。


上の写真は柿本人麻呂に所縁の柿本神社(戦前の絵葉書)

関連ブログ:明石公園と柿本神社のロウバイ on 2014-1-21

4)魚の棚商店街


上の写真は魚の棚(うおんたな)商店街 撮影:2017-4-5

5)明石城

上の写真は2016年12月1日に新装開店したパピオス明石の7階から撮った明石城
撮影:2017-4-5

明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」


関連ブログ:
  明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10

  明石城の象徴 巽櫓と坤櫓

   船上城跡

   明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30
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日本料理 風雅でのランチ on 2017-3-24

2017年03月25日 04時59分38秒 | 神戸市以外の兵庫県
明石市茶園場町1-3 浅田ビルの2階で営業されていた海鮮創作和食 風雅
2017年3月x日に1階に移転、新たにベテランの料理人を追加招き新たに
日本料理 風雅として営業を開始されました。

2017年3月24日、日本料理 風雅でランチをいただきましたので
写真紹介します。1階に移動されてからは初訪問です。

日本料理 風雅の基本情報
住所: 明石市茶園場町1-3 浅田ビル1F  TEL/FAX:078-914-0506
料理ジャンル:海鮮創作和食、和食
営業時間:ランチ11:30~14:30 ディナー17:30~21:30
定休日:水曜日、第3日曜日
店主:鎌田久道


所在地の地図は下記サイトで載せています
 海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2015-5-1


当日は選べる定食 三品 1,350円を注文。下記より3種選択

  ①造里3種盛り
  ②出巻玉子
  ③野菜と魚の炊合せ
  ④かま塩焼き
  ⑤海老と野菜の天麩羅 
  ⑥海鮮カルパッチョ
  ⑦茶碗蒸し
  ⑧切身魚味噌漬(京都山利味噌使用)
  ⑨南蛮漬け
  ⑩穴子の天婦羅
  ⑪淡路産玉葱とトマトのサラダ
  ⑫国産牛ステーキ(+150円)


上の写真は私が注文したもの。
  ①造里3種盛り ③野菜と魚の炊合せ ⑦茶碗蒸し
    赤字はニューメニュー


上の写真はニュメニューの③野菜と魚の炊合せ


上の写真は奥様が注文したものです
  ①造里3種盛り ②出巻玉子 ⑩穴子の天婦羅 
    赤字はニューメニュー


上の写真はニュウメニューの⑩穴子の天婦羅


上の写真は食後のデザートです




上の2枚の写真はランチのメニュー表です


上の写真はメニューの一部の料理の写真です


上の写真はお店の基本情報が書かれたプレート




上の2枚の写真はお店の外観

「海鮮創作和食 風雅」 時代の訪問記

海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2016-11-8

海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2016-9-1

海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2016-3-1

海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2015-9-17 & 2015-10-24

海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2015-5-1

 







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兵庫県立考古博物館のメインホール展示 on 2017-3-12

2017年03月24日 06時49分06秒 | 神戸市以外の兵庫県
2017年3月12日、兵庫県立考古博物館のメインホール展示を
写真紹介します。






上の3枚の写真は展示物と現地の説明板です。

神戸市北区道場町の平田遺跡から出土の宋代の白磁四耳壺
平安時代末期から鎌倉時代前半に宋から多く輸入された。
多くは蔵骨器に転用されているそうです。



上の写真は当日撮った梅と兵庫県立考古博物館の物見櫓


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赤穂城内の山鹿素行像と赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」 on 2016-12-14

2017年03月15日 05時08分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2016年12月14日、赤穂義士祭があり赤穂に来ていました。
その際に赤穂城内の山鹿素行像と赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」を
見てきましたので写真紹介します。

1.山鹿素行像 in 赤穂城






上の3枚の写真は赤穂城二の丸門跡に鎮座する山鹿素行像の近景、中景、遠景です。

ここで山鹿素行についてWikipediaより引用紹介します。

「山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) -
貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。
山鹿流兵法及び古学派の祖である。

貞享2年(1622)9月26日会津若松市にて浪人・山鹿貞以の子として生まれる。
寛永5年(1628)に6歳で江戸に出る。
寛永7年(1630年)9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学ぶ
寛永13年(1636)15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、
      それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。

寛文5年(1665)43歳で官学の朱子学を批判し、「聖教要録」を著したことから
     播磨国赤穂藩へお預けの身(1,000石で優遇)となり、そこで赤穂藩士の
     教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した
     赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる

延宝3年(1675)許されて江戸にもどる。その後の10年間は軍学を教えた。
       その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている。

貞享2年(1685)63歳で没 山鹿素行の墓は東京都新宿区の宗参寺にある」



上の写真は山鹿素行を紹介した現地の説明板




上の2枚の写真は像の裏の銘板に書かれた内容を示したもの


上の写真は赤穂城内の地図で山鹿素行像の位置も示されています。


上の写真は赤穂駅前に建った素行銅像の案内板
銅像への行き方のほか、素行先生の説明や「赤穂山鹿素行研究会」 の名前も
載っています。


2.赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」

中の写真撮影が禁止されていたので赤穂市立歴史博物館入口外観を添付





上の2枚の写真は特別展の案内リーフレット

展示会では下記の内容であった。
 1.山鹿素行の著書・蔵書

 2.赤穂藩との関わり

 3.山鹿流兵学とその受容

 4.近代へ



上の写真は江戸時代初期の軍学者山鹿素行著の三木攻撃図「武家事紀」京都大学本で
平井山の本陣跡や付城の武将名と一部戦闘経緯が描かれている。

おまけに赤穂義士祭の動画も添付しておきます。

 

 

 






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三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2017-1-22

2017年01月23日 06時31分59秒 | 神戸市以外の兵庫県
2017年1月22日(日)、三木市立みき歴史資料館のワークショップ
「染形紙で染める」講師:三木の染形紙の保存と活用を考える会
が13:30よりありそれに参加するために三木に出かけていました。

その際、ビストロ・ド・ノブでランチをいただきましたので写真紹介します。

ビストロ・ド・ノブの基本情報
住所:三木市本町2丁目3−1  TEL:0794-82-4988
料理ジャンル:洋食
フランス語表記は Bistro de nov
営業時間:11:30~14:00 17:00~20:30
定休日:火曜日


2013年12月7日の訪問記に地図を入れています。


当日いただいたのはお薦めのランチ オムライス(1,080円)です


まずスープ


次にオムライス 食後にデミタスのコーヒーをいただきました。


上の写真はお薦めのランチメニューの看板


上の写真はノブが入っている建物外観 1階にお店があります。

過去の訪問記
 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2013-5-22

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2013-4-21


上の写真は立石の道標と呼ばれて道標でノブの入口付近にあります。
道標には 右 ひめぢ道 左あかし道と書かれています。
また、宝暦11年(1761)三木町西国同行中建設/大破傾キタルヲ以テ昭和七年十一月
再建とも書かれています。






上の3枚の写真は上述の「みき歴史資料館 ワークショップ  染形紙で染める」
で製作した作品です。

上記「みき歴史資料館 ワークショップ  染形紙で染める」は参加希望者が
多かったため1月29日(日)にも行われます。

 詳細はKiss Pressのサイトに書かれています。
  http://kisspress.jp/events/11138/

三木染形紙は着物地などの文様を染める際に使用されるもので、手彫りで
切り抜いた形紙のことで昔から刃物とともに三木地方で盛んな地場産業でしたが
最近は着物の衰退で需要が少なく産業としては衰退しています。






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玉子焼(明石焼き)専門店 松竹 パピオスあかし店でのランチ on 2017-1-6

2017年01月06日 15時38分50秒 | 神戸市以外の兵庫県
本日(2017-1-6)、2016年12月1日に新装開店した「パピオスあかし」の
1階の玉子焼(明石焼き)専門店 松竹でいただいた玉子焼(明石焼)を
写真紹介します。

玉子焼 専門店 松竹(しょうちく)の基本情報

住所:明石市大明石町1-6-1 パピオスあかし 1F TEL:078-912-0091
営業時間:11:00~20:00  定休日:水曜日



上の写真が当日いただいた玉子焼(明石焼) 650円(税込)です。
創業以来、中のトロッとした食感で美味しくいただきました。
昨年12月21日に行った時は定休日で、今回初めて入ることができました。
行列のできる店としても有名。2016年12月2日の神戸新聞でも名前は
伏せられていましたが凄い行列ができていたとの記事がありました。



上の写真はお店の外観です。


上の写真はメニュー表です

パピオスあかしについて簡単に触れておきます。
2005年に撤退したダイエー跡に建設されていた明石駅前再開発ビルは
「パピオスあかし」と名称が決まり2016年12月1日、オープンした。
来年3月には124m高層マンションの入居が始まる。
1階から3階の飲食店や物販、医療機関など三十数店が12/1に開業し、
来年1月までに約60店舗になる予定。
パピオスと山陽明石駅や魚の棚商店街をつなぐ歩行者用デッキも通行可能と
なり、バス乗り場も再編される。魚の棚へのアクセスが便利になった。
(明石駅から330mあった距離が国道2号を跨ぐので信号待ちもなく210mに短縮)

施設棟は地下2階、地上6階建てで、明石市の施設としては、催しなどに
利用され12月9日に開業した2階の「市民広場」、さらに来年1月27日に
オープンする4階の「市民図書館」や、戸籍や国民健康保険などを扱う6階の
「総合窓口」5階に一時保育ルームなどがある。地下は駐車場となっている。

パピオスという名称は「パレス(殿堂)」と「ピアッツア(広場)」と推進
するという意味を込めた「押す」を組み合わせた造語である。


パピオスあかしの公式HPに詳しい情報が記載されていますのでリンクさせて
いただきました。
 https://papios.jp/
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