CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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神戸海軍操練所

2020年05月22日 03時44分50秒 | 昔こんなものがあった 江戸時代

市民のグラフ こうべ No.132 1983年9月号のPage8に神戸海軍操練所の写真が

掲載されていました。(下の写真)

この写真は湊山小学校に残されていたものです。

海軍操練所の建物は明治になってイギリス領事館としても使われていましたが、

明治8年(1875)に現在の神戸市立湊山小学校の校舎として移築されました。

これに触発されて、神戸海軍操練所に関して過去に書いた記事を纏めてみた。

幕末の1853年ペリーの来航、翌年の1854年に日米和親条約が結ばれ下田と函館の

開港が決まりました。この時、徳川幕府で指揮をとったのは筆頭老中の阿部正弘

である。阿部正弘はこの局面を乗り切るため広く意見を求めた。幕府の旗本で

あった勝海舟は海防意見書を提出し注目され頭角をあらわしていく。

将軍・徳川家茂の時代となり文久3年(1863)第1回の上洛時に同行した勝海舟は

将軍に海軍操練所の建設の話を持ち掛け承認されます。

小野浜に将軍家茂が上陸したのは同年4月23日。

上の写真は五雲亭貞秀 作の「将軍天保山入港」元治元年(1864)神戸市立博物館蔵

将軍家茂を乗せた上洛艦隊は天保山から兵庫に移動しています。

神戸海軍操練所と付属の寄宿舎工事は文久3年(1863)「海軍操練所」建設掛の

辞令を受けた軍艦奉行並の勝海舟の指揮のもと建設が進められ元治元年(1864)

5月、開校とともに幕府から、年経費3,000両と長崎伝習所の所属であった観光丸

と新たに米国製の練習蒸気船「黒龍丸」が配備され原料の石炭は鷹取山から採鉱

さらに長崎造船所施設を神戸に移すという約束が結ばれました。

操練所には公募により幕臣のみならず諸藩の家士や浪士、さらに勝の私塾生らも

含めて総勢200名以上が集まった。航海術習得の厳しい訓練を通じて海外に目を

向けようとの目論見の方が大きかったが一部の塾生が長州藩の起こした「禁門の変」

の関係者がいたことなどから幕府の当局者に嫌われ、勝海舟は免職、操練所は

元治2年(1865)3月12日(9日、18日の説もあり)に廃止された。

操練所からは幕末の英雄坂本龍馬をはじめ、陸奥宗光、伊東祐享(すけゆき)ら

多数の俊才を輩出した。

落合重信著「神戸の歴史 通史編」(1975)のPage133に掲載された
神戸海軍操練所の平面図を添付しておきます。(上の写真)

また、神戸市立中央図書館のアーカイブで神戸海軍操練所平面図が掲載されて

いますのでリンクさせていただきました。

 https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/090.html

こちらの資料には海軍操練所の北方に、勝海舟の屋敷地(私塾)も記されています。

勝海舟が海軍操練所を開設するに当って神戸で勝海舟を支えた人物として
網屋吉兵衛・生島四郎太夫の名前を忘れてはなりません。

文永3年(1863年)、網屋吉兵衛は小野浜において将軍徳川家茂に謁見した。
家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの
是非について問い、吉兵衛は「この地は港に最適でございます」と回答した。
謁見を仲介した勝海舟は船蓼場を神戸海軍操練所に組み込んで活用し、
船蓼場の所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった。
神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月19日、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである
慶応3年(1867年)、兵庫港(現在の神戸港)開港に伴い、船蓼場(ふなたでば)は江戸幕府に
接収され東運上所(税関)の船入場として利用されることになった。
それに伴い10年以内に借金を返還すれば船蓼場を返還するという神戸村との
約束は消滅した。明治2年(1869年)9月5日、吉兵衛は死去した。
晩年は私財を投じて造った船蓼場が接収されたことを嘆き、死の間際も船蓼場の
ことを口にしていたという。」

網屋吉兵衛について以前に書いた記事にリンクしておきます。
  

網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29 

 

上の写真は田井玲子氏著の外国人居留地と神戸 -神戸開港150年
によせて-より引用。居留地12番の南側に旧海軍操練所跡の表示

上の写真は若林良作の開港神戸之図 慶応4年(1868)4月 早稲田大学図書館蔵

海軍操練所跡地の場所を示しました。

 

 

上の2枚の写真は神戸海軍操練所開設150年記念の様子です。

詳細は下記のブログで記載しています。

 神戸海軍操練所開設150年 記念式典 on 2014-8-30

上の2枚の写真は神戸海軍操練所跡の碑

神戸海軍操練所について現地の碑文から引用紹介します。

万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果した
のである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。
当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港で
あることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の
人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の
嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに
至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を
望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路
の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの
救いである。

 

上の写真は諏訪山の海軍営の碑(表面)

碑文は下記のように書かれています。
文久三年歳次癸亥四月二十三日

大君駕火輸船巡覧摂播海浜至干神戸相其地
形命臣義邦使作海軍営之基夫吾邦方今急務
莫急干海軍将以此営為始英旨振起士風実在
干是可謂当時之偉図而千歳鴻基也 願大君 
踞床指画之処恐其久而湮没也 臣義邦謹勅
干石以胎永世云

元治元年歳次甲子冬十月八日
軍艦奉行安房守勝物部義邦(勝海舟)撰

上の写真は海軍営の碑(裏面)

石碑の裏面には松平春嶽の和歌が書かれています。内容は下記。
豊のかみ神戸のみなとに勝大人の
建られし石ふみのあるかなきかに
埋れしをこたび生鴫氏の庭に更に
たてられしと聞きてよめる。
君なくば世に遠長く石ふみの
ときには堅岩にのこらざらめやも  源 慶永

レプリカが旧水上警察署の西側にあります。

詳細は下のブログで記載しています。

 海軍操練所顕彰碑

 

神戸海軍操練所の塾頭を勤めた坂本龍馬についても触れておきます。

坂本龍馬はその後、亀山社中、海援隊をつくり討幕派として大きな役割を果たした

のは周知のとおりです。メリケンパークに神戸海援隊の像がありますので

写真を添付しました。(下の写真)

「海援隊の像」は世界的に有名な彫刻家流政之(ながれ まさゆき)氏の製作作品です。 

製作年は1991年
若者達が夢と野望をもって世界の海に飛び出そうとしているような躍動感のある
作品だと思います。

説明板より引用します。
1863年から65年にかけ 神戸小野浜に勝海舟・坂本龍馬によってつくられた
海軍操練所が存在した。武士、町人、 農民を問わず若者たちが大洋に夢をはせ経済、
科学など多くのことを学んだ。夢をはたせず志なかばで倒れていった若者達を
神戸海援隊と名付け、その短い青春の夢をここに刻む

 

コメント
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