河童の歌声

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あの人に逢いたい

2017-12-13 12:53:40 | 日記
私は小学校3年生まで、品川区の荏原という所に住んでいました。
最寄り駅は目黒区の洗足駅で直線距離で400メートルくらい。
でも住所は品川区の閑静な住宅地でした。

逢いたい人というのは私より年上の女の子です。
彼女の家は私の家から300メートルくらいで、
最寄り駅は洗足駅の隣の、西小山駅まで300メートルくらいの場所に住んでいました。

年上の彼女を何で知っているかと言うと、
私より2歳年上の姉が彼女と同級生だったから・・
だと思うのです。
でも、はっきりとは覚えていないのです。
時々、私達は3人で遊んだのを覚えています。
彼女の身体には大きな特徴がありました。
「せむし」だったのです。



「せむし」という言葉は現在は差別用語として使われません。
一般的には「くる病」と言うみたいです。

私の母が「あの娘の身体は、くる病ね」と言ったので、
初めてそういう病気がある事を知りました。
また母は「山陰といった日射量が少ない地方に時々ある病気」とも言ってました。

彼女の名前は「安藤とも子」と言いました。
「とも子」という名前はよく覚えているのですが、
苗字が「安藤」だったかはチョッと自信がないのです。
とも子ちゃんの家は(炭や)をしていました。
今でいう燃料店ですね。

今から30年くらい前だったか、
懐かしい私の子ども時代の場所を車で訪ねて行ったら、
とも子ちゃんが住んでいた建物はそのまま在りましたが、
そこに彼女がまだ住んでいたかどうかの確認まではしませんでした。
確かもう(炭や)ではなかった様な・・・

彼女は、そういった身体だったので、
身長があまり伸びずに低身長だったと思います。
彼女はとても心の優しい子でしたので、
私も姉も彼女が大好きでした。
どんな遊びをしていたのか?
また何処で(家)で遊んでいたのかの記憶もあまり無いのです。

しかし、そういった目立つ身体をしていると、
心無い子供はあからさまにそれを口にしてからかったりします。
子供というのは、そういった意味での残酷さを持っています。
とも子ちゃんにそういった事をする奴を私達は怒りました。

当時は身体障碍者に対する社会的な認識がまだまだ発達していない時代だったので、
大人でも、それを口に出す人は珍しくありませんでした。

私達、姉弟は彼女を通して、障碍者という事を考える様になり、
様々な人間の残酷さを学んだ様な気がします。
ですから、身体障碍者に対する思いやりも、そこからだったのかも知れません。

そういった人に、心無い行為をしたり、
発言をする人を見ると、心底腹が立ちます。
誰だって好き好んで障碍者になる人など居ないのです。
物心ついたら自分が障碍者である事を自覚した時、
「自分はこの身体で長い一生を生きていくしかないんだ」
「人から馬鹿にされながら生きていくしかないんだ」
「そんな理不尽で不公平な事に、自分だけで耐えて生きるしかないんだ」
そう思った時は、暗然としてやり切れないと思います。

全く神様って残酷な事をするもんですね。
でも、今は健常者でも明日は・・どうなるかは知れません。

小学校4年生に変わる時、
私の家族は引っ越しをしてしまい、
それ以来、彼女と会う事は無くなりました。

今、どうしているのかな~?
もう一度、とも子ちゃんに逢いたい。


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2 コメント

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私もあります。 (いつもの…。)
2017-12-14 07:28:15
河童さん、私にもずうっと会いたい人(男性)がいます。小学校の鼓笛隊で指揮をしていた人で一歳上の色黒の足も速い人でした。
お父さんの仕事の関係で壱岐に転校してそれから顔を見ることが出来ません😅
都会で育った河童さん、暮らし方や会話力、文章力が素晴らしく、久留里でお会い出来良かったです。マイ10大ニュースの5位以内に入らせて戴きます✨😌✨
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ありがとね (河童)
2017-12-15 06:23:08
昨日はお逢いできずに申し訳ない。
また逢える日まで・・・

「あの人に逢いたい」は、テレビ局だと割と簡単に探し出しますね。狭い日本とは言っても昔の顔に出会う事なんて本当に奇跡ですから、中々会えませんね。
でも、もう一度逢いたいという人は・・必ず居ますよね。
返信する

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