まるみのあっちこっち巡り

ー31,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ ドゥブロヴニク①

2018-05-16 01:11:23 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


ドゥブロヴニクの街の中心へは港からバスでおよそ20分程です。
シャトルバスは、往復で大人13.9€、3歳~13歳が9.9€。
利用したツアーは、バス移動にランチ付きの
観光がセットされていました。

ピレ門をくぐってすぐ右側にある
1438年に作られたオノフリオの大噴水、
今でもおいしい水を飲むことができるのだとか。
チャレンジはしていません。







何隻ものクルーズ船が訪れているドゥブロヴニク。
ラフなスタイルのクルーズ客が小さな街に
大挙して押し寄せるといった状況です。

添乗員さんが説明をしてくれているのですが、
各国の人々が入り乱れているようです。
イヤホンガイドをつけているので、
少々離れていても説明は耳に入ります。







日陰を求めて歩きたいところですが、
残念ながら日陰はほとんどなく、
人々が涼を求めて日陰に集まっていたりします。







湿度が低いので、日陰に入れば幾分涼しく感じます。







このような路地の空間も利用して
レストランなどの営業をしています。







メインストリートのプラツァ通りです。
ピレ門から中心部ルジャ広場まで約200m続きます。
両側にはカフェや土産屋などが軒を並べている
大理石の白さが美しい通りです。

おススメのお土産は、KRAS社の
チョコレートという情報ありです。







こちらにも噴水が

街のあちこちで水が飲めるようではありますが、
やはりチャレンジはできませんでした。

クロアチア・ドゥブロヴニク

2017.7.8
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ ドブロブニクの観光へ

2018-05-15 01:16:26 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


ドブロブニクの旧市街は、
1979年にユネスコの世界遺産に登録されました。

1991年からのクロアチア独立戦争の際には、
旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃により旧市街もかなりの
被害を受けたのですが、終戦後に修復が進み、
1994年に改めて世界遺産に登録された過去があります。







アドリア海の港町ドブロブニクの
観光をするため私たちも下船します。







ジブリ映画の「紅の豚」などのモデルになった
街並みとして日本でも有名になりました。







バスに乗車して、城壁都市を目指します。
私たちのツアーは15名、ゆったりと乗車できました。







魅力的な観光地であるドブロブニク、
MSCやコスタ以外にも何隻もの客船が入港しています。
これらの乗船客がほぼ一斉に城壁都市を目指すので、
観光はゆったりとはいかないことでしょう。







快晴、紺碧の海にオレンジの屋根の街並み、
写真で見たものより美しい風景が広がっているはずです。

クロアチア・ドブロブニク

2017.7.7
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ ドゥブロヴニク入港

2018-05-14 00:55:37 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


午前7時頃、ポエジアの右舷側より約8海里先に
クロアチアの海岸線が見えてきました。
午前8時頃に水先案内人のパイロットが乗り込み、
午前9時頃のドゥブロヴニク(グルージュ)に入港です。







20時間オープンビュッフェで朝食です。
プレートは大きいのですが、食べたいものがなく、
公開するには酷過ぎる盛り付けになっています。
失礼しました。







窓越しに日本でもお馴染みの
コスタクルーズの客船が見えています。







最後の寄港地、クロアチアのドゥブロヴニクに入港します。







クロアチアの首都ザクレブの南東およそ710kmに位置する
アドリア海沿岸の小さな街であるドゥブロヴニクですが、
「アドリア海の真珠」とも呼ばれる
クロアチアきっての観光地です。







エクスカーションツアーのバスもズラリと並んで、
乗客が下船するのを待っています。







15~16世紀にはベニスと並ぶ貿易都市として
反映した歴史を持ち、現在でも旧市街には
当時の面影が残っています。







ドゥブロヴニクの街は、アドリア海に突き出た旧市街と
スルジ山の裾野に広がる新市街からなります。

クロアチア・ドゥブロヴニク

2017.7.7
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ ガラディナー

2018-05-13 00:49:00 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


6日目のドレスコードはフォーマル、ガラディナーでした。
ガラは、GALA(祝祭・祭り)を意味し、
ガラディナーに参加する場合は、
盛装での出席がマナーとなります。







ビールで乾杯







スペルトブレッド、オーツフレーク付き
ファーマーブレッド
サワードウのライ麦パン
白ノディーニ
オリーブオイルのフォカッチャ
胡麻入りのグリッシーニ(イタリアンスティック)

こちらのパンの中から好きなものを選びます。







デュエト インペリアーレ

スモークサーモンとイクラ、
ヨーグルトとディルを添えたじゃが芋のパンケーキと







シーザーサラダ

ロメインレタス、クルトンとバルメジャンチーズ







アルジャントゥイーユアスパラガスのクリームスープ








肉のラビオリ入りビーフコンソメ







エビのグリル

チャイブ風味の魚介のビスクにのせて 野菜ピラフ添え







地中海風ナスのロール

トマト、モッツァレラチーズ、バジルと一緒に







リゾット・アイ・ボルチーニ

クリーミーなカルナローリ米のリゾット、ボルチーニ茸、
香り高いハーブのエマルジョン、フォグとともに







ベークトアラスカ

アイスクリームを挟んだスポンジケーキの柔らかなメレンゲ包み







ココナッツタピオカプディング
マンゴーのコンポート添え


自分で選択した料理ではありますが、
特別な感じはまるでしないガラディナーにガッカリ。

クルーズは初めての方が多いグループで、
不満などを口にされることもなく、
会話を楽しみながらディナーは進んで行きました。







ショータイムは、1部のディナーのため午後10時からと
夜型人間のまるみにとっては好都合ですが、
パスされた方も多かったように思います。

カラオケ、ダンスレッスン、ディスコナイトなど
深夜まで続くのですが、ベランダから
満月などを眺めて休みことにしましょう。
明日の入港は午前9時です。

ポエジアは夜通し航海を続け、アドリア海の
ドブロブニクに向かってオトラント運河を通過します。

2017.7.6
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ テンダボートで乗下船

2018-05-12 01:07:06 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


サランダではテンダーボートによる乗下船です。
帰りはボートに空席があればすぐに乗船できますが、
行きは、チケット制を設けています。







テンダーボートは、大変混み合うのでA,B,Ⅽ…の順で、
バー・ディ・ポエティにて指定された時間内に
チケットを受け取り、チケットに記載された時間に
シアターで待つことになります。







チケットのアルファベットは、シアター内のみの
アナウンスとなるのでシアターで待つ以外にありません。
シアターでは映像が流れますが、
言語に頼らずとも笑えるものになっています。

船のエクスカーションツアーの利用者はチケットは不要で、
自由行動をする人のみが必要なものです。







高温で乾燥した夏は、時折り激しい雨が降るアルバニア、
この日は一日中天候に恵まれました。
冬は温暖だそうですが、山岳部には多くの雪が降るとか。







現在の国名となり民主化されたのは1991年、
地理を学んだ学生の頃は、アルバニア社会主義人民共和国。

アルバニアは馴染みの薄い国で、
このクルーズに参加しなければこの国の地を
踏むこともなかったでしょう。







アルバニア・サランダ港の出港は20時、
サランダからのテンダーボートの最終は19時でした。







ラウンジでコーヒーでも飲むことにしましょう。
こちらでの乗客ウォッチングも楽しみでした。

アルバニア・サランダ

2017.7.6
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ 再びサランダへ

2018-05-11 01:24:14 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


ブトリント遺跡観光を終え、無事に
MSCポエジアへと戻ることができそうです。







オンボロバスのイメージがあったのですが、
なかなかの外観をしたバスでした。
冷房の効きが悪かったのと、内装が悪かったので、
頭の中でオンボロバスを描いてしまったようでした。







テンダーボートに乗船する前にマーケットなど
港の周辺を散策してみましょう。







これもスーパーマーケットです。







種類も豊富にあるようですが、
船に持ち込めないので購入することはできません。







まだまだ素朴な感じが魅力的と言えるでしょう。







みやげ物店やカフェもあるようです。
ユーロが利用できます。
お店によってはクレジットカードが利用できますが、
現金のみの取り扱いの場合もあります。







夏の間はこの辺りで働いている人も
冬になるとギリシャに出稼ぎに行くのだそうです。







サランダの出港は20時ですが、
そろそろ戻ることにしましょう。







サランダから船までの最終テンダーボートの
出港時間が19時です。







何といっても澄んだ海と風光明媚な海岸線が
サランダの魅力、船から見るほうが素敵なのです。

アルバニア・サランダ

2017.7.6
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ 世界遺産ブトリント遺跡③ 

2018-05-10 01:33:42 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


沼地に埋もれて植物の生い茂るままの状態となっていた
ブトリントがベニート・ムッソリーニの命により、
1926年、この古代の叙事詩ゆかりの地において
最初の学術的な発掘調査が行われました。







1948年からはアルバニア政府が法的に保護、
1992年にはユネスコの世界遺産に登録されました。







人の住まぬ土地になったこともあって
周辺には豊かな自然環境が保たれており、
2003年にはラムサール条約の登録地になっています。







丘の上はベネチア時代の要塞です。







一部は考古学博物館として使われているベネチア時代の塔。
館内は撮影禁止となっています。







ベネチア時代の塔に上ると
湿地帯の素晴らしい景色が広がりを見せます。
是非とも上ってみましょう。







世界遺産ブトリント遺跡で記念撮影。

Congratulation







それにしても暑いのに大変なことですね。
遺跡の中では緑も多いと思うのですが、やはり暑い
その衣裳見ているだけでも暑くて熱くて・・・。
いつまでもお幸せに!

アルバニア・ブトリント

2017.7.6
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ 世界遺産ブトリント遺跡②

2018-05-09 01:07:13 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


6世紀になるとブトリントにはキリスト教の
洗礼所や聖堂が造られていきますが、
洗礼所は当時最大級のものであったそうです。







この頃にはビザンツ帝国の領土でしたが、
7世紀に第一次ブルガリア帝国が興るとその支配を受け、
9世紀には再びビザンツ帝国に取り戻されています。







そして、帝国は1204年の第4回十字軍の攻撃によって分解。
亡命政権のひとつエピロス専制侯国の一部となり、
その後何世紀もの間、領有者は次々と変わることになります。







ブトリント湖に囲まれるようにある古代都市、
この地形も領有者にとっては魅力であったでしょう。







次第に衰退していたブトリントですが、
1797年、カンポ・フォルミオ条約に基づき
ナポレオンにこの地域が割譲されてフランスの支配下に。
1799年、オスマン帝国の地方総督が征服。







1912年にアルバニアは独立しましたが、
すでにブトリントにはわずかな居住者しかおらず、
遺跡は沼地に埋もれて植物の生い茂るままの
状態となっていたのです。

アルバニア・ブトリント

2017.7.6
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MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ 世界遺産ブトリント遺跡①

2018-05-08 00:57:51 | 2017夏MSCポエジア アドリア海・エーゲ海クルーズ


こちらが世界遺産ブトリント遺跡の入場口です。
観光バスで港から1時間弱で到着しました。







入り口を入って右に見えるのが
15世紀から16世紀に建てられたベネチアンタワー。
こちらでは新しい建造物と言えるようです。







真っ直ぐ進むと医学の神「アスクレピウス」の聖域に出ます。
こちらはずっと時代を遡り、紀元前4世紀のものです。







古代ローマの詩人、ヴェルギリウス作の叙事詩
『アエネイス』に登場するブトリント。
それによれば建設者はトロイアの王プリアモスの息子、
ヘレノスでトロイアの陥落後、この地へ逃れてきたのだとか。







学術的な調査によっても紀元前8世紀には、
人の定住があったことがわかっているそうです。







対岸のケルキラ(コルフ)とともに海上交易によって発展、
紀元前4世紀までには防壁を持った都市としての形成、
劇場や神殿なども造られていったようです。







ギリシャ方面に領域を拡大しつつあったローマは、
紀元前167年にこの地を支配下に置き、
ギリシャ侵攻の基地とし、ローマ皇帝アウグストゥスは、
ここに植民地を建設していったのです。







ローマ式浴場やニンファエウム(ニンフを祀る泉)も
造られましたが、後に徐々に衰退していったようです。

アルバニア

2017.7.6
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GWは日本初寄港の「ノルウェージャン ジュエル」で南の島々を巡ってきました!!

2018-05-07 02:11:29 | 2018GWノルウェージャンジュエル 南の島クルーズ


外国で乗船した船の中では一番好きだった「ノルウェージャンジュエル」
日本初寄港ということもあり、飛びついたクルーズでした。
横浜港(大さん橋)に戻り、隣を見てみれば、
一番大好きな客船「にっぽん丸」







「ノルウェージャンジュエル」から見た「にっぽん丸」は、
あまりにも儚げではありますが、
「にっぽん丸」を見下ろすような角度から写真を撮るのは、
これが最初で最後とカメラと脳裏に焼き付けてきました。







チャータークルーズは、二度と乗らない。
日本の海は、「にっぽん丸」でと決めたことを
守って入れば良かったと思うクルーズになりました。







天候に恵まれて南の島々では充実した時間も過ごせましたが、
チャーターした旅行会社は、二度と利用しません。
利益に貢献してしまったことを後悔しています。

2018.5.6
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世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道

2018-05-06 00:11:38 | 訪問した世界遺産



紀伊半島の大部分は、「紀伊山地」と呼ばれる山岳地帯で、
標高1,000mを超える山々が連なっています。

修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の拠点でえある「熊野三山」、
空海が開祖の真言宗の根本道場である「高野山」の三大霊場があり、
多くの文化遺産が豊かな自然環境と一体となって残っています。

そして、日本固有の宗教形態のありかたをとどめた
世界に類のないものとして
高い評価を受けての世界遺産の登録でした。







高野山は金剛峯寺を中心とした霊場で、
真言密教の教義を講堂や仏像で表現する日本初の本格的伽藍。
山上の一大宗教都市となっているのです。







吉野・大峯、熊野三山、高野山の三大霊場を結ぶ道を参詣道といい、
「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野山石道」に大別されます。

写真は、杉木立の中に伸びる「熊野参詣道」で、
熊野古道とも呼ばれ、京都方面からの中辺路、
熊野三山と高野山を結ぶ小辺路、海沿いを行く大辺路、
伊勢神宮との間を結ぶ伊勢路からなります。







古来より熊野信仰の聖地である熊野三山は、
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」三社の総称です。

10世紀後半に本地垂迹説にもとづき神仏混淆が進むと、
三社は一体のものとして信仰を集めていきました。
本地垂迹説とは、仏教の仏菩薩が日本古来の神の姿となって
現れたという神仏習合の考え方です。

世界文化遺産 2004年登録

日本

訪問日 2008年4月30日他

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世界遺産 ベネチアとその潟<イタリア>

2018-05-05 20:33:12 | 訪問した世界遺産



ベネチア共和国は15世紀にその繁栄の絶頂期を迎え、
「ベニスの商人」は、世界中の富を集めました。

しかし、北西ヨーロッパ諸国が地中海貿易に進出すると
徐々に衰退し、18世紀には1年の半分をカーニバルで過ごす
「歓楽の都」と化し、ナポレオンの侵攻により、
1797年、ベネチア共和国は消滅してしまいます。







潟(ラグーナ)に発達した砂州からなるベネチア。
当初から治水対策が最優先課題でしたが、
地盤沈下の危機にも直面しています。

中心街は120余の島からなり、運河と橋で結ばれ、
自動車は乗り入れできず、移動手段は徒歩と船だけです。







市街の中心に位置するサン・マルコ広場、
サン・マルコ大聖堂、ドゥカーレ宮殿、リアルト橋、
カナル・グランデ(大運河)沿いの邸宅のほか、
潟内に点在するいくつもの島もまた
世界遺産に含まれています。

世界文化遺産 1987年登録

イタリア

訪問日2017.7.1他

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世界遺産 ドゥブロヴニク旧市街<クロアチア>

2018-05-04 00:20:08 | 訪問した世界遺産



クロアチアの最南端に位置するドゥブロヴニク。
「アドリア海の真珠」と称えられる
アドリア海沿岸の都市の中でも
特異な歴史と美しい佇まいをもつ街です。

1400年の歴史をもつ旧市街は、城壁に囲まれており、
連なる屋根瓦のオレンジが紺碧のアドリア海に映えます。







海上交易の重要拠点として発展したドゥブロヴニク。
15~16世紀に最盛期を迎えましたが、
地中海交易の重要性が薄れてくると衰退に向かい、
19世紀初めにはフランス軍に征服され、
共和制に終止符を打つことになりました。







城壁が取り囲む旧市街には、後期ゴシック、ルネサンスの
両様式を取り入れた歴史的建造物が多く残っています。
20世紀末の内戦で破壊された建造物なども
市民の手で中世の街並みが忠実に復元されました。

世界文化遺産 1979年登録

クロアチア

訪問日2017.7.8

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世界遺産 ブトリント<アルバニア>

2018-05-03 00:21:57 | 訪問した世界遺産



アルバニアの南部にあるブトリントは、
紀元前6~前5世紀に開かれたギリシャの
植民都市を起源としています。

ギリシャ方面に領域を拡大しつつあったローマは、
紀元前167年にこの地を支配下に置き、
ギリシャ侵攻の基地とし、
ローマ皇帝アウグストゥスは、
ここに植民地を建設していったのです。

丘の上の中心部にはイオニア式の神殿、
公共浴場や円形劇場が建てられ、やがて水道橋や
室内競技場、噴水、聖堂まで建設されました。

500年に及ぶオスマン帝国支配の間に、
大地震や伝染病の流行などで廃墟と化しましたが、
20世紀に発掘が進み、数々の遺構が蘇りました。







1912年にアルバニアは独立しましたが、
すでにブトリントにはわずかな居住者しかおらず、
遺跡は沼地に埋もれて植物の生い茂るままの
状態となっていたのです。

人の住まぬ土地になったこともあって
周辺には豊かな自然環境が保たれており、
2003年にはラムサール条約の登録地にもなっています。

世界文化遺産 1992年登録

アルバニア

訪問日2017.7.7

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世界遺産 アテネのアクロポリス<ギリシャ>

2018-05-02 00:09:41 | 訪問した世界遺産



ギリシャ語で「高い丘の上の都市」を意味する
アクロポリスは、紀元前15世紀には都市建設とともに
外部の侵略を防ぐ要塞、砦として築かれました。

紀元前8世紀頃から次々と神殿が建てられ、
丘全体がアテネの守護女神アテナの
聖域として人々の信仰を集め、整備されていきました。







アクロポリスの中心部に建つパルテノン神殿は、
ヨーロッパ建築の最高傑作で、
後世の建造物の規範ともなったものです。

直線的な柱のように見えるドリア式の列柱ですが、
柱の中間にはふくらみがあり、
上部が細くなっています。

柱の直径は約2m、高さは約10m、
柱の表面に彫られた20本の溝が建物全体に曲線美を与え、
少し内側に傾いている柱が、屋根の重さを支えるために
役立っていたりと精巧な建築技術に驚愕です。







エレクティオン神殿の優美なイオニア風の
衣装をつけた女神柱ですが、神殿にあるのは複製で、
本物は5体がアクロポリス美術館に、
1体が大英博物館に収蔵されています。

世界文化遺産 1987年登録

ギリシャ

訪問日 2017.7.5

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