まるみのあっちこっち巡り

ー31,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

世界遺産 バチカン市国

2021-09-19 15:48:07 | 訪問した世界遺産



面積0.44㎢、東京ディズニーランドにも満たない
世界最小の独立国であり、
国全体が世界遺産となっています。

無数の美術品を有するカトリックの総本山、
全世界10億人のカトリック信徒の聖地であるので、
「世界最小にして最強の国家」といえるかもしれません。







美の宝庫・バチカン博物館を擁し、
キリスト教2000年の歴史を今に伝えています。

ラファエロの間にある壁画「アテネの学堂」も必見!
ダ・ヴィンチやミケランジェロ、
ラファエロ自身も登場しています。







博物館の内部には20以上の美術館があり、
見学できる部屋数は約1400、
それらをつなぐ通路は7㎞にも及ぶ巨大施設です。

ピオ・クレメンティーノ美術館の「ラオコーン」
システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」
ピナコテカ(絵画館)の「聖ヒエロニムス」などがあります。







主要な建物のもう一つが、サン・ピエトロ大聖堂。
4世紀に聖ペテロの殉教地にコンスタンティヌス帝が建立し、
16世紀に大幅な改修が行われ、現在の姿になりました。
世界最大の豪華にして荘厳な聖堂建築です。







毎日曜、教皇から祝福を受けるため大勢の
カトリック信者が集うサン・ピエトロ広場です。
広場中央に立つオベリスクは、カリグラ帝が
エジプトから運ばせたものです。

世界文化遺産 1984年登録

バチカン

訪問日 2005.1.8

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世界遺産 ローマ歴史地区<イタリア>

2021-09-18 12:00:00 | 訪問した世界遺産



歴史と芸術に彩られた「都市の中の都市」ローマ。
現代までおよそ2500年間、ほとんど途切れることなく
芸術活動が行われ、その成果の多くが街に現存しています。
このような都市は世界でも類例がありません。







紀元前753年の建国から、一代帝国を築き上げた
ローマ帝国の中心地、古代ローマ時代の貴重な遺産が多く、
帝国最大の円形闘技場のコロッセオはその代表格。
映画「グラディエーター」の舞台に立って興奮しました。







ローマに残る古代の遺構として有名なのは、
ローマ帝国の中枢フォロ・ロマーノ、
高度な建築技術でローマ建築の傑作パンテオン、
皇帝の偉業をたたえるコンスタンティヌス帝凱旋門など。







映画「ローマの休日」でおなじみのスペイン階段。
周辺は街一番のショッピングゾーンでもあり、
冬のバーゲンセール中ということもあり混雑していました。







ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂は、
ローマの中心地に位置し、
無名戦士の墓として使われています。







ローマでは、至るところに遺跡や聖堂、モニュメントがあり、
それらに直接触れることで、イタリアの歴史だけなく、
ヨーロッパの歴史までを実感としてたどることができます。

ドイツの作家ゲーテも「ローマは私の大学だ。
ローマを知ることはすべてを知ることである」と、
『イタリア紀行』に書いています。

世界文化遺産 1980年登録

イタリア・ヴァティカン

訪問日 2005.1.7他

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世界遺産 フィレンツェ歴史地区<イタリア>

2021-09-01 15:59:43 | 訪問した世界遺産



「花の都」フィレンツェは14世紀に
ルネッサンス文化が開花した芸術の街です。

中世時代にメディチ家の元で経済的、文化的に活躍、
発展した歴史のある街で、その支配は18世紀まで続き、
その間フィレンツェは都市国家として大いに繁栄しました。







イタリア・ルネッサンスを象徴するドームを頂いた
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。

ドゥオーモは、フィレンツェのシンボル、
ゴシック建築と初期のルネサンス建築を代表する建築物です。







中世以前よりこの場所に架かっているヴェッキオ橋。
一度洪水で流されたあと1345年に再建されました。

橋を挟んで、ピッティ宮殿、ヴェッキオ宮殿、
イタリア美術史に燦然と輝くルネッサンス期の
名画が勢揃いするウッフィッツィ美術館があります。







フィレンツェは、屋根のない博物館とも表されるほど、
稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残っています。

その残されている建物、美術館、教会そして芸術などが、
現在まで、イタリアだけではなくヨーロッパに
影響を与えたことから世界遺産に登録されています。







街全体が中世時代の雰囲気で、徒歩圏内に多くの
観光スポットがあるのが魅力となっています。
上の写真は、市民が集うシニョーリア広場です。

世界文化遺産 1982年登録

イタリア

訪問日 2005.1.6

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世界遺産 ミラノのドメニコ会修道院と「最後の晩餐」<イタリア>

2021-08-31 16:15:04 | 訪問した世界遺産



レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作、
西洋美術史上の傑作、「最後の晩餐」を擁するのが、
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 。

付属する修道院の食堂壁面に描かれており、
1495年から3年間で完成させています。

「このなかに私を裏切る者がいる」と穏やかに
指摘するキリストと、その言葉に動揺する弟子たち、
この劇的な瞬間の緊迫感を遠近法を駆使した構図など、
天才の名画をじっくり鑑賞したいところです。

事前予約が必要で、制限時間もありました。







修道院の聖堂は、15世紀末にゴシック様式でほぼ完成、
19世紀にルドヴィコの命で建築家ブラマンテが改築に着手、
ルネッサンス様式のクーポラと後陣が増築されました。

世界文化遺産 1980年登録

イタリア

訪問日 2005.1.4

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世界遺産 プラハ歴史地区<チェコ>

2021-08-16 14:34:06 | 訪問した世界遺産



ヴルタヴァ(モルダウ)湖畔に広がる古都プラハ。
9世紀、西岸にプラハ城の前身の城塞が築かれ、
司教座やボヘミア王国の宮廷が置かれて
次第に発展していきました。







14世紀に神聖ローマ帝国の首都として
「黄金の都」とうたわれるほどに繁栄したプラハ。
その後、幾たびもの戦争を経験しながらも
美しい街並みは残されていきました。







赤レンガ屋根の古い建物、石畳の入り組んだ路地、
ファンタジーな世界に引き込まれたような
プラハを訪れた人にしかわからない
特別なものがあるように思います。







2002年8月、チェコ、ドイツを中心に
ヨーロッパは記録的洪水にみまわれました。

チェコでは首都プラハで所によって3~4m浸水、5万人が避難、
チェコ全土では約22万人が避難、死者15名、
約30億ユーロ(約3800億円)の被害が発生しました。
およそ200年から1000年に一度の洪水であったといいます。

一部予定を変更しての観光となりました。
だいぶ水も引いたという話しでしたが、
本来の風景とは違ったものになっていたでしょう。







写真のカレル橋は、ゴシック様式のプラハ最古の橋。
全長約520m、幅約10m、両側の欄干に30体の聖人像、
車の乗り入れは禁止されています。

プラハ城は世界最大の古城としてギネスブックに記載、
現在は大統領府がおかれています。

数百年を隔た建築物が隣り合いながら調和し、
独特な景観を紡ぎ出す、“建築博物館”とも称される
プラハは建築の街、見応えのある建物に出会えるでしょう。

世界文化遺産 1992年登録

チェコ

訪問日 2002.9.26

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世界遺産 クラクフ歴史地区<ポーランド>

2021-08-09 08:00:00 | 訪問した世界遺産



クラクフは、11世紀から1611年のワルシャワ遷都まで、
約600年にわたりポーランドの首都として栄え、
当時はウィーン、プラハと並ぶ
中央ヨーロッパ文化の中心地の一つです。







第二次世界大戦では奇跡的に破壊を免れ、
中世の街並みが残るクラクフは、
1000年以上もの歴史と数々の貴重な建造物から、
1978年に世界遺産に登録されました。







芸術・文化・貿易・学問の中心とされていたクラクフは、
現在でも、ポーランドの歴史を語るうえで重要な存在。
上の写真は、1364年にカジミエシュ大王によって
ポーランドで最初に設立されたヤギェウォ大学です。
(ちなみにこの時のガイドさんも卒業生でした)







コペルニクスや、前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も
このヤギェウォ大学で学んでいます。
アーチ状の回廊が美しいコレギウム・マイウスは、
15世紀のゴシック様式を今に伝える貴重な建物です。

世界文化遺産 1978年登録

ポーランド

訪問日 2002.9.24

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世界遺産 アウシュヴィッツとビルケナウナチス ドイツの強制絶滅収容所<ポーランド>

2021-07-24 23:52:40 | 訪問した世界遺産



アウシュヴィッツとビルケナウの両強制収容所は、
人類の狂気と悲劇の象徴として
永久に伝えられるべき負の遺産です。







第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが国家を挙げて推進した
人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、
最大級の犠牲者を出した強制収容所が建設されました。

高さ4mの有刺鉄線が2重に張り巡らされ、
6000ボルトの高圧電流が流されていた収容所には、
収容棟、銃殺場、絞首台、ガス室、
焼却場などがありました。







収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ、
精神障害者、身体障害者、同性愛者など出身国は28に及び、
90%がユダヤ人であったといわれます。

ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた
被収容者は、貨車駅で降ろされ、
「収容理由」などの情報をもとに「労働者」
「人体実験の検体」「価値なし」などに分けられたのです。







労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子ども・老人など
価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分。

「労働者」も劣悪な食料事情や蔓延する伝染病などにより
命を脅かされ、絶望のあまり自ら高圧電流が流れる
鉄条網に触れて自殺する人もいたそうです。







多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された「死の壁」、
90cm×90cmの狭いスペースに人を押し込む「立ち牢」、
一切の水・食料を与えない「飢餓牢」があります。

その場に立つと吐き気に襲われた
気が狂いそうになる施設が残されています。







訪問した当時は、登録名称は「アウシュヴィッツ強制収容所」、
「ポーランド人が作ったかのような印象を与える」として
ポーランド政府は登録名称の変更を要請し、
ユネスコ世界遺産委員会は2007年6月27日に変更しています。







広大な敷地に300余りの施設が建設されています。
1993年の映画『シンドラーのリスト』には、
ユダヤ人を虐殺するシーンが克明に描かれています。

内部での撮影が許可されたものの、犠牲者の敬意から
門の外側にセットを組んで撮影が行われたとか。
そのシーンがまざまざと蘇り、
最後まで涙で目が曇ったままでした。

世界文化遺産 1979年登録

ポーランド

訪問日 2002.9.23

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世界遺産 アンコール<カンボジア>

2021-07-10 00:59:56 | 訪問した世界遺産



長い眠りから目覚めた東南アジア最大級の
石像遺跡群は、アンコール朝600年の栄華の跡。

中央に5つの尖塔が聳え立つ祠堂が
配置されているアンコール・ワットは、
カンボジアの国旗の中央にも描かれています。







長年にわたる放置や内乱により崩壊の危機にありましたが、
国際的な調査、修復活動により、かつての姿を
取り戻しつつあるアンコール遺跡群は、
朝日に、そして夕陽に映えます。







アンコールワット遺跡群は、9〜15世紀までクメール王国の
アンコール王朝が栄えていたころに建てられた遺跡群。
王朝が滅ぼされた後、400年の時を経て
フランス人植物学者によって発見されました。

ゾウに乗って山を登り、ジャングルの中にある
遺跡群を見た時の感動は今も忘れがたいものです。







遺跡群の中心となるのは、アンコールワット。
12世紀前半に建設されたヒンドゥー教寺院、
中央祠堂への参拝は「神へ近づくための登山」とされ、
かなり急な階段を昇ることになりました。







10~13世紀にはインドシナ半島中央部全体を支配、
26人の王を輩出したアンコール王朝は、
正当な血縁関係によらず、実力により王位を奪取する
王位継承がほとんどであったそうです。

そのため王権を神格化し、力を都城造営で示すため、
王は即位後すぐに新しい都城と王宮、
寺院を建設していきました。







約400㎢もの広大な土地を誇るアンコールワット遺跡群は、
かつての石造寺院や都城が大小合わせると
600以上も点在し、未発掘のものを全て合わせると、
およそ1000にも及ぶというものだとか。







アンコールワットは、1113年に国内を統一した
第18代王ヌールヤヴァルマン2世によって造られました。
ヴィシュヌ神を祀るヒンドゥー教寺院であり、
亡き王を神として祀る墳墓寺院でした。







精緻なレリーフは必見です。







アンコールトムは、1181年隣国チャンパを撃退し、
王に即位した第21代王ジャヤヴァルマン7世による造営。

アンコール王朝最大の都城で、
敬虔な仏教徒であったジャヤヴァルマン7世は、
その中心に仏教寺院バイヨンを建立。







バイヨン寺院の50を超える仏面塔の仏頭は、
「バイヨンの微笑み」とたたえられています。

ヒンドゥー教から仏教へ改宗した当時の
名残りも見られます。
(現在のカンボジアは仏教徒が多い)







アンコールワットとアンコールトムを結ぶルートの
東側にある仏教寺院遺跡タプロームは、
映画「トゥームレイダー」や
「トゥーブラザーズ 」のロケにも。

世界文化遺産 1992年登録

カンボジア

訪問日 2007.1.3~1.6

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世界遺産 古都奈良の文化財

2021-07-01 15:34:27 | 訪問した世界遺産



「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」
万葉集にも詠まれた平城京は、710年から74年間、
古代日本の政治、経済、文化の中心として栄えました。

中国の唐の都長安をモデルに、都市計画に基づいて
道路、宮殿、寺院などがつくられ、
律令による諸制度が整備された都だったのです。







平城京は、平安遷都後には田畑となりますが、
地下の遺構は良好な状態で保存されており、
1955年から本格的な発掘調査を開始、
一部復元されています。

現在の奈良市に点在する東大寺、興福寺、春日大社、
春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、
平城京跡の8ヵ所が世界遺産に登録されています。








平城京は、朱雀門を正門に、東西1.3㎞、南北1㎞に
公式の儀式や政務執行を行う大極殿、役人が執務する朝堂院、
天皇の住居である内裏などが配置されていました。







平城遷都に際し、藤原不比等が氏神として崇めた
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の武甕槌大神を
春日山の山頂に迎えたのが起源とされる春日大社。







春日大社の背後にそびえる春日山の原始林は、
約3㎢の天然林があり、多くの植物や鳥類など
手つかずの自然が残る、国の天然記念物です。

世界文化遺産 1998年登録

日本(奈良県奈良市)

訪問日 2007.5.3他

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世界遺産 法隆寺地域の仏教建造物

2021-06-22 00:59:02 | 訪問した世界遺産



奈良市の西方に広がる斑鳩の里は、
1400年の歴史を刻む聖徳太子ゆかりの地、
6世紀中頃に大陸から渡来した
仏教文化が花開いた場所です。







法隆寺は日本の最古の仏教建造物であり、
その後の宗教建築に深い影響をもたらしています。

聖徳太子と推古天皇により607年に創建、
金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と東院伽藍に分けられます。
西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。







東院伽藍の中心をなすのは夢殿。
現存する八角円堂では最古のもので、
堂内には太子の等身像といわれる
救世観音立像が本尊として安置されています。







606年に聖徳太子が法華経を講説されたという
岡本宮を寺に改めたものと伝えられる法起寺。

中門に入って左に金堂、右に三重塔があり、
その位置は法隆寺と逆で法起寺式伽藍配置ともいわれ、
当時は回廊も備えていたとされます。

創建当時の建造物として唯一残る三重塔の高さは24m、
現存する日本最古の三重塔であり、規模も最大です。







法隆寺を中心に法起寺、中宮寺、法輪寺など、
7~8世紀に建造された木造仏教建造物11棟が集中し、
よく保存されていることに高い遺産価値が認められ、
姫路城とともに日本初の世界遺産として登録されました。

建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、
仏教工芸品など多数の文化財を有しています。

世界文化遺産 1993年登録

日本(奈良県生駒郡斑鳩町)

訪問日 2007.5.2他

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世界遺産 シャルトル大聖堂<フランス>

2021-06-14 11:39:11 | 訪問した世界遺産



パリからおよそ南西87kmほど離れた
都市シャルトルに位置し、
フランス屈指のゴシック建築である
シャルトル大聖堂の創建は4世紀といいます。







対照的な二つの尖塔は、片方が1140年以来立ち続ける
105mの質素な角錐のロマネスク様式、
113mの高さのゴシック・フランボワイアン様式、
非対称の塔が印象的な大聖堂の西正面。







何度も火災に遭い、再建と修復が繰り返され、
現在のゴシック様式の建物の完成は1219年です。
外を飛梁の複合棟で囲まれる中、
淡い緑色の屋根を突き抜けて塔が高く聳え立ちます。







シャルトル大聖堂はステンドグラスの宝庫、
総面積は2000㎡を超えます。
バラ窓のステンドグラスは「この世に存在する
最も美しいもの」とたたえられています。

フランス革命期で破壊や略奪に遭わず、
度々の修復もその華麗な美しさを
作り変えてしまうことはなかったのだとか。

世界文化遺産 1978年登録

フランス

訪問日 2008.1.2

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世界遺産 ロワール渓谷<フランス>

2021-05-11 15:08:50 | 訪問した世界遺産



フランス中部を流れ大西洋に注ぐ全長1020kmの
ロワール川の流域に広がるロワール渓谷。
シュリー・シュル・ロワールからシャロンヌまでの
約200kmが世界遺産に登録されています。

流域は豊穣で、16世紀に王侯貴族が建てた
城館が多く残ることから「フランスの庭」とも呼ばれ、
川と城館が織り成す美しい景観が印象に残ります。







ロワール川の支流シェール川沿いには、
アンリ2世が愛妾のために建てたシュノンソー城があり、
城主が代々女性だったことから「6人の女の城」とも。

白亜の建物に青の屋根をかぶりる優美な姿、
城館の前にはいくつかの美しい庭園が広がります。







フランソワ1世の命で建造されたシャンボール城は、
ロワール渓谷に点在する城のうち、
最大の広さを持ち、城には部屋が440あります。

建物と庭園、周辺の自然が一体となった
フランス・ルネサンス建築の代表作品です。







300をこえるロワールの古城のうち初期のものは、
元来中世に城砦として建造され始めたものでしたが、
王侯貴族が私的生活を楽しむためのものになりました。

ロワール渓谷には、魅力に富んだ
多彩な城館が景観を彩っているのです。

世界文化遺産 2000年登録

フランス

2007.12.31

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世界遺産 フォンテーヌブローの宮殿と庭園<フランス>

2021-04-23 14:20:46 | 訪問した世界遺産



パリの南東70kmに位置するフォンテーヌブローに
フランスで最も大きな宮殿でがあり、
フォンテーヌブロー城(城館) とも呼ばれます。

1528年に始まった新宮殿の建設は、
建築家ル・ブルトンが設計、内部の装飾には、
イタリアから画家や彫刻家が招聘されています。

晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチも招かれています。







古くからフランス王家の狩猟場であった
フォンテーヌブローの森に16世紀前半、
ルネサンス文化をフランスに導入することに熱心であった
フランソワ1世は、狩猟用の館を取り壊し、
新しくルネサンス様式の宮殿を建てることにしたのです。







建物は中庭を囲むように広がっています。
宮殿は増改築が繰り返されましたが、
正面の階段は17世紀のルイ13世の時代に造られました。

ブルボン王家の客人はフォンテーヌブロー宮殿に
滞在することが多かったそうです。

フランス革命のため、調度品が売り払われるなど宮殿は
荒廃しましたが、皇帝にまで登りつめたナポレオン1世も
ここを愛し、よく逗留したのだとか。

「玉座の間」や「退位の間」などのナポレオンゆかりの
いくつかの部屋も見所となっています。

世界文化遺産 1981年登録 

フランス

訪問日 2007.12.29

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世界遺産 ヴェルサイユの宮殿と庭園<フランス>

2021-04-22 14:37:26 | 訪問した世界遺産



外国特使と接見、式典や舞踏会の会場として使われた
「鏡の間」は、全長73mの長大な部屋で、
庭園を見渡せる大きなアーチ形の窓が並び、
反対側の壁には窓と同じ大きさの鏡が並んでいます。

第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約である
ヴェルサイユ条約が調印された場所でもありました。







宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、
宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されています。
左右対称で直線的な構図を基本に、運河や池、泉水、
植え込みを巧みに配したフランス式庭園です。







フランスの王権を誇示する壮大なベルサイユ宮殿は、
「朕は国家なり」と豪語した太陽王ルイ14世が
1682年に20年の歳月を要して建造した宮殿です。

パリの南西22キロメートルに位置する
イヴリーヌ県ヴェルサイユにある宮殿は、
その後も増改築は続けられ、宮殿の内外部の
工事が全て完了したのは19世紀に入ってからです。







ル・ヴォー、マンサール、ル・ブラン、
アンドレ・ル・ノートルといった当代一流の建築家、
装飾家、造園家が建設にあたったバロック建築の代表作で、
豪華な建物と広大な美しい庭園で有名です。







ルイ14世は庭園をことのほか愛し、
自ら庭園鑑賞の案内書まで執筆したそうです。
1,070 haもの広大な敷地があるので、二度訪問するも
ほんの一部分しか見学できていません。

世界文化遺産 1979年登録 

フランス

訪問日 2008.1.2他

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世界遺産 モン・サン・ミシェルとその湾<フランス>

2021-04-21 15:14:07 | 訪問した世界遺産



フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ
周囲約900mの花崗岩の小島にそびえ建つ大修道院。

708年、司教オベールの夢に大天使ミカエルのお告げで、
当時陸続きであった岩山にお告げに従い礼拝堂を建てると
一夜にして岩山は海に沈み孤島になったとか。







以来、島は聖地となり、巡礼者が訪れるようになりました。
966年にはノルマンディー公リシャール1世が
ベネディクト会の修道院を島に建て、
これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形に。

島の周辺は潮の干満の差が激しく、
干潮時には対岸と陸続きになりますが、
満潮時には海水に覆われ、島は海中に孤立します。







1877年に堤防道路が築かれると潮流が変化し、
100年の間に2mもの砂が堆積してしまい、
急速な陸地化が島の周囲で進行して、
海中に孤立する姿が見られることが少なくなりました。

かつての姿を取り戻すべく訪問後の2009年には、
この地続きの道路が取り壊され、
2014年に新たな橋が完成したのです。
(もう見ることができないので貴重な写真ともいえます)







14世紀の百年戦争では城塞として使われ、
フランス革命後は監獄ともなりました。
堅牢な城壁が島を囲み、中世の面影が残り、
崇高で神聖な雰囲気が漂います。







主要部はゴシック様式ですが、内部は様々な
中世の建築方式が混ざり合って構成されています。

カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、
1979年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録、
1994年10月にはラムサール条約登録地となっています。

世界文化遺産 1979年登録 

フランス

訪問日 2007.12.29

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