ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

ニューヨークの駆け込み寺

2011-05-09 10:41:03 | 本の話・素敵な話

ニューヨークの駆け込み寺 

ねずきちのひとりごとさん
日本の心を伝える会さん メールより


今回は、ニューヨークにある通称「駆け込み寺」の話です。
故上坂冬子女史の「南の島のマリア」1994年7月発刊(文芸春秋) などからの引用です。

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ここ「駆け込み寺」で活躍した大正13年加州生まれの日系2世ミドリ・島内(しまのうち)・レダラーさんは、老人福祉に取り組む非営利公共団体JASSI(Japanese American Social Service Incorporation)の会長として長い間才能をふるに発揮して奉仕に従事しました。

JASSIを立ち上げる以前の彼女は、アカデミー賞受賞映画制作者で、エリザベス・テーラーの夫だったマイケル・トッド氏の秘書です。

マイケル・トッド氏が代表作「80日間世界一周」で映画界における基礎を固めた時期、ミドリ・島内さんは、財務部長に昇格しています。

トッド氏が飛行機事故でなくなると、事業は暗礁に乗り上げます。
ボスのエリザベス・テーラーは、話相手にとミドリ島内さんを引き止めますが、彼女は仕事を替えました。

ミドリ島内さんの辣腕ぶりは業界で注目されていたので、すぐにブロードウェイのショービジネスに副社長として迎えられ、この仕事の絶頂期にレダラー氏と再婚します。

レダラー氏は有能な弁護士だったので、生活のために働く必要はなく、彼女は主婦業に専念します。

ところが、彼女の才能を専業主婦で埋没させるしのびないと、夫に背中を押された彼女は、貧民街で麻薬中毒のリハビリのボランティア活動をはじめます。

この活動がきっかけとなり、彼女は日系市民協会の斡旋で、日系高齢者援助会に行きます。
これが、JASSIの活動の発端です。

きっかけは、明治生まれのサウス・ブロンクス地区に住む孤老の男性との出会いです。
その男性の名は、貴志駒太郎といいます。

サウス・ブロンクス地区というのは、白人は通り抜けることも難しいといわれるほどの貧民街です。
そこに、この男性は住んでいた。

道を尋ねながら彼のアパートに辿り着く迄に、周囲の反応からこの孤老の男性がどんな目で見られているのかが、ミドリには分かったといいます。
それでも彼女はボランティアとして、掃除/炊事/洗濯とこの老人の世話をしはじめます。

ミドリの周りでは、そのころ旧知の本野盛幸がニューヨークの総領事として就任していました。
リンゴ園の経営で成功していた、もう一人の友人二世のタカシ・森内もいました。

ミドリは、閃めきます。
「この二人を結びつけてイベントをやろう!」

さっそくミドリさんは、森内氏に、
「リバーサイド・パークに桜を植え、ワシントンの向こうを張ってはどうか」ともちかけます。

植樹には日本総領事も立ち会う。

植樹の当日、ミドリさんは、本野総領事と孤老の男性貴志老人に鍬をふるわせます。
渡米八十余年の歴史を持つ一世老人と、日本総領事の姿は、人々のあいだにさまざまな感動を呼びます。

新聞はこぞって二人が鍬をふるう様子に大きなスペースをさいた。

ミドリさんはその新聞を、貴志老人の住むサウス・ブロンクス地区のアパートの掲示板に貼って、彼を軽蔑した人たちに一矢報います。

その後貴志老人は、骨折をしてしまいます。
自宅で身動きもままならない彼をおもいやってミドリが肩を落としていると、夫は、
「そんなに気がかりなら、家に連れて来て世話してやってはどうか」と言いました。

ミドリさんは、この朗報を貴志老人に伝えます。
ところが、明治気質の貴志老人は、これを受け入ません。
他人の生活圏に入って邪魔をするのは、本意でないというのです。

数年後、貴志老人は、風呂場で倒れているところを発見されました。
和歌山県出身の彼は一世紀に渡る生涯を閉じます。

こうした行動をきっかけとして、ミドリさんは、五千ドルを基金とし、自宅を事務所にして、キミ・清水とシリル・西本の三人でボランティア団体をたちあげます。

十三年後、彼女の事務所は、ハドソン河を見下ろす堂々たる事務所となりました。
年間予算二十五万ドルです。

いま、そのうち五パーセントは、ニューヨーク市からの助成金で賄われています。
彼女の団体は、非営利の公共団体として認可されたのです。

ここまで拡大できた理由は、ミドリの才能です。
「カーネギーホールの加藤登紀子リサイタルや、由紀さおり/安田祥子姉妹らのチャリティ・ディナーショー、五嶋みどりのコンサートなどの企画に注目して、福祉のための資金稼ぎにも流用させていただいたんですよ」と彼女は述べています。 

ミドリさんがUC(University of California)バークレー校に進学した時、父親は脳溢血で倒れ半身不随となりました。

その後、日米開戦に島内家は巻き込まれています。
彼女は、両親とともに強制収容所に放り込まれました。

このとき、勉強のためなら、収容所の外に住むことが認められました。
また、強制収容所とはいえ、宗教団体からの援助もありました。

こうしたことから当時のミドリさんは、バプティスト教会の手引きでニューヨークのベース・インスティチュートの学生となっています。
この学校に入学した時、ミドリさんは、最初の夫とともにニューヨークに向かっています。

そうして両親の元を離れた。
ミドリさんにとって、これが、老いた父親を見た最後でした。

ミドリさんは、父親の死に目にも会えませんでした。
当時、強制収容所のある、ユタ州までの旅費がなかったのです。

そんな悲しみを、二度と味わいたくない。
その思いが、彼女がサウス・ブロンクス地区の孤老にあれほど執着し、福祉の活動家になった原点となっています。

ミドリさんは、平成17年(2005年)3月9日に呼吸不全で、ボランティアに尽くした81歳の生涯を終えました。

日米ソーシャルサービス(通称JASSI)は、ニューヨークに推定で約9万人いる日本人や日系人を対象にした社会福祉活動を専門に行っているNPO法人です。

JASSIは、ニューヨークにおける日系人社会のいわば「駆け込み寺」です。

現在は、理事長の青木博、副理事長の畠中ひろ子、岩本理、大崎孝三、加納良雄、渋沢田鶴子、望月良子、ワイズマン綾子の八人の理事、鳥巣千明、片山瑞恵、中曜子、蔭山正子、喜島栄子の五人のスタッフに受け継がれて運営されています。

日本人個人がこのアメリカで生活に困ったり、ビザの問題や借家、アパートの大家との修理放置のトラブル、ID盗難被害などで法的手段に訴える場合の解決方法や法的手続きのサポートなどを日本語で相談に乗っています。

日本領事館から「JASSIに行きなさい」と指示され場合も多いといいます。
日本政府公認の悩み事相談窓口となっています。

引用元:
http://www.jassi.org/about_mission_E.html
http://www.info-fresh.com/index.php?pages=seikatsu&type=detail&no=4934「時代に挑戦した女たち」上坂冬子
「南の島のマリア」1994年7月発刊/文芸春秋





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