ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

杉原千畝 命のビザ

2012-04-27 15:46:29 | 本の話・素敵な話

■□【1】杉原千畝 命のビザ

日心会メルマガ  転載です。
http://www.nippon-kokoro.com/


杉原千畝(すぎはらちうね)、外務省に訓令違反を問われ辞職を余儀なくされ、生存中その名誉を回復されることなく昭和六十一年(1986)にこの世を去った、リトアニアの元総領事の話です。

平成四年に、加藤剛が杉原千畝を、秋吉久美子が妻の幸子を演じた「命のビザ」がテレビで放送されましたので、ご覧になった方も多いとおもいます。

杉原は、明治三十三年元旦(1900)、岐阜県加茂郡八百津町に生まれました。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ六千人にのぼる避難民を救ったのです。 

その避難民の多くは、ユダヤ人でした。 
独ソ不可侵条約の機密議定書によって、リトアニアが、ヒットラーからスターリンへの贈り物とされたことが、昨今の情報公開で明らかになっています。
リトアニア在住のユダヤ人は逃げ場を失ったのです。

ほとんどの国の領事館は、スターリン支配下になったリトアニアから逃げ出していたため、ビザの発給が出来ませんでした。

そこで、日本を経由して亡命したいユダヤ人は、首都カウナスにあった日本領事館へ殺到したのです。
二百人以上の人々が、領事館の周りに集まってきていました。


杉原は、彼らの中から、英語かロシア語の話せる五人の代表者を館内に招き内情を聞きました。 
領事館の周りは、時間が経つに連れて、さらに避難民が集まってきています。
彼らは、ただ静かに待っているのです、杉原の決断を。

当時の日本は、ドイツと軍事同盟を結んでいました。
日本の外務省は、ユダヤ人に対するビザの発給を拒否するように杉原に訓令したのです。

しかし、彼は、外務省の訓令を人道上の理由から無視することにしました。
一ヶ月間、杉原は朝から晩まで一日三百人を目標に、ビザを発給し続けたのです。
勿論、手書きです。

一人一人に会い、氏名・国籍・住所・年齢、最終目的の国などを聞き、日付を入れ、サインをして、日本領事館の印を押し続けたのです。
途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書き続けました。

やがて、リトアニアを併合したスターリンのソ連からも退去命令が届きます。
そのような時、東京の外務省から、「至急リトアニアの領事館を閉鎖してベルリン(ドイツ)の大使館に移れ」という新しい指令が届きました。

彼は、意志を曲げませんでした。
領事館を閉鎖した後は、市内のホテルに移ったのですが、そこでもビザの発給を続けたのです。
退去期限が過ぎ、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ後も、窓から身をのり出し、発車ぎりぎりまでビザの発給を続けたのです。

ついに、列車がベルリンに向けて動き出しました。

杉原 「許して下さい。 私にはもう書けません。皆さんのご無事を祈っています」
杉原は、列車の窓から身をのりだし、涙ながらに人々に言ったのでした。

避難民「ミスタースギハラ、私達はあなたのことを決して忘れません。必ず生きてもう一度お会いしましょう」

列車と並んで泣きながら走ってきた人々も、杉原一行の姿が見えなくなるまでいつまでも叫びつづけていました。

杉原が発行したビザは、2,139通であると言われています。
そして、そのビザを持ったユダヤ人たちは、身動きが出来ないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけてロシアを通り日本に到着し、敦賀や神戸で数多くの親切な日本人に助けられ、無事にアメリカやイスラエルなどの安全な国に行くことが出来たのです。

昭和二十二年(1947)、戦争が終わって日本へ帰ってきた杉原は、外務省から辞職の勧告を受けました。
理由は、訓令違反です。
体のよい追放です。

そして、リトアニアでのことをいっさい人に話すことなく年月が過ぎていったのです。
その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和四十三年(1968)八月のことでした。

あの時、リトアニアの領事館内に代表として入れた五人の避難民代表の一人、ニシュリという男性が在日イスラエル大使館に参事官として勤めていたのです。
ユダヤ人たちは二十八年間も杉原を探し、ようやく彼を見つけたのでした。

ニシュリは、杉原に会うと、ぼろぼろになった1枚の紙(杉原が発給したビザ)を見せました。

ニシュリ「ミスター・スギハラ、あなたが私を覚えていなくても、私は1日もあなたを忘れたことがありません」

二人は、手をかたく取り合って涙を流し再会を喜んだのです。
杉原の功績に対して、昭和四十四年(1969)には、イスラエル政府から勲章が授与されました。

昭和六十一年(1986)、杉原は八十六歳でこの世を去りました。
その前年の昭和六十年(1985)にイスラエルから、ヤド・ヴァシェム賞を日本人として初めて受賞し、
「諸国民の中の正義の人賞」を贈られ、その偉大な業績を称えられたのです。

故小室直樹は地団駄踏んで、
「なぜ杉原を戦後イスラエルの大使に任命しなかったんだ」と悔しがっていました。
官僚機構の膠着と出世を妬む輩の中で、訓令違反だけが残り、彼の残した絶大なる業績は全く無視されてしまい闇に葬られてしまっていたのです。
もし、彼がイスラエルの大使に任命されいたら、その後の国際情勢の中でどんなに日本は有利になったかしれません。

ソ連が解体し、リトアニアが独立すると、杉原千畝の快挙を記念したスギハラ通りができ、またイスラエル政府は、杉原氏を顕彰したのです。

こうしてナチスヒットラーに抵抗した杉原千畝の功績を外務省は無視出来ないようになったのです。
杉原の名誉回復は、四十六年後の平成三年(1991)になってやっとおこなわれ、外務省は杉原千畝の遺族に謝罪しました。

外務政務次官の鈴木宗男代議士が、
「領事時代の杉原氏の行為を訓令違反としたのは誤りであった」と。

幸子夫人は「杉原が生きていた時分ならもっとよかった」
当然の思いです。
なぜ、杉原が生きているうちに、外務省は謝罪が出来なかったか。

リトアニアが独立してスギハラ通りが出来ていなかったからです。
世界のマスコミが、まだ、スギハラの功績について騒ぎ立ててはいなかったからです。

杉原の人道的措置を称讃し、彼を厚遇し、戦時中のユダヤ人虐殺計画協力を否認することが、戦後外交の立場をいかに強化するものであるか。
このことに、少しも外務省は気付かなかったのです。

辞職を余儀なくされた杉原は、随分と力を落としたようです。
戦後は、外務省の友人といっさい付き合いませんでした。

辞職後は、幾つかの職を経たあと、得意のロシア語をいかして貿易会社に入り、七十五歳までの十五年間、モスクワに単身赴任。
退職後帰国して、昭和六十一年に八十六歳で亡くなったのです。

必要も無いのに、ドイツのユダヤ人殺戮に協力した外務省。
この協力するという訓令の主旨が無意味になっても、訓令違反だけが厳しく問われたのです。

ドイツと同盟を結んでいたのですが、ユダヤ人殺戮の要請はなかったし、条約もなかったのにです。
ナチス・ドイツは消えてなくなったのに、訓令違反だけが生きていました。

ソ連が解体することがなければ、リトアニアが独立することがなければ、杉原千畝の名誉回復はなされなかったことでしょう。

日本の大きな組織の中では、このように、エリートと呼ばれる以外の傍流を歩く人は、庇われることも無く、無視され続けることがよくあるのです。

真珠湾攻撃における開戦事後通告という史上空前の大失敗をやらかしながら、その張本人である井口貞夫参事官、奥村勝蔵書記官は腹を切ることもなく、その後は出世して勲一等まで貰いました。

一方で、訓令違反の杉原千畝は追放。
エリート畑の身内は、国益を無視して迄も庇います。



参考資料
#1「日米の悲劇」小室直樹(光文社)790円
#2「これでも国家tよべるのか」小室直樹(クレスト社)1,600円
#3「杉原千畝と日本の外務省」杉原誠四郎(大正出版)1,800円
#4「杉原千畝の悲劇」渡辺勝正(大正出版)1,500円
#5「6000人の命のビザ」杉原幸子(大正出版)1,575円



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