ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

ご法話 教育への情熱 (中江藤樹・馬子の200両)

2011-01-25 15:46:12 | ご法話・心の指針
今朝、左目が真っ赤っか、充血しています。
二つしかない大事な目ですから眼科受診してきました。
目は真っ赤っかでしたが大丈夫だそうです。1週間くらいできれいになりそうです。
目薬をもらってきました。
その後支部経由で家に帰ろうと支部に寄ったところ、新しいご法話拝聴の機会を得ました。

「教育への情熱」でした。
最初「中江藤樹」の「馬子の200両」を例として・・徳育の大切さ・・から話が始まりました。

中江藤樹がどんな人でどんな逸話があるのか、ちょっと調べてみました。


古くて新しい中江藤樹
2010/01/29 00:44
. ねずきちブログより

中江藤樹いまから400年くらい前の近江国(いまの滋賀県)で、実際にあったお話です。近江国の河原市宿に馬子の又左衞門という人がいました。馬子というのは、馬に人や荷物をのせて運ぶ仕事をする人です。

ある日又左衞門は、京都へ向かう飛脚の太郎を馬に乗せて次の宿場まで送りました。日暮れ前にようやく帰宅して、さて馬でも洗おうかと鞍を取り外すと、なにやら財布のような袋が出てきます。中味をあらためると、なんと200両もの大金が入っています。驚いた又左衞門は、「これはもしかしたら,さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは,あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思います。

又左衞門は、夕暮れの道を、飛脚の泊まっている宿まで、30キロの道のりを急いで戻りました。一方、宿にいた飛脚の太郎は、さて、風呂でもはいろうか、その前に荷物をあらためようとしてみると、なんと大金を入れた袋がない。必死であたりを捜したものの,どこにも見つからない。真っ青です。たいへんなことになった。そこに宿の主人が「お客さん、さっきの馬子が来ていますがぁ」と声をかけてきます。

飛脚の太郎が玄関に出てみると、さきほどの馬子が、ニコニコして立っている。馬子の又左衞門は、「これが鞍の間に挟まっていましたよ。お忘れ物です」と、包みを差し出します。 又左右衛門が差し出したのは、必死に探していた200両の包みでした。その場で中身を調べると、ピタリと全額揃っている。飛脚の太郎は、「この金子は加賀藩前田家の公金です。京の屋敷へ送り届ける途中だったのです。もしもこの200両が見つからなかったなら、自分は死刑になっていました。親兄弟にまで迷惑をかけるところでした。ありがとうございます」と、涙ながらに話しました。

そして太郎は、自分の荷物から財布を取り出し、とりあえずのお礼として又左衞門に15両を差し上げようとしました。ところが又左衞門は、それを受け取ろうとしません。「あなたのお金を、あなたにお届けしただけです。なんでお礼などいりましょうか」と言うばかりです。それでも太郎にしてみれば、馬子はある意味、命の恩人でさえあります。なんとかお礼をしなければ気が済みません。そこで彼は、15両を10両に減らしました。それでも馬子の又左衞門は受け取りません。さらに5両,3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが,それも受け取ろうとはしません。困りはてた太郎の顔を見かねて、又左衞門は、「それじゃあ、ここまで歩いてきた駄賃として200文だけ頂戴いたしましょう」と言いました。

200文を受け取った又左衞門は、そのお金でお酒を買ってきます。そして宿の人たちと楽しそうに一緒にお酒を飲み交わし始めました。お酒もなくなり,又左衞門は、ほろ酔い機嫌で帰ろうとしました。飛脚の太郎は、感激のあまり又左衞門に聞きました。

「あなたはどのような方ですか?」すると又左衞門は言いました。「自分は名もない馬子に過ぎません。ただ,自分の家の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあります。その村に中江藤樹という先生がおられ、毎晩のように良いお話をしてくださり、自分も時々聞きにいくのです。中江藤樹(なかえとうじゅ)先生は、親孝行をすること、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり人に迷惑をかけたりしてはならないことなどをいつも話されます。今日のお金も、自分の物ではないし、きっとさきほどのお客さんがお困りだろうと思ったまでのことです。」そう言って、又左衞門は、夜もふけた街道を歩いて行きました。

中江藤樹は、近江国小川村の農家、中江吉次の長男として生まれます。農家と言っても苗字がありますから、庄屋の家柄であったろうと思います。藤樹は、9歳の時、米子藩主加藤家の150石取りの武士である中江徳左衛門の養子となり、米子に移り住みます。中江藤樹が学問を始めたのは、米子に移ってからだと言われています。1年ほどで大変難しい本も読めるようになったと言いますから、そうとう出来の良い子だったようです。しかし、気のやさしい藤樹は、故郷で暮らす病弱な母が心配でたまらない。ある日、藤樹はひとり学校を抜け出すと、歩いて母の見舞いに行きます。米子から近江まで、約300kmの道のりです。家に着くと、ちょうど母は井戸の水を汲んでいるところでした。9歳だった中江藤樹先生は「お母様!」と言って泣きながら走り寄ろうとします。ところが母は、凛とした声で「止まりなさい!」と言って、走り寄る我が子に待ったをかけます。そして、「あなたは男の子です。男の子は一度目標をもって家を出たら、めったな事で戻ってきてはなりません。私のことなど心配せずに学校にもどりなさい!」と静かに言い聞かせます。

中江藤樹は、15歳で家督を相続しますが、27歳で脱藩し、故郷の小川村に戻ります。宮仕えの武士ではなく、自らの学問を深めようと決意したからだといわれています。小川村に戻った中江藤樹が、村で最初に知り合ったのが、馬子の又左衞門です。良い人の周りには、自然と良い人が集まる。藤樹は、又左衞門に、自分の刀を売ってもらいます。もう武士はやめるから、いらない、というわけです。

このときも、又左衞門は、頑として謝礼のお金を受け取らなかったのだそうです。それどころか、是非、塾を開いて、自分たちを教えてくださいという。夜になると、又左衞門は、さっそく馬子仲間の与六や、七兵衛を連れて藤樹の家にやってきます。こうしてはじまったのが、中江藤樹の私塾「藤樹書院」です。中江藤樹の私塾国の「藤樹書院」は、国の史跡に指定され、いまでも滋賀県高島市にあります。藤樹書院塾は、慶安元(1648)年8月25日、藤樹が41歳で没するまで14年間続きます。

中江藤樹は、ここで、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」を教え広めます。「良知心学」という学問は、陽明学を日本風にしたものです。「良知心学」では、人は本来美しい心(明徳)を備えていると説きます。明徳とは、心の鏡です。学問は心の鏡を磨くためにある(致良知)。心の鏡が曇ると、人は物事を正しくとらえることができなくなる。ゆがんだものの見方をする。そのゆがみが、人と人との争いを引き起こす。だから、心の鏡を常に磨き、自分が善いと信じることを断固実行せよ(知行合一)と説きます。

中江藤樹の書中江藤樹が私塾を経営しているころのことです。塾のある小川村からほど近い鴨村の街道沿いに、一軒のそば屋がありました。その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。先生は、ふたつ返事で承諾してくださいました。一週間が過ぎた頃、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。

ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。家来がお殿様にお茶を差し上げるためにそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。見事な書です。「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」家来は、大金を主人に渡して、看板をもらいうけました。思わぬ大金が手に入って喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃(はんぴつ)を運び出してふたを開けました。すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きが、びっしりと入っていたのです。それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、深く恥じ入ったといいます。

中江藤樹が亡くなって何年も経ってからのお話です。一人の武士が、小川村の近くを通るついでに中江藤樹の墓を訪ねます。畑を耕している農夫がいたので,その武士は農夫に道を聞きました。農夫は自分が案内しようと言って先に立って歩いてくれました。ところが、途中で農夫は自分の家に立ち寄って着物を着替え、羽織まで着て出てきました。武士は心の中で、「自分を敬ってこのようにしたのだろう」と思ったそうです。中江藤樹の墓に着いたとき、農夫は垣の戸を開けて、武士をその中に入らせ、自分は戸の外にひざまずいて拝みます。武士は、そこで初めて、さっき農夫が着物を着替えたのは藤樹先生を敬うためであったと気が付きます。それで深く感心して、ていねいに藤樹先生のお墓を拝んだということです。以下は、中江藤樹の言葉です。

(中江藤樹記念館HPより転載)
○父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し。父母からうけた過去の恵のおおきさは、とても推し量ることができません。いずれの父母も、わが子をおおきく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものです。ただ、その苦労をあえてわが子にむかって語ろうとはしませんので、そのことが判らないのです。藤樹先生は、そのような父母のなしてきたあらゆる苦労を「千辛万苦」と表現しています。

○それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくするを本実とす。そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れません。だが、そのような知識つめこみのために、かえって「高満の心」にふかく染まっている人が多い、と藤樹先生は説いています。

○人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖があります。しかし、すべての人間は、明徳という、金銀珠玉よりもなおすぐれる最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです。それゆえ人間は、すべて善人ばかりで、悪人はいません。藤樹先生は、四百年前に、このような「人間賛歌」を首唱したのです。

○善をなすは耕うんのごとし。善行というのは、あたかも汗水をながして、田畑を耕すようなものです。すぐに穀物を得ることはできませんが、かならず秋にはちゃんと実り、耕した人の口にはいるのです。その反対の悪行というのは、人間としてあるまじきおこないのことをいいます。

○それ人心の病は、満より大なるはなし。私たちにそなわっているりっぱな徳をくもらしてしまうのは、「満心」という病気が、そのいちばんの原因なのです。どの辞典にも、慢心と書かれていますが、藤樹先生はあえて「満」という漢字をもちいました。われこそが、というおごりたかぶる心をいいます。この心に染まっているかぎり、人に対するあたたかい思いやりの言行などは、さらさら出てきません。そのはてには、大事なものをうしなってしまうのです。

○天下の兵乱も、また明徳のくらきよりおこれり。先史の時代から、この地球上において、人間どうしの悲惨な戦争がたえまなく起こっています。なぜ戦争が繰り替えされるのでしょうか。その原因のつまるところは、明徳をくもらせていることにあると、藤樹先生は断言しています。政治にたずさわる者の「利欲の心」と「満心」によって、明徳をくもらしてしまうのです。それをとりのぞくには、論語や孟子などの古典をまなぶことが、だれにでもできる最上の方法なのです。最後にひとつ、中江藤樹のお弟子さんのお話です。さて、中江藤樹の弟子に、熊沢兄弟がいます。兄が蕃山、弟が仲愛です。親の土地を誰がどれだけ譲り受けるかということで,ある兄弟が激しく喧嘩をしていました。代官がけんかをやめるよう命令しても全然聞かない。そこで、熊沢仲愛が、この兄弟を仲直りさせるよう頼まれました。仲愛は、まずその兄弟を自分の家に呼びました。兄弟は小さな部屋に通されます。仲愛は自分の家来に次のように言わせました。「主人は急な用事が出来たので、しばらくお待ちくださいませ。食事とお風呂は自由に使っても構いません」そしてその兄弟をずっと待たせておきました。兄弟は憎しみ合っているので、最初何も話しませんでした。けれど,だんだんと幼い日一緒に遊んだ頃のことや両親に大切に育てられたことを思い出しました。ついには兄弟涙を流して、お互いに自分が悪かったと謝り、おいおいと泣きました。そこへ熊沢仲愛が部屋に入り、一言「本当に喜ばしいこと」と話すと,兄弟は仲良く家に戻ったそうです。中江藤樹の門下生に、熊沢蕃山がいます。その弟子が大潮平八郎であり、幕末の藤田東湖、吉田松陰などに受け継がれてゆきます。そして戦前の小・中学校の修身の教科書には「近江聖人、中江藤樹」の名前が必ず出てきましたから、藤樹の思想は、戦前までの日本には確かに受け継がれてきたものといえます。戦前までたしかにあって、現代社会で失われたもの。それは、中江藤樹の明徳の思想なのかもしれません。 



又左右衛門は中江藤樹から「正直でありなさい」と教えられていました。
徳育とは、人間を善なるものに導く高貴なる義務があり、自分のためだけに生きてはいけないとおっしゃいました。

それは武士道精神とも騎士道精神とも言われるもの、世の中の人々の悲しみや苦しみを感じ取る心です。

それから努力の大切さを説かれました。
例えば「トロイの遺跡」を発掘したシュリーマン(オランダ人)は、幼い時から聞いていた伝説を・・実際にあったはずだ・・と、遺跡を発掘するためにギリシア語などいろいろな言語をマスターするため語学に打ち込みました。
英語をマスターするために半年教会に通って牧師さんの話を音読を繰り返して勉強しました。マスターした言語は15カ国語で、6週間で一つの言語をマスターしたそうです。
語学は基本的に忍耐力であり、集中力なのだとおっしゃいました。

何よりも私は若い人に言いたい。
人生発憤しなければ・・恥ずかしい思いや苦しい思いをしたなかに道は開けていく。
しかし願っても届かないものはある。
自分の目標に届かなかったとしても、苦しんだこと頑張った経験が残る。
それがその人の魅力に変わっていくと思う。

ここが私は好きです。
苦しくても頑張った経験が、その人の魅力に変わっていく・・って素敵だね。

さてさて・・今から夕食の支度です。
昨夜はとろろ芋を作りました。
美味しかった。

今夜は鯖のみそ煮とレバーとお汁ものを1品でいいかしら。

では またぁ・・です

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