冬蛾
1
「辞めるって本気かね」
小寺公子が部屋に入るとすぐ、医学書から目を離し目元を両の手で押さえながら、多村医長は言った。
「はい」公子は身を堅くして答えた。指先が微かに震えていた。
「本当に遣れるのかね」
歳の割りには老けて見える、多村の優しい目線が公子を捉えていた。
「はい」
公子は多村の目線から逃れるように、じっと床を見つめていた。ここ迄来たからには翻意は出来ないのだと自分に言聞かせていた。
この件については、多村に一番に相談したかった。看護婦としては、直接の上司である川島婦長に辞職の理由とこれからの進路を口頭で陳べたのだった。川島より、多村に伝えられたもののようであった。それは、多村のオペの時には公子が何時も就くという理由からではなかった。公子の気持ちを変えることが出来るのは、公子が尊敬する多村でなくては出来ないという川島の計算があったのだった。
「川島婦長も大層心配しておられる。私も心配だ。ホームヘルパーとして本当に遣れる自信はあるのかね」
眼鏡の奥の穏やかな眼が、公子の行動を案じていた。それを、公子は全身で感じると、心が大きく揺れるのだ。その気持ちを押さえるように、
「遣れるかどうか解りません。私としては、とにかく一生懸命に・・・」公子の声は胸の高鳴で震えていた。
公子は多村の顔を正視できずに、瞳を自分の白いパンプスに落としていた。何度も何度も洗濯機の中を潜り、布はその緊張を失い、弛緩していた。多村を兄のように慕い、人間として尊敬して止まなかったのに、その人の許を自らが去ろうとしている。それは、仄かに生れ様としている恋慕を断ち切る行為もあったが、どうしても納得いかない多村のクランケに対する処置への抗議も入っていた。
「きみを留める事が出来ないのが残念だ」
多村はそう言って、銀縁の眼鏡を外し胸からハンカチを取り出して拭いた。その行為は困ると行なう癖であった。彼は椅子から立って大きな硝子窓に近寄り外を見た。男性にしては細い肩だった。その肩が淋しそうに見えた。
公子はゆっくりと目線を上げてそれを見た。この体力的にもタフだとは思えない多村に、オペの時には長時間の集中力が潜んでいるのだと言うことを公子は知っていた。多村の許で色々と勉強したいという気持ちは失せてはいないのだった。だが、どうしてと言う疑問が彼女に生れていた。
「そうか・・・。遣り給え、若いんだから精一杯に・・・。でも、四、五階のクランケはさぞっかりするだろうな」
振り向いた多村が頬を少し緩めて言った。
「いいえ、すぐに忘れます。それにこの病院には多くのナースが・・・。そして、これからも新しい人達が入ってきます」
公子の心は動揺していた。それは、これから未知の世界に入ろうとする不安感でもあった。
「そうだ、その通りだ。だが、小寺公子というナースはいないということになる」
「それは・・・。ここのお年寄りの方はまだ病院のベツドがあり、ドクターと身の回りの世話をするナースがいるから幸せです。病院に入れず、独りぽっちで寝たきりで・・・、その人達のことを思うと・・・」
公子は、夕暮になって縁側まで這い出て、声にならない声で「赤とんぼ」を唄っていた年寄を思い出していた。庭の隅には赤く熟れた柿が夕日に照らされて寄り紅く染まっていた。縁にはマッチの棒が十本単位で纏められ、幾つも作られていた。
「このマッチの山が十になると倅夫婦が帰って来て、飯を食べさせてくれます」
その辿々しい言葉に公子は泣いたのだった。
「小寺くん、ここでの生活が本当に幸せだといえるのだろうか・・・」
「それは・・・ですが、ここの人達より困っている人達が多いいという事を忘れてはいけないと思うのです・・・私は。・・・」
「その通りだ。准看として三年、そして、正看として二年、小寺くんがこの病院で、特に老人医療を見聞し、看護して、その事に気ずいた。そして、野にある老人の問題に関心を持った、どうにかしてあげたいという人間としての慈愛が生れた。・・・この病院も小寺君のような限りなく同胞を愛しいと言うナースが沢山育てば老人福祉も自ずと解消するだろうが・・・。医療というのはドクターとナースの連携プレーでなくてはならないし、また、対等にクランケに対して意見の交換がなされなくてはならないのだということを感じるのだ。この旧態依然の慣習を打ち破るのが君だと考えていたのだが・・・」
多村は静かに独り言のように呟いた。その声は、増築工事の騒音に消され、途切れと切れに公子に届いた。
「やってみたまえ・・・。私のオペの時に何時も君が居てくれて、てきぱきとした行動で助けてくれたこと、忘れんょ」
「先生」公子は小さく心の中で叫んだ。あの白い額の汗を何度拭いただろうか。多村だったから安心してオペ室に入れたのだという事を思い出していた。
「行ってこい。白衣の天使の君なら出来る。人間を愛しいと言う君だから出来る。・・・白衣を着ているが天使ではないナースが多くなった・・・」
多村は終わりの言葉を床に落とした。
公子は双眸から涙が溢れていた。
「なかなかきついぞ。困ったことがあったら何時でも相談にきてほしい。私に出来ることがあったら手伝わしてもらうよ」
感傷で人が救えるか、同情でその人が喜ぶか、優しさで人が振り向くか、そう言って叱って欲しいと公子は思った。
「有難う御座いました」
公子は堪えられなくなって部屋を出た。ドアを背にした時、一度に今まで堪えに堪えていた涙が堰を切ったように迸しった。これでいいのだ。これでと公子は自分に言聞かせていた。
皆様御元気で・・・ご自愛を・・・ありがとうございました・・・。
恵 香乙著 「奏でる時に」
あいつは加奈子を抱いた。この日から加奈子は自分で作った水槽の中で孤独な魚と化した。
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1982年、まだ美しかった横浜―風変わりなおんぼろ塾で、あたしたちは出会った。ロケット花火で不良どもに戦いを挑み、路地裏を全力疾走で駆け抜ける!それぞれが悩みや秘密を抱えながらも、あの頃、世界は輝いていた。大人へと押しあげられてしまったすべての人へ捧げる、あなたも知っている“あの頃”の物語。
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作者のブログです・・・出版したあとも精力的に書き進めています・・・一度覗いてみてはと・・・。
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