ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

凡人だなぁ・・・

2005年06月06日 11時02分23秒 | マイ・ブーム
 昨日の民友新聞に興味深いことが書いてあった。(以下、福島民友新聞・編集日記・6月5日掲載)
芥川竜之介の好きな言葉に「君みよ双眼の色、語らざれば憂いなきに似たり(君看双眼色、不語似無憂)」
がある。禅の語録の一つで、書を頼まれると、よく筆をとった▼あの人のひとみを見なさい。自分のことを
語ろうとしないし、他の人もあの人について語らない。だから、あの人が何をしてきたか分からないが、の
んきそうで、この世の憂いを知らない人のように思える▼しかし、あの人のひとみの奥の方をのぞいてみれ
ば分かるはずだ。人の世の辛酸をなめ尽くした深い影がひとみの奥底に沈んでいるのが―の意味がある。人
を見抜く難しさを諭しているようだ(以下省略)

 傍目には平穏を装っていても、本当は過ぎてきた辛い過去を瞳の奥に仕舞いこんで、そう簡単には心の奥
底を表には出さないという人間像を語っていて、そういうことも含めて、よく人を見なくてはならないなら
ないのではないか、と言っているのだ。
常日頃、思慮深いと言動をしたいものだと願っている筆者だが、そこは凡人、なかなか思うようには行かな
い。表情に心中をもらさない、例え嵐が内側にあったとしても、毅然とした態度でいることは難しい。
激しい感情が表へ漏れてしまって・・・後から、後悔することしきりである。まだまだ、おぬし修行が足り
ないぞ、というわけだ。

 「君看よ・・」の出典を紐解けば白穏禅師が言った言葉だという。しかし、元々は違う意味で使われてい
たようで、白穏禅師も中国の高僧・大燈国師の句に「君看双眼色、不語似無憂」を付け加えて詠んだものら
しい。詳しくは>
azumando さんのブログへ(かなり詳しく語っておられるので)
興味のある方は行って読んでみてくだ
さい。

 最近、禅語に興味津々である。走行中のラジオだったので誰が語ったかを聞き逃してしまったが、あまり
にも素敵な言葉だったので家に戻って調べてみた。それは「随処作主、立処皆真」(臨済録)である。
(ずいしょにしゅとなれば、りっしょみなしんなり。)
その声の主は、よくテレビに出演するタレントだったようだけれど、「自分の今ある立場を、例え脇役でも
主役として演ぜよ。大切なことは、その場所を自分が主役のシーンに変えてしまう考え方だ」と語った。
これは決して脇役が主役を喰ってしまうという意味ではない。その場所を精一杯努めるという意味である。
今の境遇に不満を持つより、それを「この場面は自分が主役なのだ」と思って演じ切ることだという。
調べてみれば、多くの人が好んでこの言葉を引用しているようだ。野球の野村監督も使っている。

 気がつけば、世の中には沢山の禅語で溢れていた。自分がそれに照準が合わなかっただけなのである。
いい気になって使った禅語の熟語もあったけれど、身について居なかったかも知れない。