エヴァが10周年を機に「完結」に向かうとかいう戯言(たわごと)を傍(はた)に、「彼氏彼女の事情」のDVD第1巻を見た。
実はきちんと見るのは初めてだったのである。
面白いねぇ。
これは、ストレートに、登場人物の「心象」と「独白」が作品そのものを支えているではないか!
エヴァでは使徒とかATフィールドとか、もっともらしい記号によりいわば「無効化」されてきた「心象」と「独白」の、妙に際立った微私性が、ここでは迷いなく、遺憾なく機能していて、安心して見ていられるじゃないか。
そういうことでは、わたしは信用しないのである。エヴァはあの25・26話で本当に完結しているのである。
劇場版二十五話二十六話が、その再話そのものである。
だから、「死海文書」だの、「ゼーレ」「魂の座」だの、もっともらしいキイワードを巡る謎に対し、観客が納得するような「真実」など、決してありはしないのだと、そう思うのだ。
エヴァの、後ろ向きな「わたしの心象」に、カレカノの後ろを向いては終われない「わたしたちの心象」を重ねて、あのころの庵野監督の描きたかったことは、ここにおいて一定以上には至っていたのだと、やはり、思うばかりなのである。
実はきちんと見るのは初めてだったのである。
面白いねぇ。
これは、ストレートに、登場人物の「心象」と「独白」が作品そのものを支えているではないか!
エヴァでは使徒とかATフィールドとか、もっともらしい記号によりいわば「無効化」されてきた「心象」と「独白」の、妙に際立った微私性が、ここでは迷いなく、遺憾なく機能していて、安心して見ていられるじゃないか。
そういうことでは、わたしは信用しないのである。エヴァはあの25・26話で本当に完結しているのである。
劇場版二十五話二十六話が、その再話そのものである。
だから、「死海文書」だの、「ゼーレ」「魂の座」だの、もっともらしいキイワードを巡る謎に対し、観客が納得するような「真実」など、決してありはしないのだと、そう思うのだ。
エヴァの、後ろ向きな「わたしの心象」に、カレカノの後ろを向いては終われない「わたしたちの心象」を重ねて、あのころの庵野監督の描きたかったことは、ここにおいて一定以上には至っていたのだと、やはり、思うばかりなのである。
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