ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

竜(ドラクル)騎士団のブラド大公は、いかにして血の呪いを解き放たれたか。

2007-03-09 | 映画
ドラキュラ」Bram Stoker's Dracula

フランシス・フォード・コッポラの傑作であるが、四つの要素を指摘すれば作品の輪郭は明白になるだろう。

第一の要素。
プロローグにおいてドラキュラ伯爵(ゲイリー・オールドマン)の「実像」といわれる「ブラド(串刺し=ツペシュ)公」の「聖十字架の騎士」として、トルコ軍に対して無慈悲なほど勇猛で、残酷な姿を紹介しつつ、エリザベータ(ウイノナ・ライダー)という妃の自殺を契機に神を怨み、生命の源である血を啜る魔物に変わるという「虚構(フィクション)」の場面を挟んで、後のミナ(ウイノナ・ライダー二役)との因縁を提示する。

第二の要素。
ジョナサン・ハーカー(キアヌ・リーヴス)のトランシルバニア訪問からドラキュラのロンドン来訪までの場面。
これらの場面は根本的にF・W・ムルナウ版「ノスフェラトゥ」に則しているといえる。指の、爪の長い魔人としてのドラキュラであり、禿頭ではないが、老けた顔に奇妙な形に結った白髪の怪人としてのドラキュラである。かの表現主義の映像を推し進めたかのような演出である。手前のドラキュラと背後のその影の動きが違うなど、結構「そそる」場面がある。ただ、「ノスフェラトウ」では省かれた三人の魔女の場面が描かれていたり、ドラキュラの棺など(引越しの荷物)を運ぶデメテル号の「難」もかなり象徴的に描かれている。

第三の要素。
原作の人物を遺漏なく登場させている点。
「ノスフェラトウ」ではルーシー・ウェステンラとその夫、それ+(プラス)ヴァン・ヘルシングという具合に省略されていた人物を原作どおりに復して、原作の見せ場を遺憾なく盛り込んだ点。アーサー・ホルムウッドとキンシー・モリスとジャック・セワードのルーシー・ウェステンラを巡る恋の鞘当と、ドラキュラの襲撃、ヴァン・ヘルシング(アンソニー・ホプキンス)の登場、輸血治療などである。

そして、第四の要素。
オリジナルな展開としてその吸血鬼討伐部隊がトランシルバニアのドラキュラ城まで魔人を追ってくるところ。ラストのミナによる「伯爵の慈悲死」は「ノスフェラトゥ」における「貞女の自己犠牲」とは意味あいがかなり違う。

序盤近くに示されたバートン版「千一夜」のエロティシズムに対し、過剰なほど憧れと嫌悪を示すルーシーとミナの描写において、閉ざされた性と狭苦しいモラルの提示が効果的である。終盤、神の祝福のもとにジョナサンの妻となりながら、闇のくちづけのせいばかりでなく、ドラキュラへの愛を語る(=神の前の誓いを破る不貞な)ミナの前で、遂にジョナサンは(仕方なくか、もはや力なくか)その幕引きをミナに託すわけだ。これはどの作品とも決定的に違っており、プロローグから予想されるものともおそらく異なる要素であろう。

よく錬られたシナリオ、よく計算された演出の作品である。

未見の方は必見。忘れた方は必再見。