オペラ「ドン・カルロ」は、スペインのフィリップ2世とその王妃、そして息子を巡る三角関係が主な筋書きとされるが、ここでフィリップ2世の王妃を整理しておこう。
彼は71年の全生涯の間に4人の妻を持った・・・王は敬虔なキリスト教徒であるから当然であるが、時期的にダブっての結婚はない、後の奥方は先の方が亡くなってからのお輿入れ。
この4人の顔ぶれや結婚の経緯など見れば、当時の国際政治を見る上で、各国王家の結婚政策が如何にすざましかったか、特にスペイン、オーストリアの両ハプスブルグの結婚政策への執着ぶりがよく分かる。
① 最初の妻は、1544年フィリップ16歳のとき結婚したポルトガル王家の「マリア・マヌエラ」。但し彼女はドン・カルロスを生んで2年後に死亡する。 従ってこの妻はあまり政治的に意味がないのだが・・・
大事なことは、フィリップの母(従ってカルロス5世の妻)はポルトガルの実力王マヌエル1世の娘イサベル。この結婚が効いて、後年(1580年)、時のポルトガル王セヴァスティアンがモロッコ遠征に失敗し、王様が戦死して王家が断絶した時に、フィリップ2世がポルトガルを併合する・・・ポルトガル王を兼ねることに連がる。
② 2番目の妻は、1555年フィリップ27歳のとき、イングランド王「メアリー1世」と結婚。彼女はヘンリー8世のもとへ稼いだキャサリンとの間の子。ヘンリー8世、エドワード6世の死後、イングランド王に就き、カソリックを復活させ、プロテスタントを猛烈に処刑するので有名(ブラディー・メアリー=血まみれメアリー)。しかし1558年、エリザベス女王の政治力に破れ去る。
イギリスをカソリックに復帰させんとする勢力(教皇庁、ハプスブルグ家など)は、メアリーの後のイギリス取り込みを狙い、フィリッペ2世とエリザベスとの結婚を画策するが、エリザベスはその話に載らない。
③ 3番目は、フランスのヴァロア王家、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘、エリザベート妃(聖バーソロミュー事件で有名なマルゴ王妃の姉に当たる)・・・スペイン風に「イサベル・ド・ヴァロア」と呼ばれる。
フランスとハプスブルグ家は長年、イタリアでの覇権を争ってきたが(経済力をつけたフランスがローマ教皇の地位を狙ったりする)、オスマントルコの来襲を前に手打ちを行う(1559年、カトー・カンブレジ条約)。
そしてフランス国内で激化する新教運動(ユグノー戦争)を封じ込めるため、スペインが手助けすることになる。この結婚はそういうことを背景としてのものだが・・・
後はオペラ「ドン・カルロ」の世界、想像を楽しむとして・・・このエリザベート妃もドン・カルロの後を追うように亡くなる・・・毒殺説あり。
④ 4番目の結婚は、1569年フィリップ2世42歳の時。相手はオーストリア・ハプスブルグのマクシミリアン2世の長女、アンナ。結局彼女が生んだ子が1598年、父の後を継いでフィリッペ3世となる。
参考までに・・・もともとオーストリア・ハプスブルグは、東欧での結婚政策が当たり、ハンガリー、ボヘミアを手に入れて「ドナウ帝国」とでも呼ぶべき領土大国になっている。
更にもう一声とばかり、スペイン側のエリザベス工作と前後して、王子をイングランド(エリザベス)あるいはスコットランド(メリー・スチュアート)に送り込もうとするが、エリザベスに見抜かれて、話をつぶされてしまう。
そこで矛先を変えて、フランス、スペインとの友好を固めておこうと・・・。上記フィリップ2世とマクシミリアンの長女アンナの結婚は、フランスのシャルル9世とマクシミリアンの次女エリザベートとの結婚と、二組全く同時に行うという政治色丸出しのもの。
ともあれこの時期、各国王室の結婚政策はピークに達し、行き着くところまでゆきついた感じがする。従兄弟どうしや、甥、姪との結婚がいい結果をもたらさないことは実感できたはず。スペインハプスブルグは、結局180年位の間に5人の王を輩出するが、1700年後継者が絶え、フランスのブルボン王家にとって代わられる。(スペイン継承戦争)
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