プルサーマル計画を憂慮する有志の会

原発問題に関して投稿します。

「暴力」考

2013-01-24 10:25:21 | 日記
 「いじめ」はどのような形であれ「暴力」です。いじめという言葉をなくすべきだと思うのです。虐待はどのような形であれ「暴力」です。虐待という言葉をなくすべきだと思うのです。体罰はどのような形であれ「暴力」です。体罰をいう言葉をなくすべきだと思うのです。セクハラ、パワハラ、アカハラ、ハラスメントは単なる「迷惑行為」ではなく「暴力」です。そのような「差別」化に何の意味があるでしょうか?

 愛のあるいじめも、愛のある虐待も、愛のある体罰も、愛のある迷惑行為もありません。そこにあるのは、愛されたいという思いと、愛したいという思いです。その「願い」自体が愛なのではありません。でも、この人としての自然な「願い」があるから、人は苦しみ、悩み、もがいているのです。また、その愛したい愛されたいという思い、その願いの中に、或いはその願いが叶えられない状況の中で、哀しいことですが、「暴力」が介在してくるのです。

 「愛」とは見守り、寄り添うことだと思います。愛したいという思いも、愛されたいという「思い」もありません。自他の区別無く、慈愛の心で接する以外に、「愛」の表現は無いと思うのです。しかしながら、そのような無償の愛を十二分に受けて育った人などこの世に存在するでしょうか?以前にも書きましたが、私は長い間、自殺企図を抱えながら生きてきました。自分を「殺したい」と思っていたのです。でもこれは同時に、自分を「愛したい」という願望でもあったのです。この願いは、勿論原初的には両親に愛されたい、両親を好きでいたいという思いから形成されたものです。

 私のこの自分をも殺したいという「殺意」は、その「願い」が叶えられなかったという(絶望的な)思いからきています。長い間、特に父親との確執に苦しみ、親に対して強い憎悪を(でもやはり同時に愛されたいという思いを)抱いていました。強い憎悪に感情の火が降り注がれると、親子でも容易に殺す殺されるの修羅場になります。私自身も何度かありました。やはりそこでも、何故愛してくれないのか、何故認めてくれないのか、何故抱きしめてくれないのか、そんなインナーチャイルドが声を上げて泣いていたのです。正しく、人としては未熟そのものの状態ですが、私などはそうやって生きてきたのです。

 願い、思い、こうしたい、こうされたい、このような煩悩(我欲)が、人を突き動かし、ある意味生きる原動力になっています。ある人はお金、ある人は名誉や出世、人それぞれに形は違っても、愛の代替物を求めます。しかしながら、代替物を得ようとする過程では競争(奪い合い)が発生し、様々に暴力(最大の暴力が戦争です)が、どうしても付き纏ってくるのです。そのような代替物で、決して満たされるはずもないことを知りながらも、人はどうしようもなく、求めてしまいます。愚かだと分かっていても、自分を止められないのです。いじめも、虐待も、体罰も、そうした思いから生じてくるのだと思うのです。もっともっと大きな暴力が、(不幸なことに)世界中には溢れています。自分の中にも存在します。そして、この「思い」がある限り、「暴力」もなくなることはないと思うのです・・・

by「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」 (平成25年1月24日)