街へ野へ

日ごとの思いを書きとめたいのです

ピーナッツサンド

2015-04-08 23:50:00 | 昔がたり
前の日(7日)に、ビスケットにピーナッツバターをはさんで食べたら、今日はパンにはさみたくなった

朝トーストを食べたのに、お昼もパン

サンドイッチ用の10枚切りの食パンに、ピーナッツバターをつけて、サンドしました


四つに切って、重ねました

これを見たら、急に思い出した事がありました

前にも書いたことがあるのですが・・

子供の頃、父親が仕事で毎週木曜日に伺っていた場所がありました
そこには、外国の方がいらして、サイモンズさんといわれたのですが、
英語が苦手な父は「西園寺さん」と呼んでいて、
生意気盛りの私は「お名前、ちゃんと呼んであげなくていいのかしら?!」と思ったりしていました
仕事が終わると、お茶の時間になるのですが、、その時にいつも、このピーナッツサンドを出してくださるのです

1度持って帰ったら私が喜んだので、それからは毎週行く度に、紙ナプキンに包んだ、このサンドを持ち帰ってくれるようになりました

向うの方も、父が食べないで持って帰るので、私のお土産の分を用意して下さるようになりました

その頃、パン屋さんでコッペパンに挟んでもらうピーナッツバターは、甘くて好きだったけど、歯の浮くような甘さだった

父の持って帰る、このピーナッツその物の味のするピーナッツバターは、初めて口にする味でした
日本には無い味だったのです

自分でお金を稼ぐようになって、輸入食材を売っている店に買いに行くようになりました

銀座松屋の角を曲がって2軒目くらいの所にあった、輸入食材の店によく行きました

今は、近所の「カルディ」で簡単に買っているけど、その頃は輸入食材は専門の店に行かないと手に入らなかったのです

ピーナッツサンドを食べながら、久しぶりに父のことを思い出しました
「おいしい」と言って食べている私の顔を、横で嬉しそう~に、にこにこ見ていた父の顔を思い出しました


アイスクリームの話(つづき)

2011-11-11 15:36:09 | 昔がたり
生まれてから今までで一番おいしかったアイスクリームの話。

その頃、アイスは夏の間だけ。
近所の菓子屋で売っていたアイスキャンデーも夏が終わると姿を消した。
冬、アイスを食べるなんてこと、想像することもなかった。
だって、どこにも売ってない。

そんな頃のある年の誕生日。
小学校に上がる直前くらいの歳。
私は2月生まれです。

その夜、両親は仕事で外出。
帰って来たとき、
お菓子屋さんが量り売りのお菓子を入れるような白い紙袋を、
目の前にかかげてニコニコしながら「はい!」とさし出した。

「ん~?」と中を見て、「?」。
取り出してみた。
最中の皮にはさまれたアイスクリームが1個!

ありえない物が突然目の前に現れた。
あんまりビックリして、目をパチッと見開いて「アイス・・」と言ってる私に、
母が「お誕生日のお祝い!」と、ニコニコしながら言った。
溶けないように急いで帰って来たのか、少し息をきらせている。

真冬に暖かい部屋でひんやり美味しいアイスクリームを食べる。
想像もしたことが無かった出来事がいきなりやってきたのです。

おいしかった!!!
私がン十年生きてきたなかで、一番おいしかったアイスクリーム!
そして一番のビックリプレゼント!

これ、どうしたの?って聞きました。
だって買える所が思いつかなかったから。
そしたら、商店街にある食堂に行って、頼んで売ってもらったのだそうです。
その食堂は2階にあって、1階では製氷業を営んでいて夏の間はアイスキャンデーの製造もしています。
それで1階の店先では、夏の間アイスの販売をしています。
食堂の人は話を聞いて、夏に使ったアイス用の最中の皮を出してきて、入れてくれたのでしょう。
外食をすることが無かったから、食堂には冬でもメニューにアイスクリームがあるなんて知らなかった。

びっくりしてよろこんでいる私を見ていた、両親の顔がとっても嬉しそうだった。

真冬に暖房のきいた部屋でアイスクリーム食べるのが普通のことの今、
こんな話、ピンと来ないでしょうけど・・


父の茶道具

2011-11-03 10:50:55 | 昔がたり
「停電の話」というタイトルで書いた、今年の4月3日の日記の中で、
父が紡績工場の女工さん達に茶道を教えていたと書いた。

その日の日記の抜粋
『そのころ私の父親は趣味の延長の「茶道」を女工さん達に教えていた。

別に月謝をもらっていた訳でもなく、
我が家はその日は会社のリクレーションルームと化して、
お稽古がおわってもみんな帰ろうとはせず、
買ってきたお菓子を食べ、お茶を飲みながらおしゃべりしていた。』

父は昭和15年から住んでいた台北で、茶道の宗匠について茶の湯を習っていた。
本業とはまったく関係はありません。
完全に趣味。

そして向かえた終戦。
現地で召集されていた父も家に帰って来た。
引き上げの為の準備が始まる。
父は、隣組(町内会)の世話、仕事関係の団体の世話で、家の事は何もできなかったそうだ。
日本に持ち帰る荷物については、厳しい制限があった。
細かく品目を書いた一覧表が配られていた。

通帳は持ち帰れるとの事で、皆、持ち物を道に並べたり、台湾の知り合いに買ってもらったりして現金に換えた。
もちろん二束三文に買い叩かれた。

父も持っていた本を売った。
そうして、売れるだけの物を売ってお金に換えた。
そのお金を銀行に預けに行く途中、茶道の宗匠の家に挨拶に寄った。
そこには、茶道具を前に途方にくれている宗匠が居た。

父は持っていたお金を全部出して茶道具81点を買った。
もう、銀行に用はない。茶道具を荷車に積んで家に帰って来た。
あきれている母には当然手伝ってもらえないので、自分で荷造り。

一人3枚出さねばならない所持品の申告書。
細々記入したあと、1行よぶんに「薬用茶点茶用具一式」と書き加えた。

引き揚げ船に乗船の日。
荷物をひろげての厳しいチェック。
「ここには、一と書いてあるのに70も80も有るではないか!」と咎められた。
父は、
「一ではありません。一式です。薬用茶ですから飲むのに儀式がいるのです」と、
一つ一つの道具の説明を始めた。
面倒くさくなったのだろう、中国将校は許可の印をつけてくれたそうだ。

子供の頃、その時の話が出ると、母の声は少しトーンが高くなった。
「お父さんの荷物は茶道具だけなんだから!」
当時5才の兄、2才の姉がいた。

お母さん、貴女はエライ!よくぞ長年連れ添った!

私が幼いころ、時々父が茶を点てている姿を目にした。
日ごろ優しくて、私に甘かったから、私も父にくっついて甘ったれていた。
けれど、お茶を点てている時は、声を掛けることも、傍に寄ることもできなかった。
背すじをのばして正座している父の姿は“シン”としていて、寄っていくことができなかった。

そうして女工さんに茶道の手ほどきなどして、役にたっていた茶道具ですが・・

それから少したって、手放すハメになりました。

その頃、知り合いの本屋さんがツケでいいですよと言ってくれるので、
喜んだ父は、欲しい本があると、その場で買って、あとでお支払いするという事をしていたのですが。
(大半が仕事関連の本)
ある時、そのツケの金額が大きくなって、ちょっと払うのがシンドイ金額になりました。
そこで、茶道具を知り合いの洋裁学校を経営している方に譲ることにしたのです。

その方が茶道具を取りに来た日、私は家に居ました。
その方はリヤカーに茶道具をしっかりくくりつけて、歩き始めました。
通りに出て、曲がる前に振り返ると、小腰をかがめてニコニコ顔で挨拶されました。
玄関先で見送る父と並んで立っていた私は、
父の顔を振り仰ぎました。
その時、父の顔に浮かんでいた無念そうな表情は今も覚えています。

その後父は、本をツケで買うのは止めました。

青いみかん

2011-10-21 02:32:05 | 昔がたり
今日(20日・木)、
R君に買ってきてもらったみかん。

買ってきて、レジ袋から出してテーブルに置かれたとたんに手がのびて、
たてつづけに3、4個食べた。
美味しいな~
初物です。
少し前から店頭に並んでいたけど、まだ高かったしネ

こうして、まだ青い部分の残る初物のみかんを食べると、いつも思い出すことがある。

かつて私が子供の頃、運動会はもっと遅い時期に開催されていた。
私が5年生まで通った小学校では、毎年11月3日が運動会と決まっていた。
校門には、生垣の杉の木から摘み取った枝で埋めた、緑色の立派なアーチが立って、
「大運動会」の文字が飾られていた。
その頃、小学校・中学校の運動会は地域の一大イベントだった。
自分の子供が通っていない人も、お弁当とゴザを持っていそいそ出かけてきた。

運動会の前日、仕事から帰った母は、「明日のお弁当の材料買わなくちゃね」と買い物に出かけようとする。
外はもう暗いし、他の日なら付いていったりしないのだけど、
その日だけは「私も一緒に行く」と、くっついて歩いていく。

暗くなった道の先に、ポッと八百屋さんの灯りが見えている。
お使いを頼まれて、よく一人でも買いに来ている八百屋さんだ。
店に入ると、野菜をあれこれ選んでいる母の横で、
私は青いみかんを見ている。
濃いみどり色のこぶりのみかん。

母はみかんを見て、値段を見て、買わずに店を出る。

そして、歩き出すと、きまってこう言った。
「果物は旬が一番おいしいし、栄養もあるの」
私は、がっかりしていると覚られぬよう、さりげなく聞こえるようにと思いながら、
「うん」とか「そうだよね」とか答える。

その町はみかんの産地だったから、
ほんの少し経つと、いやというほどみかんを食べることになるのだ。
ちゃぶ台(オー、なつかしい)には、いつもカゴに盛ったみかんがのっていた。
冬の間、私達3きょうだいは順番にみかんの食べすぎでお腹をこわした。
お腹が痛いと言う私達に、母は一言「みかんの食べすぎ!顔が黄色くなってる」

夕飯前にお腹が空いているから、皮をむいて袋ごと口に放り込んで二口か三口で食べる。
それも皮が小さな山になるほど、たてつづけにたくさん食べていた。
お腹こわすのも無理ないね。

少し待てば、それほど食べることになるみかんなのだけど、
運動会の前のその日だけは、買って欲しかった。

運動会の日、お昼のお弁当のとき、近くで誰かがみかんの皮をむくと、
ツーンと青いみかんの香りがただよってくる。
お弁当を食べながら、「あ、みかんだ!」って、みれんがましくその香りを吸い込む。

お弁当の時間はにぎやか。
周りに座ったご近所さんから、「おすそ分け」と言いながら、
のり巻きや、おいなりさんや、お菓子や色んなものが差し出された。

母の作ったおにぎりはおいしかった!
私、何十年たっても、あんなおいしいおにぎりが作れない。

あの日、母は私が青いみかんを欲しがっていることが分かっていたし、
買ってやりたいと思ってもいただろう。
でも、貧乏所帯で思うにまかせない。(その頃は大半が貧乏所帯だった)
帰りの道で、何となく、そんな母の気持ちを感じていた。
だから、こうして、いつまでも覚えているのかな。

夏みかん(つづき)

2011-05-18 04:44:06 | 昔がたり
すっぱい夏みかんの話をもう少しだけ


その昔、すっぱい夏みかんを食べる時、
酸味がやわらぐと言って、大人たちは重曹をつけて食べていた。
小皿に入れた重曹を、みかんにチョンチョンとつけると、
つけたところにシュシュシュシュって白い泡がたつの。
あれって、何の化学変化だったの?!

重曹ってアルカリ性?
酸を中和するの?
何かすごいよネ、科学反応利用してみかん食べてるなんて。

重曹っていうと、今はもっぱら汚れ落しの効果が宣伝されていて、そのイメージが強いけど、
その頃はホットケーキを作る時にふくらし粉代わりに入れたりしていた。
(ホットケーキミックスは無かったから)

私はネ、夏みかんの実を袋からはずして、小鉢に入れてお砂糖をかけて食べるのが好きだった。
不器用で、実がなかなかうまくはずせない。
さかもげにみかんの汁がしみて痛い。
そうやって、苦労して1個分の夏みかんの実が小鉢に溜まると、
お砂糖を上からかけて、さあ、いただきます。にっこり!
甘酸っぱくて、「自分で作った豪華デザート」という気分!

今ごろの時期
筍の料理を始めると、母親は手ごろな皮を、表面のうぶげを包丁でこそげ取って「はい」と渡してくれた。
袋からはずした実を入れて三角にたたんだ竹の皮の角のところをチュバチュバ吸うと、
すっぱいみかんの汁が竹の皮の匂いと一緒に口に入ってくる。
しばらくして、開くと竹の皮の内側はうっすらピンク色に染まっていた。
それを見るのが楽しみ。
そして、少しつぶれた実を食べた。

東京では、梅干を竹の皮に包んで、同じようにしていたんだって。
友達と話していて、「えー、梅干~」とびっくり。
酸っぱそう~と思ったけど、
よく考えたら、夏みかんは梅干と同じくらい酸っぱかった、って事?

夏みかん

2011-05-17 02:17:35 | 昔がたり
夏みかん(愛媛産)


夏みかんでも、冬みかんでも、八朔でも、伊予柑でも、
和歌山産、静岡産、長崎産、熊本産、いろいろ並んだ中に、
「愛媛産」があれば、必ず愛媛産を買う。
愛媛県で生まれて、小学校5年生までを過ごしたから、愛媛びいき。
「みかんは愛媛が一番うまいんだイ!」と内心思っている。
(他の産地の方、ごめんなさい)

ひょろ長い半島の付け根にある、港町。
海と山に挟まれた小さな町。

近くのお寺の境内の奥から上り始めて、段々畑を過ぎてみかん山。
よく友達と「山行こう」と言って、ぶらぶら上っていった。

みかん畑の中の細い道を歩いていると、
時々夏みかんの木から落ちた実が目に入る。
黒々とした土に少しめり込んで、黄色いごつごつした実が、
ドスっと落ちた時の様子を思わせて座り込んでいる。

子供達の間で、誰が言い出したのか、「落ちてるみかんはもらってもいいんだヨ」て、
みんなして言い言いしてた。

みんな親達から畑に生っているものを採ってはいけないと、きびしく言われていた。

誰かが、親切なみかん農家の人に「落ちてる実はいいんだよ」と言って、みかんをもらったのかも知れない。
落ちている実はキズがついて売り物にならないから、拾ってもいいよって、言ってくれた人がいたのかも知れない。

とにかく私達は、「山のお散歩」の途中で、落っこちてる夏みかんを見つけると、
目をキラッと輝かせて、近づきました。
そして、「落ちてるのはもらっていいんだよねぇ」と相手にというより、
周り中に聞こえるような大きな声で言いました。
誰も居ない山の中だけど、そんな風に言って拾わないと、
何処かから突然「ドロボウ!」って人が出てきそうな気がしたから。

拾い上げてみたら、土についていた部分がくさっていて、がっかりする事もあるんだけどネ
落ちたばっかりのきれいな実を手に入れると、
大事そうに持って、しばらく歩いてから食べました。

土がついたところは手でこすってきれいにして、厚い固い皮にてこずりながらむきました。
食べる前に、むいた皮の内側の白いところで手をこすってきれいにします。
あれま、天然の「ウェットティッシュ」だったんだネあれは。

「すっぱーい」、「すっぱーい」と連呼しながら、分けっこして食べました。
どんなにすっぱくても、食べれる物を手に入れたというのは、
まるで海賊が宝でも手に入れたみたいな気分。
あんなに、すっぱかったのに、山を下りて来る頃には、二人して「おいしかったネ」なんて言い合ってる。

落ちてたみかんだったから、すっぱかったわけではなく、お店で買ったみかんもすっぱかった。あの頃は。
上の写真のようなオレンジ色ではなく、うすい黄色で、皮はごつごつして愛想がなかった。
今はもうすっぱい夏みかんにはお目にかかれないねぇ


母の日

2011-05-08 12:15:30 | 昔がたり
母の日が近づくと、毎年ではないけれど、ふっと思い出すことがあります。

ずっとずっと前の話。
幼稚園の先生をしていた母は、日曜日は仕事だったけど代わりに月曜がお休み。
月曜日は「今日はお母さんが居る」と、学校からウキウキして帰って来ました。

たぶん小学校2年生くらいだったと思う。
そんな月曜日。
大急ぎで帰ってくると、母は玄関の掃除をしていました。
開け放った玄関で、格子のガラス戸を拭いたり、掃き終わったタタキに水を打ったり。
私は、うれしいので何となく周りをウロウロしながら、あれこれ話しかけていました。

そんなとき、一瞬手を止め、外に目をやった母の口から、
「むごいことを」という言葉がもれました。
しぼり出すような、低い声だった。
母が目をやった方を見ると、クラスメートのM君が目に入った。
きつそうな半ズボンをはいたM君が、ポケットに手をつっこんで、少し背をかがめるようにして歩いていく。

その頃、母の日が近づくと、学校で紙でできたカーネーションを、いくらかのお小遣いを持っていって渡され、胸に付けていました。
そして、母を亡くした子には白いカーネーションが渡されたのです。

今、目の前を歩いていくM君の胸には、白いカーネーションが付けられていました。

その時の私は、そんな風に色を分けることに何も感じてはいなかった。
まだ幼くて、先生のすることに疑いをもつことなどなかった。
「ああ、そうなんだ」とカサカサ音のする赤いカーネーションを付けていた。

その日の事を思い出すこともなく、長い月日が経ったのだけど。
自分が母親になるような歳になって、鮮やかにその日の事がよみがえった。
その時には分からなかった母の気持ちや、M君のことが、やっと分かるような気がした。

母は女学校に入るか入らないかの歳で、半年くらいの間に、相次いで両親を失った。
あれ、女学校って幾つで入るのだろう。
小学校を卒業して入るのだから、今の中学生の歳かな。
女学校の寄宿舎に入った母は、夏休みだけはすでに結婚していた長姉の家に帰省したけれど、
短い冬休みや春休みは、寮に残っていたそうです。(旅費がもったいないので)
クラスメートが嬉しそうにお家へ帰っていくなか、
何人か帰らない人達がいて、寮に残って勉強していたそうです。

グチをこぼすという事が嫌いで、そんな物言いは、しなかったけれど。
子供の頃、私に向かって半ば独り言のように「お母さんを早くに亡くしたから、料理を教えてもらえなかった」と何度か言っていた。
奨学金で女学校から師範学校に進み、学校の先生になった母は、
寄宿舎→まかない付きの下宿と、料理を教えてもらうことのないまま結婚まで過ごしたから。

「むごいことを」
あの日、耳にした、たった一言。
その一言にこもっていた、
母のM君への強い同情。
そんな風に白いカーネーションを付けさせている世の中へのいきどおり。
そして、自分自身が味わってきた辛い思い。

そうした思いが、この言葉を、何十年も経った今でも、
情景と共に鮮やかに私に蘇らせている。

母はお花が大好きだったから
今日写した写真ではないけど、この写真貼り付けよう。

去年の9月に塩原に行った時に写したコスモス。
生家の庭にもコスモスが咲いていました。

バタークリームケーキ

2010-12-25 20:37:23 | 昔がたり
子供のころのクリスマス
クリスマスが1年で一番忙しい家業でした。
小学生くらいの時は手伝いを頼まれると、ふくれっ面してたりした。
よその家が楽しいクリスマスの団欒を楽しんでいるらしい夕べに何で!と思ってた。

25日までの色々の仕事を終えて、
26日の朝、両親の顔もほっとした表情で、ゆったりした時間。
朝食代わりによく食べてたのが、クリスマスケーキ
我が家は貧乏な家だったのだけど、
頂き物が色々ありました。
子供が3人居たからでしょうか、クリスマスケーキの頂き物が重なって、幾つも。
23日あたりからせっせと食べて、
26日の朝食はケーキ。
その頃のケーキはバタークリームでした。
今の生クリームと食感が全然ちがう。
もっとねっとりした感じで表面もツヤッとしていた。
デコレーションはクリームで作ったバラの花、
蕗の茎の砂糖漬けを斜め切りしたのが葉っぱ。
あと砂糖漬けのチェリーを輪切りにしたもの、上から銀色の粒々がパラパラ。

母親はクリームがダメで、
フォークでバラの花を掬い取り、別な皿へ。
表面のクリームもすべてそぎ落として別な皿へ。
(製造過程を逆回しで見ているみたい)
その別なお皿を「ちょうだい、ちょうだい」と言って、
何でこんなおいしい物を取っちゃうのだろうと、
不思議に思いながらペロペロ食べました。

う~ん、今、あのバタークリームのケーキを食べたら、どう感じるのかしらね。
思い出の中の味は、その時感じたまま変わらない。

花屋さんの店先で見つけた、ピンクのポインセチア

めずらしいけど、やっぱり赤い方がいいかナ