『天皇と東大』を未だに読んでいる最中で、そういえば「ゆとり教育」という言葉はどこかへ行ってしまったようだ。国民の祝日休日法なるものでは土曜日は休日になっている。だからゆとり教育で論理的思考を身につけさせよう。多様なもののとらえ方、多方面から考えよう、という教育が模索されたわけだが、結局「学力が落ちた」「教師はさぼっている」などという声に押され、週休二日のまま教える内容はどんどん増やされていく。
娘はゆとり教育で育った。息子は娘の使っていた教科書より分厚い教科書になっている。で、娘の方がバカかというとそうでもない。どっちもバカだ。はっきり言えることは、教育が子どもを宥め賺して褒めそやして育てているので、打たれ強い子どもなど育めない。「何でもクレーム社会」を改めないといけない。子どもが悪いことをしても「それは先生に怒られたから」というと、正面切って戦うのも疲れるので校長サイドが「なかったこと」にして、「次からなんとかしようね」となるわけだ。こっちのの方がいけない。
ゆとり教育は大歓迎である。教育システムより経済優先の大人の在り方が問われているはずだ。
明治10年代から洋学から国学、儒教へと逆シフトした近代日本の教育は、今でもそうだが、またぞろ「戦後民主主義教育」から「復古的教育勅語教育」へと逆進しているようだ。そもそも、国学は江戸後期、はたして幕府を援護しようとしたか、幕府の政策を批判する所から広まっていったか、とにかく、桜=日本を決定ずけた。江戸幕府の儒教は、朱子学である。国家が個人より先にある儒教で、「論語」とは趣が違う。
私は「戦後民主主義教育」の落胤だ。学生自治、主権在民、立憲君主制、平和外交、のびのび教育 が好きだ。両親は「復古的教育勅語教育」を受けている。勅語も暗記していたし、戦陣訓も暗記していた。だから私の中にも「天皇陛下、万歳!」という気持ちがないわけではない。そう言って死んでいった人達の一員だという意味で。
私は今上天皇にたいし尊崇の念を持っている。日本国憲法はすばらしいと思っている。日本国を愛している。
明治10年代に洋学でゆこうとしたものが、「幼学綱領」・・・一の国教を建立する 方向へと流れ「教育勅語」となり結実し、なぜ米国に占領されるまで日本の教育界に燦然と輝けたのかが不思議でならない。所謂天皇の神格化である。どうして人間が神になれたのか。西洋的、天賦人権論、物理生物学的に考えると人間を「神」にして形而上学も俗世間での通用も果たしてしまうことは不可能なので、国学と朱子学が登場するのだろうか。
今を知るには昔を学べ。
温故知新である。
