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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

漱石先生 7

2015年05月31日 | 文学・評論(現代・近代)


文学の世界は、人間とは何か、時代とは何かを自由に考える機会を我々に与えてくれる。作者が作品でいろんな世界を描いているが、価値観や人間関係等、読み手が自由に勝手に解釈してよい自由を与えてくれることが、文学最大の利点である。純文学が人類に与える恩恵だ。読者は心理学的考察、哲学的見解、社会学的見地、経済政治、生物学的と様々な方面から作者が描く架空設定の世界を切り刻んで、個人的感情や思考でもって解釈し分析出来るところが「文学」の良さなのである。
私は夏目漱石が好きだ。彼は明治を生きて大正で死んでいる。漱石先生に《こころ》という作品があり、僕は大好きなのだ。これは、最後、明治帝崩御時に「先生」も自殺するという展開で幕を引く。実際、明治帝崩御の時に乃木希典将軍は妻静子と共に殉死している。よく考えれば、江戸時代まで大名が死ねば、つまり主君が死ぬと近習達も殉死するという風習が生きていたわけだ。随分時代錯誤的封建的な感じがするが、たかだか150年前まで日本のエスタブリッシュメントは殉死を褒め称える感情、倫理的に真善美だと思考し、支配階級層は実際行動をしていたわけだ。
漱石「こころ」お嬢さんの名前は 静(しず)という。個人主義ということ、日本の文明開化は内発的ではなく、依然として英国をはじめとする欧州と思想文化で大きくその未熟さを日本に発見していた漱石は、静さんを道連れにはせずに、「先生」だけを殺した。しかも、天皇に殉死したわけではなく、明治時代の精神と共に殺させたようである。次世代の我々はこういったことをよく弁えた上で、現在の環境に対処する必要があろう。






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素敵な教科書に出会っていますか。

2015年04月29日 | 文学・評論(現代・近代)


 中学生3年生 国語の教科書に載っていた「握手」井上ひさし著を読んでめっちゃめちゃ感動してしまった。年を取って思うのだが、教科書ってバカにならない。僕たち大人は小学中学時代のことを忘却の彼方に置き忘れて現在の喧噪に巻き込まれている様だ。

 戦後、カトリックが運営した児童福祉施設で育つことになる井上氏の自伝的エピソードが基軸になっているわけだが、いやー松本清張の「黒の福音」(決して教科書には載らないが)もそうだが、人間の良心、正義感、信仰、生き方、死後の楽園、、、主題の深さは事欠かない。

 いずれにせよ、教科書はバカに出来ない。というよりこれは重要なのだ。だが、最近教科書まで画一化、一つの教えに唯一絶対本を!という動きが加速化している。もともと、教師なんて実は誰でも出来るはずだし、その教師が選ぶ、あるいは自ら作るテキストこそが教科書なんで、「私は吉田松陰」「私は毛沢東」を師と仰ぐ、、、学生というか弟子がいるってのが学問だから、、、唯一絶対にはならない。確かに小中学生に最大公約数的ないろんな要素をひとつかみだけしているテキストが編纂される必要があってもよかろう。だが、高校生ぐらいになるといろんな視点から学ぶ必要が出てくるので、全国一律学習効果を!なんて私には糞食らえ!である。

 カトリックの歴史も、南都北嶺の歴史も、異端と称して、保守派というか体制側というか今の主流は「自分達」の唯一絶対化をはかってきた。レビー・ストロースとかラカンとか僕は現象主義というか自己成長理論というか、文化は相対的なもので絶対的なものではない。とする考え方が良いと思っている。特に学問領域では、、、。

 政治経済でもそうで、「理想的状態」を目指すためには何が必要かを訴えていくしかないと思う。人間はなかなか「支配欲」から解放されないので実に難しいのだ、、、。


 困難は分割せよ。

焦ってはならぬ。問題を細かく割って一つ一つ地道に片付けてゆくのです。   と 小説の中でルロイ修道士は語ります。


 私はまだ天国へ行くのが恐い、、、




 祈 平和。







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小論文

2015年02月01日 | 文学・評論(現代・近代)

 小論文

 序破急。起承転結。よく受験文章道の骨組みとして用いられるものである。確かにこれも応用は利く。作文やエッセイ等には良いかも知れない。ポイントは、一般論の後に、転換、発想の転換、自分の主張の鮮明化が表れるとこだ。そして結論へと繋がるわけだ。しかしこれは「論文」の書き方にには適していないと思う。

 ① 主題の提示(仮説の提示)
 ② この主題に関して、一般に言われていること
 ③ 自分の主張の例証(実験、データの蓄積)
 ④ 自分の主題の客観的正当性の主張

 大袈裟なようだが、ようは、自分の主張は仮説であり、それに説得力をもたらすためには実験をして正しさを証明する必要がある。そこで導き出されたことを結論として述べるのだ。

・問題性・今日性・データが必要になる。

理数系的思考能力が文章を書くのには必須である。特に客観的に説得力を持たせる文章を書く場合には絶対に必要になる。

受験生のみなさん、健闘を祈ります。





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スティーブン・キング 

2014年07月07日 | 文学・評論(現代・近代)
All work and no play makes Jack a dull boy.

 このことわざなのか台詞なのかを初めて知ったのは、スティーブン・キング原作「シャイニング」の映画の中のワンシーンであった。監督キューブリックの鬼才ぶりといい、ジャック・ニコルスンの恐ろしい演技といい、私が一番「怖い」と思う内容の映画である。

 今の私たちお父さん世代や若者達にこの言葉は当てはまっているように思えてならない。

 「よく学び、よく遊べ」は行儀のよい意訳であって、
 「仕事ばっかで遊ばないとダルい奴になっちゃうぜ」ってのが僕にはぴったりくる。

 作家の旦那、ジャック・ニコルスンが毎日ずっとタイプライターに向かって文字を打っている。旦那の異変に気づき、危険を察知したが、何枚もたまっているペーパーに「どんな小説が書かれてあるのか」と手をつけて読んでみると、びっちりこのフレーズが埋められているではないか。

 何かが僕を追い詰める。そんなときってありませんか。夏目漱石もノイローゼ気味の時には誰かに追い詰められていると感じていたらしい。尾行されているとか、俺の目を悪意をもってみんなが見ているとかね。

 遊びましょう。皆さん。



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与太郎さんは俺だ!

2014年06月25日 | 文学・評論(現代・近代)
 与太郎さんが出て来る噺は人権上宜しくないとおっしゃる人が、ママおられる。一定理解はする。微妙な事柄で、誤解なきようお願いしたいが、私は演芸や芸能はこういうことを避けていては成り立たないと思っている。今や、花魁、乞食といったまぁ、人身売買、侮蔑につながるかもしれないお話や演目ってのが、伝承されない。一方で、今起きている激しい事件やイジメなど、そりゃあ凄い。痴呆症と言っていたのが認知症。分裂病が統合失調症。言葉を変えるわけだが、どうだろう。友人に言わせると、地名を変えるようなもんですわ…。

 言いたいことはこうだ。本質を見抜いていく知恵や教育を施せば、与太郎さんを心底バカにする輩は品位が低いと気づき、乞食話を心底理解すれば、人生の矛盾に気が付くのだが。そこのところが現代人に欠けているんじゃないだいだろうか。家庭において貧しくても義理人情を肌身で体感したり、飲んだくれの親父の辛さ、夫婦喧嘩の仲裁といった些細な人情味、を体感しない庶民が増えているから浪花節や落語の与太さんが理解できない。日本人が、おもてなし、好きなのは落語の人情を解する事が出来る人達だからだと思っている。因みに、上方落語に与太郎さんは出てこない。架空の与太さんは上方落語には登場しない。我々同様の「阿呆」となる。

 最近言葉使いの軽さが気になっている。彼等は落語、講談、文楽、歌舞伎、義太夫、能狂言といった日本古来の言霊及び風俗に触れているのかなぁ…と疑問を感じている。僕は日本を愛しているしこの国に生まれて幸福だと思っている。どうか日本を愛している人は日本の芸能に触れてもらいたい。貴賤の在り方、道化、人情、といった倫理観、情緒性が養われるはずである。
 
 





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