漱石先生を探る事は今の日本にとって大変重要だと思います。
さて、生育歴から
慶応3年 生後まもなく四谷の古道具商のもとに里子に出される。
この時代は生まれたてで里子に出される例は珍しくはない。私の父方の祖父も幼くして父(私にとっては曾祖父)に死なれ養子に出ている。漱石はどうも、姉たちが夜見世でぞんざいに扱われる弟を可哀想に感じて、実父母に様子を訴えて実家に戻して貰っている。元々「四十過ぎて生まれた子で、」母親が世間体をはばかったとか言われている。が、真実は分からない。
慶応4年1歳の時、名主塩原家へ養子に出される。父塩原昌之助(29)母 やす(29)四谷大宗寺門前(新宿二丁目)
3歳の時、種痘(天然痘予防接種)が原因で疱瘡(天然痘)にかかる。その後顔には生涯あばたが残って、多分嫌な想いをしたと思われる。
塩原は内藤新宿に引っ越し、妓楼「伊豆橋」の管理にあたる。ここは漱石の母千枝の上の姉、久 が経営していた。
名主階級であるが、落語なんかによくでくる。庄屋さん、家主さんといった感じかなぁと思っています。小地域を治める自治会長さん的存在で、ま、無宿人、博徒に睨みをきかせ、長屋の平安を守り、奉行所にはなにかれとなく報連相。
漱石の「寄席好き」ってのもこの生育歴から腑に落ちるものがあります。芸子さん、太鼓持ち、大道芸人とか間近に接していたと思われます。現代より直接的ですから、身体障害、性同一性障害、発達障害(現代では”障害”という用語使いにはなりますが、、、)という人たちは「芸人」家業をやってたんで、関わりはあったのかな、と。四谷、新宿界隈の名主ってどんな感じだったんでしょうね。ま、下町だったのかなぁ。お城の西側だしね。まだまだ未開発エリアだっと想像できます。江戸川練馬足立板橋世田谷なんざ江戸の範疇ではなかったと思いますし。でも、新政府になって「どうなるんだろう」と不安感一杯の階層だった事は事実でしょう。戸長という職務に移行されて行くんですが、時代の荒波にもまれて行くのは現代社会と同じです。
明治7年 養父が旧幕臣の寡婦 日根野かつ と通じ、夫婦仲が悪くなります。漱石7歳。結構漱石の心理に影響はあったと思います。

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