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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

必死に生きる

2016年11月25日 | 第四章 愛とゆるし


 私の考えでは、自分が赦されるとき私の罪悪感は多少とも軽減される。当たり前だと言われてしまいそうだが、自分が色々と悪いことをした自覚があると実に気分が落ちこむ。まともな感覚だと思うのだが、これをあまり感じなくなるときがある。それは「馴れ」た時におこる。

 人間は完璧ではないので悪いこともしてしまう。嘘をついたり、その場を誤魔化そうとしたり、それは色んなケースだ。

 負けん気がもっと強いといいなぁと思うことがしばしばで、ならば「悪いことをした」という感覚も減る気がしている。自分が嫌になるときもあるのだが、神仏に祈ることで救いを求めることもある。しかし、何か行動を起こさないと変化がないので、無理矢理に行動を起こすときがある。

 しかし、人生は不公平 なので善行を重ねたからといって幸せになるとは限らない。しかし、「幸福感」と「幸福」は違うので、そこの所ははき違えないように冷静になることが肝心である。神様は越えられない試練はお与えにはならない、という言葉を信じているので毎日一つ一つ積み重ねてゆくしかないのが実情である。彼岸と此岸。今は悩み多き煩悩の世に存在しているのだから。






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カリタスカウンセリング 106

2016年11月12日 | 第四章 愛とゆるし


ロジャーズ 命題18

個人が自分の感官的・内臓的経験の一切を知覚し、それを首尾一貫した統合されている1つの体系へと受容するならば、その時にはその個人は、必然的に人々をより一層理解したこととなり、かつ人々をそれぞれ独立した個人として一層受容していることになる



人間は、相手とともに生きている。それは好むと好まざるとに関わらず、誰かと一緒に生存している。だから「孤独」はない。しかし「孤立」はある。一人対集団。いじめられることもある。しっかりした自分を持つことで周囲を理解して行くことになる。

環境・加齢・遺伝という自分の意思ではどうやっても動かせない要因が人間にはあって、時にそれを変えようとしてきた歴史がある。秦の始皇帝も不老不死を望んだし、古来の権力者や現代の庶民までアンチエイジングに大わらわである。遺伝子組み換えや遺伝子治療、また、自分にとって住みよい環境作りに余念が無い。それは私とて同じ。そこで肝心なのは、例え独身であっても、「私」は一人じゃないって思えるかだ。

これから時代は激変する予感が私にはある。災害かも知れない、戦争かも知れない、自分の病気かも知れない。だが、その事件を1つずつ咀嚼して、解釈をあくまでも明るく保って生き抜きたいと思っている。他者を赦すことの困難さはよく分かる。私も心の中では「赦せないもの」がいくつかあるし、毎日の生活の中で「死んでしまえ」と呪うときもある。だが、そんな自分を赦すことにしている。そうしないとその人も赦すことが出来ないことに気がついたからだ。


我々は一人ではない。そして、「君子豹変す」なのだ。幾らでも機会はある。





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カリタスカウンセリング 98

2016年08月09日 | 第四章 愛とゆるし


愛と赦し

命題10

「いろいろの経験に結びつけられている諸価値や、自己構造の一部である諸価値は、ある場合には有機体によって直接的に経験される諸価値であり、ある場合には他人から投射され(INTROJECT)もしくは受け継がれるが、しかし、あたかも直接的に経験されたかのように歪めた形で知覚されるされるものである」


先般書いてあるSNSによる洗脳に近いこともこの命題で説明がつく。人の価値観は自分で修行・勉学・鍛錬によってだけ形成サルものにあらず。ということだ。
私も両親によって「人生観」、生き甲斐、倫理観等投射されてきたところは大きい。後に写真アルバムで見た風景を自分が直接体験したものであるかのように思い込んでいる場合もよくあることだ。もちろん誤った思い込みは多い。偏見や独断はその最たるものである。

昨日の夕方、家の裏庭方面より子どもの泣き声がしきりに聞こえた。何かしてお母さんがしかりつけたのだろうと想像した。昔私も母に怒られて半日閉め出されたこともある。ワンワン泣いていた。しかし、その子の泣き声を聞いているとなんだか悲しくなってくるのだ。これは私の年齢のせいもあるのかも知れない。可哀想になってきた。自分の場合も、隣のおばさんが「奥さん、もう中に入れたり~」とか、「内にはいっとき~おばちゃんがお母さんに話したげるから」とかいう隣人の救いの言葉を待っていた経験があるので、よっぽど出て行ってやろうかと思ったものだ。

 その子の場合、泣きながら「、、、ママ大好き、ママ大好きやから」というフレーズを挿入していた。で。私は胸が詰まってしまったのである。

 ママのことが好きだから僕のことを許して下さい。ごめんなさい。大好きなママ。

 これ以上に『愛と赦し』を象徴したフレーズがあろうや。

真夏の蝉が鳴きじゃくる灼熱の午後。僕は落涙した。







愛するが故に許しを請う必要が生まれてくるのだ。

日本人に迫る 8

2015年09月23日 | 第四章 愛とゆるし
文春9月号金田一秀穂氏と北山修氏の対談が掲載されており、「夕鶴」の話しが興味深かったので。

「見るなの禁止」約束を破ったのでつうは去って行った。見られた側が自らの醜さに耐えかねて姿を消す話しが多い、と。なるほど伊弉諾が黄泉の国で伊弉冉に追いかけられる話しも似ているか。で、日本人は儚くも潔く死ぬことを美しいと感じるというのだ。無様に人の世話になるぐらいなら死んだ方がましだと。

で、中途半端さが求められる、と。この考察は鋭い点を付いている気がする。成果や正解をすぐに求めすぎないことも大切なのかなと感じている。

潔く自分を滅ぼすことが善であり、美であるとする概念は近代での、戦陣訓、生きて虜囚の辱めを受けずに明確だ。桜の散り際を愛でる心情。腹切り。特攻。国家戦略として零戦だけではなく、回天やその他の特攻兵器を平気で生産していた精神構造は決して「甘え」だけでは説明できない。汚れと禊ぎ、幽玄美、侘び寂び、もののあはれ、恥の文化といった日本人の心的構造によってようやく分析可能となり、納得も出来るようだ。だが、潔く自分を滅することが綺麗だと感じることにも病的側面と健康的な面があることをしっかりと弁える必要がある。果たして戦陣訓や特攻が健康的だったのだろうか?ということを知性的に考察する必要が我々にはあると思う。

ま、日本人の良い点としても「潔さ」は発揮されるので、決して「過去」を全否定するつもりはない。腹切りも特攻も日本人の取ったその時々の決断だったわけだ。その真善美は未来の人類を明るく健やかにするために今後も検討を重ねていくべき課題だと思っている。

さて、今夜はラグビー、スコットランド戦。僕には結果がどうであれ楽しみしかない。わくわくドキドキである。





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なかなか眠れない

2015年06月14日 | 第四章 愛とゆるし


「The art of loving」フロム著 を読んでいて急に書きたくなった。数々の示唆を与えてくれる、エーリッヒ・フロムだが、どうも、今の我々は人間性までも「商品化」してしまって普通に生活している人が多いように思われる。要するに無自覚なのだ。自分は何でも知っているような風で、論理をねじ曲げていても平気の平左衛門で、他者を愛するということに無頓着な人が増えている。これは世界規模的に言える。日本に限ってはいない。イスラムのテロル集団に資金を提供する金持ちがいたり、東シナ海や尖閣、竹島を自分のクニのもんだと平気で占拠する方々、ま、日本に限った話しではない。

『愛は一つの対象に対してではなく、世界全体に人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性だ。』

今の世情を鑑みるにつけ「愛がない」と感じるのは私だけであろうか。

オルダス・ハックスリー
「個人が感情を持つと社会が揺らぐ」「今日の楽しみを明日に延ばすな。」
「昨日は誰もが幸福だ」 という警句も書かれていて大いに感じ入った次第。

過去しか信用できるものはない。将来のことで確実に分かっているのは「自分」は必ず死ぬということだ。孤立感を深めて不安にさいなまれて「裸の王様」になるのも自分だ。だが、ボスがこうなっていると大勢の部下は悲惨な目に遭う。だが、まぁ、殉死の風習が今も会社人間には残っているような気もする、、、。(^_^)まずい。




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