goo blog サービス終了のお知らせ 

威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

アンケート

2017年08月26日 | 第四章 愛とゆるし

アンケート

どの会社でもそうかも知れないが、顧客アンケートというものは一体なんだろうか。

顧客側は不満を書くのが大半なので建設的な意見というのはその結果を読むだけではなかなか生まれないそうである。マイナス評価から次の戦略を考えるわけだから、従業員に無理を強いる事になるのは必定である。「人は褒めて育てよ」という鉄則に反するのでo(^-^)
顧客側は各自の情報を吸い上げられているという意識はあまりないのかも知れない。こんなアンケートというのが流行りだした頃も、今も、事業者側は、部下、従業員の人事評価に活かしているのは間違いないが、初期の頃とはやや活かし方が違ってはいる、らしい。尤も、分析する側の尺度でどうとでもなるのでなんなのだが、初期の頃は上司の意向がかなり入り、評価の偏りは今より大きくなっていく傾向があったと、ある会社で人事を担当している友人は言っていた。

顧客側があまりにも勝手なことをすきに書くので、それを上司が主観的に取り上げる事が多く、客観比較が困難になり、面倒臭ささが分析の際に生じるんだそうだ。このアンケートは今ではもっぱら顧客側の情報を得る事に主眼があり、従業員の勤務評定に利用する重要度は減っているらしい。昔も今も上司が部下を直接評価する事を重要視しているようだ。最も業種間で多少の違いはあるようだが、大体そんなところのようだ。

人事にいる人は大概出世してい行く。というか、出世して行く人が人事畑を経験するといった方がいいのかも知れないが、この人事評価方法は、社会学、心理学、統計学、環境学、人間工学など色んな学問の理論とその臨床現場の具体的事例や経験値から色んな手段、方法が編み出されるようである。

見方を変えると面白くはある。他人を評価する事は楽しい。

しかし、私はいつも人事考課をされる側なので面白いと感じた事はない。しかし、取締役も人事考課はされているので、組織の中ではオーナー以外は皆面白くないはずだが、そこが人間のはかなさで、係長や課長でも「偉くなった」感が出てしまうのも仕方のないところである。

さて、皆さんの会社では如何でしょうか?








人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。




カリタスカウンセリング108

2017年08月18日 | 第四章 愛とゆるし

 現在、U先生の心理学の勉強で、論文を執筆中なのである。魂論文なのだが、10章に分かれて予めそのテーマに沿って書いてゆく。かなり厳しいテーマである。産業界、教育界、医学界と様々な社会で「カウンセリング理論」はかなり重要な位置を占めている。私が学んでいる理論は何よりも人間を大切に扱い、その依って立つところは「愛」なのである。人間の気持ちを大切にしましょうということだ。怒りや憎しみ。嫉妬や羨望と一杯「負」とされる感情があり、一見すると「愛」や友情といった概念と相反するように思われる。しかし、どんな事に嫉妬を感じるのか。どんな人を憎むのか、といったことに焦点を当ててみるとそこへの感情の傾き方や、関係性の取り方、現実の体験解釈といった事を分析すると、自分の「友愛」「性愛」「神への愛」といったプラスの感情処理性向が浮き出てくると教えてくれる。

 私がどんな事に怒りを感じ、どんな人を恨む傾向があるか。そんな事をゆっくりと分析するのは、非常にストレスが高じて疲れたときに、よく温泉の湯船に浸かってしたりする時がある。所謂「ストレス曲線」から「幸福曲線」へとプロセススケールを用いながら気持ちを変化させる過程を実践するわけだ。すると、知性化、退行、置き換え、抑制といった防衛機制を用いながら現実に対処して自己実現目指して歩んでいる自分を見つける事が出来るようになる。  なる筈なのだが、、、。


 さて、8月も最終週に入ってしまう。胃腸の調子がどうも良くない。残暑も厳しい。
皆さんもまた頑張りましょう。






人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。


暑いと思考がまとまらない

2017年08月13日 | 第四章 愛とゆるし


平気で「軍事力でやっつけるぞぉ」とか言い放つ某大統領。
辞任して心境を聞かれて「空です」と晴れやかに答える閣僚。
支持率が下がると「こんな人たちに負けるわけにいかないんです」とか言っていたのが、わけの分からない謝罪コメントをする、9条を変えようとしていながら原爆被災地ではスピーチが出来てしまう。

政治家は大変ですねぇ。

差別、戦争、をこの世からなくそうという努力をこそ政治家はしないといけないはず。人間ですから、カネや性的問題、その他、交通違反や不倫といった「聖人君子」ならしないこともするでしょう。人間は完全じゃないので。ま、「この●ゲー」とかも言ってしまうのではないでしょうか。


愛がない。 北朝鮮も何が目的で核ミサイルを撃ちたいのでしょうか。どうも、中国も日本もアメリカも目的がはっきりしないのです。日本国憲法を変える目的は何なのか。


2006年の教育基本法改定は、日本の教育理念を戦前に戻し、民主主義理念よりも愛国心重視に国家教育制度を変えていこうというものでした。で、教科道徳ができ、文科省のカリキュラム監視が小学校から大学まで非常にきっちりなされるようになってきた(書類は増える「記録を残すということ」カネは余分にかかる)

この流れのもとに、森友問題や加計学園、防衛日報問題を考えないと将来に何も繋がりません。

愛なきところに赦しもない。
憎悪で果たして何が生まれるのでしょう。


私は違いますが、今は皆、経済政策さえそこそこなら将来に借金を残そうが平気であり、言いたい事を言い放つ輩に賛同するという(大方憎しみをまき散らす言動になってしまう。正当派お笑いよりブラックお笑いのほうが胸がすくから。)傾向が強いですね。特に若者がそうです。おっさんがそういう風潮を作り上げている。これは教育再生機構、や教育再生会議が目指した形になっているんでしょうか。

産経、月刊HANADA、その他、右翼系及び「原理研」(国際勝共連合)なんかの論調ではよく「売国奴」という言葉がでます。何が売国なのか、難しいところですが、天皇に人権は不要という立場なのでしょうね。この辺がオカルトチックで僕はついて行けません。

左翼系はもう構造的一本化、同じように足並み揃える、という戦い方は出来なくなっていて、バラバラです。身勝手な人は右翼系より目立つのです。草の根とかいって一見するとものすごく無責任に見える。勝手連っていうものがもう死んでますからね。極左が存在していない感じがします。極右の方が見た目が怖い。ヘイトスピーチの行進に出会うと「怖い」でしょう。街宣車もそうですが、共産党の宣伝カーの方が優しくなっている。


私はどっちでもありませんし、どうでも良いのですが、リベラル、コンサーバティブのどっちだと聞かれるとリベラルでしょう。その根拠は、人間として当たり前の権利が持てていない天皇家の人々や、彼らの財産と国民の関係、これこそが「内発的発展」を日本民族が遂げる過程に避けては通れないと思っているからです。ごく当たり前の感情だし、思考だと思うのですが、きっとリベラルなんでしょう。

誤解無きよう、天皇制を否定しているのではありません。

テーマは「愛とゆるし」でした。

愛がなければ赦しは存在しないのです。





やっぱりはっきり言いましょう

2017年08月08日 | 第四章 愛とゆるし



「神様は準備した者の上にだけ奇跡を起こして下さる」

 どうもただ祈るだけとか、願っていても、物事は適わないらしい。

 もっと痩せたい。背が高くなりたい。小さい顔になりたい。良い性格になりたい。とかいろいろと無い物ねだりを人間ていう生き物はするものだ。親が子どもに期待したり、前もってレールを引いてしまったりする。

 しかし、こんな短歌からどんな事を思われるでしょうか?

『人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ われの如けむ』

 釈迢空氏が、最愛の養子さんが硫黄島で玉砕し戦死した事実を受けて、読んだ哀悼極まる歌である。一体、神がどんな言葉をかけるのか。私のような言葉をかけるのでしょうか?という気持ち。折口信夫は同性愛だとか何だとかで、戦前の事だから嫌な思いは随分したと思う。今でこそLGBT、といって多少は人権教育の広まりによって一般市民権は得つつあるが、それでも根深い差別感情は強い。

 折口信夫はご存じのように「日本の神」は訪問神と解釈した。そして、祟り、魂はある、という立場に立つ愛国者であったと私は思うのだ。愛国とか憂国とかいって、「愛」をちっぽけなものにするつもりは毛頭ない。なぜなら、愛を小さくして解釈すると碌な事にはならない。注意深く考察を進める必要があるからだ。

 しかし、多くの命は戦争で失われる。犯罪でも交通事故でも人はなくなる。病気でも。果たして、準備した者の上にだけ奇跡を起こして下さる というわけで、日々信心深くある人々の上には「キセキ」が起きるのだろうか???

 上記の例だと、「生き返る」のが奇跡なのだろう。こういう意味で日々祈り捧げて準備を怠りなく行い、死後の復活を待つ。永遠の命を信じる。あなたは出来ますか。自分にとって重たい問いかけが、この8月15日にはやって来ます。皆さんも、この国の行く末、世界の未来を想像してみて下さい。それから過去に学んで現在に生かして行こうではありませんか。





人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。




台風である

2017年08月07日 | 第四章 愛とゆるし


愛について皆さんはどんな事を思い浮かべるでしょうか。

何でもそうですが、表現手段から、その手段からどう感じ取るか、そしてどう実践するか。例えば、人間が芸術に惹かれて行くのはなぜか。

音楽・絵画・工芸品・書・詩歌・小説といった表現芸術は「愛」を表すために発達してきたと言っても過言ではない。そして私達はそういった芸術を作りたいと言う衝動を大概の人は持ちます。音痴だ、デッサンが下手だ、かっこわるい、字が汚い等自分が世間の常識と勝手に定めたり、あるいは他人から言われたりして傷ついて、芸術は苦手なんだよなぁ、と決め込んでしまうわけです。しかし、人は必ず、カラオケだったり、謡曲だったり、落語だったり、何かしら芸術活動を実践する事が好きなのです。僕も弾けないのにフォークギターを持っています。弦は錆びています(^-^;

この気持ちはおそらく 「愛」 の表出ではないかというのが私の仮説です。伝えたい。アピールしたいという衝動。大事な精神力動です。

ですから、小説や詩歌、絵画、音楽、芸能等から、様々な「真善美」が表現され、また表現しているている所の「愛」の姿や影を感じ取る喜びに、私は、多くの人々が気が付いて欲しいのです。

だから、愛が感じ取れない芸術はダメです。タダに哀しいだけ、悲惨なだけ、誰か(人間)を賛美しているだけのもの、わかりやすい例で言うと、人間の銅像。あんなのはダメですよ。それなりに記念品としての価値はありますが、普遍的な芸術作品となり得るためにはその形象物に「愛」が感じ取れるかどうか、だと思います。

ある銅像に「愛」を感じて拝む人がいます。私も東大寺の、薬師寺の、仏像を拝む事がある。上野の西郷像を拝みたいと思う時もあるかも知れない。ただ、「信じて見えなくなるもの」「信じて見えてくるもの」の健全・不健全を測りながら、『愛』とは何かを見据えていきたいと思います。






人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。