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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

どうやってやるせなさを改善するのか

2018年06月24日 | 第七章 光と復活体



逆転の発想、とかよく成功の秘訣として述べられる。逆境を力に変えるとかいうものだ。
果たしてそんなことが本当にできるのだろうか?

経営論でもはやりの考え方だ。しかし、「失敗なんかせずに成功だけするのが良い」のは言を俟たない。常勝軍団はあり得ないので人はみんな敗北からしか学べないとかいうわけだ。成功例からも沢山学ぶことはできる。

人間は数々のミスから、自分が復活するために色んな処方箋を作り上げてきた。その例は大いに参考にする必要がある。

私は「起きてもいないことを予測して、今からあれこれと心配して不安を強める傾向にある」ようだ。非常に考え物である。これも「自分」の一端だが実は非常に鬱陶しい。すぐに将来への資金、親の介護、に不安を感じてしまう。率直に言ってこの2点だけである。

・親の介護費用と自分の老後資金

若い頃、お金のことなど気にもしなかったのはどうしてだろうか?今になると不思議である。

逆境を力に変える。嫌なことに出会うが、それを淡々とこなす能力。周囲を見渡して現実吟味力を発揮して、自分の快楽原則との調整を上手くとる。気分の障害とも上手に付き合って無理をせず、感情を表出して、自分がやりたかったことを見つめ直して人生を進めてゆく。しかし、なにがしかの希望を胸に抱いて生きていないとますますやりきれなくはなってしまう。


実梅落ち漬けることなく安息日   自作






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今の気分

2018年06月14日 | 第七章 光と復活体

生前も死後も泉へ水飲みに   中村苑子

この俳句に触発されました。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13~14)

このフレーズには「希望」があります。そしてそれは枯れることのない、永遠の復活。伐たれて、地に伏しても、また必ず立ち上がる。すぐにでなくて良いのです。じりじりと、ジワジワと。私はうつ病からの復活をゆっくりとなしえました。今でも月曜日や雨の日は気分が沈み込みます。でも、死後の世界でも「泉」から湧き出る命の水を飲み続けることができたら素敵だと思うんですよね。

だいたい私が嫌な気分になるのは、人間関係の躓きから。勿論自分の自尊心や漠然とした将来への不安感から沈みこむケースがほとんどです。しかし、暗闇に沈んでいても、自分の世界に光を照らし復活を遂げる。そんな状況をイメージして明日も乗り切ろうと思っています。





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長谷川眞里子さんの本を読んで

2018年04月13日 | 第七章 光と復活体

生存競争に勝つためには

皆さんは実に数々の困難を乗り越えて人生の舞台に立っています。日照時間を自然と感知して、春になると「生き生きして」日照時間が短くなってくる秋口にくるとなんだか寂しくなりますよね。非常に普通の生物的働きのように思います。マナブはまねる。どうも人間だけではなくて、鳥もそうらしい。美しく囀る素質があるにもかかわらず、複雑に美しく囀る大人の声を聞かないで成長した鳥は、美しく鳴けないのだそうだ。つまり「マナブはまねる」で、良いものをイメージしないと自分も一流になれないってわけである。

生存するためには日々マナブ必要があると思っている。何でもそうだが、あるジャンルをマスターしたとき、選択の自由を手に入れることができたことになる。「する」自由と「しない」自由である。例えば、ピアノが弾けるようになった人は、絶対ピアノを弾くような場面に遭遇したときに当然弾くことができる。一方学んでいないと弾くことはできない。ピアノを弾いても弾かなくても良いとき、弾ける人は選択が2つある。つまり「する」自由と「しない」自由である。だが、ピアノを習得していないと、選択はできない。なぜなら弾けないのだから。一つでも多く「する」自由と「しない」自由を持っている人は「幅の大きい人」になるだろう。

こうなって初めて人間は成長もできる気がする。一口に、再生だといか復活だとかといって、スランプになった人がまた活気を得られるようになったことを賞賛することが多いが、再生を為し遂げる人っていうのは実に多くの屈辱に耐えている。また鍛錬を積んで成長して蘇生して来るわけだ。そして何らかの夢や希望に導かれてもいる。人によってその夢や希望は違うが、一度失敗したからといってそのまま死に絶えているのもまた悔しい。








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復活の記念として

2018年04月08日 | 第七章 光と復活体


復活祭ミサ

今年はカトリック教会の復活祭のミサに与った。
キリスト教でいう復活祭は、春分の日を越えて迎える満月の日を過ぎた次の日曜日?でよかったかなぁ、ちょっとあやふやであるが、復活の日は年によって異なっている。もともとクリスマスの祭日も年によって違っていたようで、事ほど左様に暦というのは祭祀・政治には必須のものであったようだ。というか気象を操る者こそが神より統治権を附託された存在だった気がする。ま、それはさておき、

神父さんのお話が私には大変良かった。そこから私はいろんなインスピレーションを受けた。誰だって失敗したり、立ち上がれないほどの衝撃を受けたりしながら、また暫く休んだ後に立ち上がり歩み出すわけだ。神父さんはカトリックの信仰の重要な部分として基督の道行きと三日後の復活を信じることを力説しておられたのだ。

私自身うつ病からの復活は実にこれからもずっと心の中に記憶を刻んで日々の営みへの感謝と思い、そして人生への意味付けとして行きたいと思っているので大変共感出来た次第。

今年も自分なりに、真実・友愛・救済の精神を噛みしめつつ、目の前の諸問題に立ち向かおうと決めた。良き4月1日であった。





明るいつもりなんだけどなぁ

2018年01月07日 | 第七章 光と復活体


 皆さんは冒頭の写真をご存じだろうか。

日本のマスコミはローマ法王がこの写真を広めるようにと言っていると結構大々的に報道したが、欧州のマスコミではそれほどでもなさそうだ。

世間は矛盾に満ちている。あるいは混沌としたことばかりだといってもよいかも知れない。法王はそこに秩序をもたらそうとアプローチしている気がする。

この写真を見て何を感じるかはきっと人それぞれだと思う。背負われている赤ちゃんはもう死んでいると解釈する人もいよう。また、こういう風景、例えば赤ちゃんをおんぶしながら買い物をしているお母さん。その背中の赤ちゃんは首を後ろにだらんと下げて眠っている。「あれ、目覚めたら首痛いだろうなぁ」「俺にもあんな時があって、首を下げていた気がする」「あかちゃんって、頸椎の関節柔らかいんだなぁ」とかいうように。

この写真から何かを解釈して欲しいのだ。イメージしてと法王は言っているようだ。直立不動で立つはげ頭の少年の目は「希望に輝いている」「無我の境地」「暗くはない」など。


光と復活体



新年から真面目な話のようだが、そうでもない。悲惨な現状は引き起こさないに限るのだ。なぜ同じ失敗をくり返そうとするのか?見栄や自我、虚栄心、格好良さ、もう勇みあしにはこりごりだ。そんな目を少年はしていて、背中の赤ちゃんは何も分からずに深い眠りにあると解釈したい。








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