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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

忠誠心

2019年10月06日 | 第七章 光と復活体


忠誠心


 人間は成長を果たす過程の中で、師匠、とか人生の師に出会うものである。出会わない人は不幸だといえよう。誰しも、自分の人生モデルとする尊敬する先人と、芸術の世界を通したり、実際に出会ったりしてゆくものである。

 私にも敬愛する先輩が多くいる。父親も尊敬の対象となっている。

 人はその様な自分が敬愛する人物の言動や行いに影響を受けて、そうありたい、また、そこから発展した思考や行動をめざすようになるのではないだろうか。

 アイデンティティーを形成したりするにもこの事は影響力が大きい。

 自分や尊敬をする人物への忠誠心は誰もが持ってしまうものである。だが、間違った忠誠心を持ってしまうと、一気に自己は混乱する。間違えた人を尊敬しないようにしてもらいたいものである。







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自発性

2019年07月06日 | 第七章 光と復活体

spontaneous

という単語との初めての出会いは、大学受験の単語帳だったかもしれないが、「自発的」っていう意味が分からなかった。おそらくだが、大概の日本人はこの自発的に行為するっていう意味合いが実感としては掴めていないだろう。

日本人は周りの空気感を読んで忖度して行動するから、「自発性」という感覚は一生分からないのではないだろうか。飲食店に入っても、「俺はこれ」っとすぐに決められる人は少ないと思われる。大概が迷う。そして、別に確固たる目的があってその店に入ったのでなければ絶対にまわりに合わせてしまうはずである。日本人の美徳、自我を押し通さない、という観点もあるかも知れないが、これは明らかな「自発性」の欠如である。と私には思えるのだ。

人生には様々な目的を持って望むのが普通である。目的なき人生は、生き甲斐の喪失と同じでむなしいものだ。老若男女それぞれが目的を見失っていたり、もとから無いという場合もあろう。そんな中でも、人生を自発的に楽しんで生き延びてもらいたいと思うのであるが、如何であろうか。





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期待を捨てると楽になれる

2019年06月30日 | 第七章 光と復活体

子どもに期待を持ってしまうものですよね、親ってね。私もそうです。私も期待されていたんですがね。(^_^)

自分にも過剰な期待を持って生きていますよね。そんなことにふと気づかされる瞬間が最近ありました。

ふとした会話から曇っていた気分がぱっと開かれることもよくあることですよね。

先日友達と電話していて、「お前、確かにお父さんの一人暮らしはあるだろうけど、息子も大学生だし、娘も成人しているし、奥さんは働いているし、何も不安なんてないじゃないか」と言われた瞬間でした。気持ちがすーっと楽になったのです。

そうだ、そうだ。気楽にいこうぜ。もう後何を望んでいるんだ?出世か?お金か?名誉か?ってね。ふとした切っ掛けで気持ちが楽になることってありますよね。人間「欲」には切りがありません。どこで吹っ切るのか。それも人それぞれですが、明るい希望が見えてくるようなら現実に妥協したっていいのでは?理想ばかり高く追い求めても無理なものは無理なのではないでしょうか。勿論、理想があればそちらの方向へ努力はするべきですが、それもホドホドがいい気がします。

私は周囲から「理想が高い」とよく言われるので、この辺で修正して残りの人生を楽しんでゆきたいと感じています。





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自分に気づくのはよいことだ

2018年12月25日 | 第七章 光と復活体


クリスマスのミサ


 24日は家族でXmasミサに与った。清々しい気持ちになった。何よりも神様は平和を私たちにお与えになる。ありがたいことではないだろうか。積極的に未来志向で平安を掴むべく日夜我々も努力を重ねて行きたいと思う。

 私は、怒りの感情処理が苦手である。何時までもある一つのことをそれに拘って、くよくよしたり、イライラしてみたりするわけだ。

「不安」と「恐怖」に対して私が陥るのは、

〔医〕つまらない考えや感情などが頭にこびりついて、抑えようとしても不可能な症状。
「強迫」である。漸く分かったのだが、私が感情処理が苦手なのは、実は苦手なのではなく、「強迫」が引き起こされているということに気づかされた。これは、名医である、M先生のカウンセリングを受けているときに認知した。非常に将来に対する光を見いだした瞬間であった。

 これは、私が社会的信用を得る一つの理由でもあるし、また、こうやって「強迫」で自分を防衛しているわけだから、実はよいことだと思う必要がある。


 こうして、また自分に対する理解が深まるのはいいことだと思っている。後何年生きられるか分からないが、こういう自己理解が進むと気分が楽になるからよいと思う。








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物事にはよい面とわるい面がある

2018年12月15日 | 第七章 光と復活体


ネット社会

些末なことだが、先日娘が携帯を変更したいと言ったので、確か何たらパックといって、主たる契約主が僕なので、僕の免許証とか要らないのかなぁと思って、ドコモのHPから検索しようと、自分のスマホで検索をやり出したのが、、、。


目当ての情報にたどり着かない。その間、不要な、記憶にも残らない(誰かには残るのかも)広告とか、本当にウザい。そこをかっ飛ばして必要な情報を探す。ほとほと呆れて、マイショップの電話番号を検索しようと切り替えた。グーグルで店舗名を打ち込んだ方が早いのに、なぜか腹が立ち、今開けているドコモのHPから検索するも、これもまた探し出せない。漸く探し出したが、定休日だった。


これは、実は笑えない冗談だ。

何が便利なのだろうか。年寄りには到底ついてはいけない。


しかし、ここに光を見たいと思う。(eo光と言うではないか(^_^))実際に足を動かさなくてよくなっている。昔は歩いて京都、奈良まで旅をした。たいへんな時間がかかる。それが今は時間は滅法かからなくなっている。そして、ネットの世界では瞬時にその場の動画や静止画像が見られて、疑似体験はすぐにできてしまう。大変便利になったし、時間を有効活用できてしまう。ここに光を見ることはできないだろうか。

カジノ建設、辺野古基地建設、森友問題取材のNHK記者の左遷、等々カジノができる。辺野古に基地ができる、となってもそこにまた光を見ることはできないだろうか。もし私が明日の命がないよと宣告されても、また復活できると信じることはできないだろうか?


結構裏切られ続けてきた人生でもあるので、「なんとかなる」とは思ってはいるが、変な人たちとは極力付き合いたくはない、と感じる。





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