地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

塩の道を歩く⑥(資料・写真)

2013年05月19日 |    ・塩の道資料


塩尻 常光寺のシャクナゲ


松本 玄向寺のボタン

塩の道を歩く⑥ 見る所  

日程 平成25516日(木)~18日(土)  

新緑の三州街道を北上、 

小野宿から日本海、太平洋の分水嶺、善知鳥(うとう)峠を越え、
                       
塩尻、松本へ
                                     
塩の道、南塩(みなみじおルートの最終回。

5月16日(木)

新宿高速バスターミナル(新宿駅西口)発 8:30  辰野着11:36 
※切符購入済み
※バスターミナルに、8時00頃集合(朝食は各自取る)

辰野PAより、JR辰野駅まで直線距離で約2Km、時間確認後昼食。
JR中央本線
辰野駅発12:47  小野駅着12:57 

21.小野宿 
      辰野町は長野県のほぼ中央にある塩尻市の南に位置し、塩尻を起点に南に向う三州街道が伊那谷に入って最初の宿場で、この街道中最も昔の面影を残している。
小野の地は伊那郡、筑魔郡、諏訪郡の接点で、中世末よりその帰属について常に紛争が絶えなかった。豊臣秀吉の支配下となり、領主は伊那郡は飯田の毛利秀頼、筑摩郡は松本の石川数正となったが、小野の地の帰属については依然紛争が続いていた。そこで秀吉は天正19年(1591)小野盆地の中央部での分割の裁定を下し、北方(北小野)を松本の石川氏所領に、南方(南小野)を飯田の毛利氏所領とした。それ以後現在までこの状況は続いているのである。

【小野宿(ウィキペディアより)

小野宿のある小野地区は古くから松本諏訪地方伊那谷との境界であり、天正19年(1592年)の領有権争いのときに豊臣秀吉の裁定により中央で真っ二つに分割されて以来、現在も辰野町小野(伊那郡)、塩尻市北小野(筑摩郡)に分かれたままである。
初期中山道は西の牛首峠を越えて贄川宿、東へは小野峠を越えて下諏訪宿へと続き、三州街道は北の善知鳥峠を越えて塩尻宿、南は川沿いに下って宮木宿へと続いていた。小野宿は両街道の交点として栄えたが、初期中山道は十数年で小野宿を迂回する塩尻宿経由のルートに変更された。

現在は国道153号沿いに小野宿問屋をはじめとする間口の広い重厚な造りの家々が軒を連ねているのが見られる。塩尻市・辰野町の行政界付近には国道をまたぐ大鳥居がある。北小野地区にある信濃国二之宮小野神社矢彦神社も両小野分割時に小野神社が北、矢彦神社が南に分割されており、矢彦神社は辰野町の飛び地となっている。

小野神社と矢彦神社

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/mieru/ono.htm

小野・矢彦両社境論争
(前略) 天正十九年に、南・北両小野村分割された以降より境界紛争が発生しているのは、両小野村分割に当たり、小野神社社叢を南方・北方に分割し、南側を八彦(※矢彦)神社、北側を小野神社とした。分割に当たり小野神社の最古の信仰の中心であった御左口神の石棒と、霊魂崇拝の若宮及び神代鉾一本を八彦神社へ譲渡した事に要因があるのである。

小野神社矢彦神社は、

旧三州街道(国道153号)沿い、塩尻市と辰野町の境に並んである。辰野町側が矢彦神社、塩尻市側が小野神社である。両社域36000平方米の森には、杉・檜・サワラ・モミなどの針葉樹、欅・栗・楓・ミズナラ・コブシ・銀杏などの針葉樹の混合林。草木あわせて150種。古代からの天然林が残っている。共に信濃の国二之宮・上伊那54ヶ村の総鎮守として由緒ある神社である。

【矢彦神社】

       

【小野神社】

【善知鳥(うとう)
善知鳥(うとう)峠. 日本海、太平洋の分水嶺。塩尻市と辰野町を結ぶ三州街道にある。善知鳥峠は、古くから伊那谷と松本平とを結ぶ重要な道路で、中馬による物資の交流や善光寺参り等、大変にぎわった。

 


リンゴの花

常光寺
上西条地区にある真言宗の古刹である。応永年間法印恵覚によって中興され、文明4年廃寺となった。寛文9年法印実清が高野山から当地に来山し法流を継ぎ、今日にいたる。寺院背後の飯綱山から東に延びる尾根には飯綱権現を祀る祠がある。約2000本のシャクナゲや約300本のアジサイが咲き誇るころの風情は、また格別である。

      

 
しゃくなげの花 綺麗なものだ。 

泊まり 田川浦温泉 (みどり湖畔) Tel 0263-56-2567 
夕食は料金をねぎったため、期待していなかったが、結構サービスしてくれた。

        

5月17日(金)

 
早朝散歩はみどり湖1周


旅館の中庭に咲くあやめ。年2回、秋にも咲くそうだ。

 


少しだけ水芭蕉が咲き残っていた。

22.塩尻宿(中山道では、江戸から30番目の宿場)
       平成20年、我々が中山道を歩いた時通った道。三州街道と重なっているみたいだ。ザッと見 
       ている。歩道がなく危険、注意!?

        

【永福寺】
立派な楼門、本堂 朝日観音堂(茅葺屋根)・・・木曽義仲の子孫義人豊が義仲供養のため開山。建物は二代立川和四郎内匠富昌の再建(山車彫刻で名を馳せた。初代富棟は諏訪大社秋宮の総建築を任される)

   

                       

小野家
中山道塩尻宿に残る旅篭屋。道路に面した総二階建の主屋のうしろに土蔵造の文庫が建つ。幕末における宿場の雰囲気を示す好例である。

堀内家住宅
木造平屋建て、本棟造り(切妻、妻入り)、板葺、桁行き10間、梁間10間、雀おどりと呼ばれる棟飾りが特徴的。大型の本棟造り住宅として貴重な存在で昭和48年に国指定重要文化財に指定されている。

【下大門交差点】
中山道と松本街道(塩の道)の追分・・・静岡や新潟からの塩を運んだ、終着点が塩尻。敵に塩を贈る」(川中島の合戦で、武田軍最大の戦力を持っていた高坂弾正は、双方戦死者8000とも言われる戦死者を敵味方関係なく手厚く葬ったそうな。今川、北条との開戦で、塩の搬入を禁止され、甲斐、信濃、上野の民は非常に困った。・・)

JR篠ノ井線  駅についてから決める。
塩尻駅発     村井駅着    牛伏寺(ごふくじ)までタクシーで約20分 

牛伏寺(ごふくじ)

牛伏寺の創建は聖徳太子が自ら十一面観音菩薩像を彫り込み祠を建立した事が始まりと伝えられている。(古くは鉢伏山の山頂に牛伏権現が祀っていた事から自然信仰や山岳信仰が盛んだった場所だったと考えられている。)。当初は普賢院と称していたが天平勝宝7年(755)に唐の玄宗皇帝の使者が大般経600巻を善光寺に奉納の途中、当地で経を運んでいた2頭の牛が倒れた為、寺号を牛伏寺と改称した。その後、建保3年(1215)に小二郎親衡が蓬堂から堂平に移し、さらに天文3年(1534)に憲渟が現在地に移っている。牛伏寺は歴代領主からも庇護され寺運が隆盛し江戸時代には50石の寺領が安堵されていた。慶長17年(1612)と寛政8年(1798)の2度大きな火災があり多くの建物や寺宝、記録などが粉塵に帰したがその都度再興されている。寺宝も多く数多くの文化財を有している。信濃三十三番中第二十七番札所。

 

 

                         

                    

時間を見て路線バスを利用。バス停内田線「寿台東口」松本方面へ約1時間に1本。 

若宮八幡神社

案内板によると「 この社殿はもと松本城本丸の大堀の中の島に祀られた松本城鎮守守若宮八幡社の社殿であったが寛文10年(1670)にこの地に移されたものである。社殿は一間社流れ造りの簡素なものであるが室町時代の様式をよく残している。城内鎮座の社殿の中で江戸時代以前のものは全国的にみても他に類例がないので、小規模な社殿ではあるがその価値は高い。 松本市教育委員会 」とある。若宮八幡社社殿は昭和28年に重要文化財に指定されている。


筑摩(つかま)神社】
今よりおよそ1200年前、桓武天皇の御代に八面大王と呼ばれる鬼のような鬼人が信濃の国安曇郡有明村に住んでおり、近隣の村人達に危害を加えていた。桓武天皇は坂の上の田村麿にこの八面大王を征伐するように命ぜられた。
田村麿は、京都の岩清水八幡宮に21日間参籠して祈願したところ、信濃の国の筑摩の国府の里に八幡宮を祀れば賊の平定が成就するとの霊験を受け、岩清水八幡宮を御分身しはるばる信濃の国に奉持。現在の筑摩の地に八幡宮を祀った。これが筑摩八幡宮の起因という。


泊まり スーパーホテル松本駅前 Tel 0263-37-9000

5月18日(土)

玄向寺
信州松本、日本アルプスを望む女鳥羽山のふもとに“ぼたんの寺”として有名。
同寺は、永禄4年(1561)長誉上人により開創され、江戸時代に松本城主水野家が廟所をかまえるにあたり「玄向寺」と改められ、現在の基礎が作られた。

               


左側の中央の高い山は、常念岳 

【明智学校】

【深志神社】

松本城
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

高速バス「松本線」
松本バスターミナル発 1420   新宿駅西口着1732(切符購入済み)

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【主な費用】
(交通費)
新宿―辰野(中央道高速バス:富士急バス)   3,180円
松本―新宿(松本線:京王バス)                  3,400円
(宿 泊)
田川浦温泉旅館(1泊2食付き)                  6,500円
スーパーホテル松本駅前(1泊朝食付)           4,480円

【今回の旅】 
1日目 晴れ  最高の日和   17390歩   13.04Km
2日目 晴れ    同       30760歩   23.07Km
3日目 晴れ    同       19796歩   14.84Km 

今回の旅は「花シリーズ」。また、牛伏寺を始め規模の大きさや歴史に感動。
北アルプスの素晴らしさにも感激。塩の道南ルート最終回、満足の旅だった。       

                           

今後のスケジュール

北塩(きたじお)ルートの出発点は松本宿。越後・糸魚川に向かう。(千国街道)
出発は今秋か来春か。

千国街道「塩の道」
千国街道はまたの名を「塩の道」といわれ、糸魚川から松本城下まで約30里(120km)を結んでいました。また、信州側で「糸魚川街道」、越後側で「松本街道」とも呼ばれていました。
「塩の道」と呼ばれるようになったのは、戦国時代、上杉謙信がこの道を経て、仇敵武田信玄に塩を送ったという「義塩」の有名な故事によるものです。もう一つこの道が「塩の道」と呼ばれたゆえんは、松本藩が他からの塩の購入を禁止し、「北塩」といって糸魚川から千国街道経由のみ許可したため、日本海から塩を積んだ牛馬やボッカと呼ばれる人たちが盛んに行き交いしたからです。
「塩の道」は、生活物資運搬のための道として明治の時代まで続きました。

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