地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

「塩の道」を歩く <1>

2012年04月14日 |   塩の道を歩く

信州に海はない。信州では昔、漬物や味噌は命の綱だった。それらを作るために使う大量の「塩」は、太平洋側と日本海側から入ってきた。
日本海側からは、主に瀬戸内海で作られた塩が、糸魚川から千国街道(ちくにかいどう)を通って松本へ入ってきた。また、一部は信濃川を遡行して長野、上田、佐久盆地へ運ばれたり、直江津からのルートもあったという。
太平洋側から信州に入ってくるルートはいくつもあった。西は伊勢湾に注ぐ木曽川、三河湾に注ぐ矢作川(やはぎがわ)、駿河湾に注ぐ富士川、さらに東は利根川を遡って上流の倉賀野に陸揚げされて信州に入ってくるルートと多様だ。 
日本海側から入ってくる塩を総称して北塩(きたじお)、太平洋側からの塩を南塩(みなみじお)と呼んでいたそうだ。
今回の街道歩きのルートは、三河湾に注ぐ矢作川を遡り信州に入るルートを選択した。太平洋から日本海側(越後・糸魚川)に向け、日本列島を横断しながら、歴史や文化に触れ、大自然を堪能し歩きたい。

塩の道歩きの出発地は、三河の吉良町、昔、吉良上野介の所領地だ。



吉良の町は夏の観光地で、今の時期ほとんど人がいない。ホタテ貝を採る地元の数人と会うのみだ。静かな海に梶島とかいう島が浮かんでいる。浜辺に降りて、小さな器に太平洋の水を入れた。この水を日本海に注ぐのはいつになるか。
幡頭(はず)神社に参拝の後、歴史民俗資料館を見学。小さいながら、整理されていてなかなか気持ちがいい。何より、館長らしい人が積極的に話しかけて来ないことが、煩わしくなくていい。
吉良の塩田で作られた塩は饗庭塩(あいばじお)といって良質のものであったので徳川家でも使われ、また江戸の一流の町人や有名料理屋などもこの塩を使っていたという。一説によれば、この饗庭塩と新たに江戸に販路を開いた浅野家の「赤穂の塩」との諍いが、切傷沙汰の原因だとしているが、定かではない。

吉良の塩や瀬戸内海から運ばれた塩は、吉良を流れる矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされ、足助(あすけ)へ向かうことになる。

「塩の道」歩きの初回は、吉良の町から吉良家ゆかりの金蓮寺や華蔵寺、黄金堤を見て、岡崎に入り、徳川家ゆかりの六所神社や伊賀八幡宮をみて終わった。吉良から岡崎までは、昔、吉良街道という道があったというが今はわからない。
次回は岡崎より足助の町までの予定。三州街道で信州を目指す。三州街道は、武田信玄が上洛するために整備したといわれる街道だ。

【参考書籍等】
・古道紀行「塩の道」(小山和・保育社)
・塩の道ウォーク(井上如・日外アンソシエーツ)
・塩の道ウォーキング(静岡新聞社)
・吉良上野介を弁護する(岳真也・文藝春秋)
・通過市町村の観光案内

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