本日は、イザヤ書より主の思い、主の道と題して、メッセージさせていただきます。
今日のイザヤ書が書かれた背景は 古代イスラエルが南北に国が分かれ、南のユダヤ王国の末期。イザヤはウジヤ王の治世の終わりの時期から活躍した預言者とされます。この66章からなる預言書が一人の人によって書かれたと捉える人、時代的に数百年にわたる時代のことがかかれているので、他の弟子が書いたのではという説もあります。その話はおいてき、歴史的に587年ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、ユダヤの民はバビロンに捕囚として連れていかれます。エルサレムの城壁も神殿は破壊され、人々は異国生活で絶望的になっていたが、すでにエレミヤという預言者によりこの捕囚は 70年で終わるという預言も与えられていました。
エレミヤの預言は現実になり、バビロニア帝国がペルシャ帝国クロス王により滅ぼされ このクロス王は被征服民族に対する宗教寛容政策をとっていて、538年に ユダヤ人たちはエルサレムに帰還してよいという勅令が出され、破壊されたエルサレムの神殿を再建してよいという許可がでます。この56章のイザヤ書はバビロン捕囚から解放の時が近いことを知らせ、祖国へ戻ることを強く促してる 慰めや励ましに満ちた救いの言葉 や「主の僕の詩」というのが記されている。
前章で 神のかわらぬ愛が記されています。
イザヤ書54:7-8
「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」
また54章では 新しい祝福が預言されている。贖われた新しい民の救い、祝福に預かれるという預言。
そして続く55章では飢え渇いているすべての人に対して、救いにあずかるようにとの招きが記されている。
イザヤ書55:2-3
わたしに聞きしたがえば 良い者を食べることが出来る。あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ
耳を傾けて聞き わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。
ここでは、物質的な飢え渇きのことをいっているのではなく、神の霊的にめぐみをうけること「あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ」(2節)、自分の努力や人間的な業で得られるもののことではなく、神様からの無償のプレゼントとして(ただで)受けよといっています。わたしたちがなすべきことは みことばに耳を傾けて 従うこと、主のもとに行くこと そうすれば「魂に命を得る」(3節)。
本日の箇所 6節 「主を尋ね求めよ 見出せるうちに 呼び求めよ 近くにいるうちに」
主を求める時はいつまでの続かないかもしれません、チャンスを逃さず 先延ばしにしないことです。
7節 は 悔い改めの勧めです。「主に立ち返るならば ・・・豊かに赦してくださる。」
悪いことをしようというたくらみだけを言っているのではなく、私たちは自分の欲すること、自分の思うやりかたを貫き通そうとし、それをもとに「神様 私はこうしたいので、そうなるようにお願いします」と祈る。その思いは自分のなかでは、悪いこと、たくらみではないかもしれないが、他者にとってはどうか? 神様の目からみたら、正しいことなのか? それがわからないから、自分の思いを一度、横において、神様の思いを尋ねる。そして別の計画を示され、導かれたら 「たとえ 自分の思う通りでなくとも」神様に従うことのすすめ なぜなら
「8節 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
9節天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」
今日のタイトルである 主の道 と 思い は私たちの思い・道と異なると記されています。どれ程ことなるかというと「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」天はどれだけ高いでしょか?測定不能でしょう。つまりそれほど神様の道と思いは 異なる。このことを真に悟った時、へりくだった心がおこされるでしょう。そして、イザヤ書53章にて預言されている、イエス様の十字架の贖いの計画は私たち人間の思いを高く超え、そして必ず成し遂げられます。なぜなら神の言葉には力があるからです。つまり、自分の近視眼的 狭いものの見方と 全知全能の主の思いを比較したときに、へりくだった心がおこされるでしょう。神様は目に見えることだけでなく、霊的な必要、霊的な祝福を用意しておられる。愛である神様はすべての人を赦してくださる。 私たちは 赦せない人がいる 愛がないです。わたしたちは自分の利益、自分の思いしか考えられないのに対し、神様はすべてのひとの心をご存じ。神様は悪い人も救いたいのです。キリストはすべての人が救われるように十字架で死なれた。それを信じるだけで救われということは一般的、常識的には受け入れがたいこと。
このように神様の思いはわたしたちの思いとは異なる。私たちの思いより高く超えている。 このことをしっかり理解し、自分の思いや常識に固執することをやめることが必要ではないか。自分はこう思うけど、神様の思いはどうだろうと、いつも問いかけ、答えが示されるまで 先走らず まつという習慣をつける。 みことばを通して、状況を通して、答えは必ず示されるから。
イザヤ書40:8 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
神の言葉は永遠に立つ。変わらない。
10節は 自然のデザインされたしくみ 雨が降り、大地を潤し、芽がでて新しい命を生み出す 神がすべて自然の営みで養ってくださるようなっている。同様に 11節 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」
主のことばはかならず そのとおりになる。主が計画され、のぞまれたことが必ず果たされる。主のみことばからしめされる、主の望むこと、使命とは何でしょうか。 それは私たち人間の救いの計画です。そのことが イザヤによって預言されている箇所が直前の 53章です。
私たちが、神様に立ち返り、悔い改めると 主は私たちを赦してくださる。そのように簡単にわたしたちが赦されてしまうために神様が計画されたことは、非常に困難で厳しい、誰でもできることでない、神の子であるイエス様だけが可能な十字架の贖いです。
贖う(あがなう)は「罪を償う(つぐなう)」という意味の言葉で、人は自分の犯した罪は自分で償うのが原則。
しかし、イエス様はご自分は罪を全く犯されなかったのに、私たちの罪を代わりに償うたために、十字架にかかり、死なれたのです。
イザヤ53:5-6「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」
私たちは道を誤り勝手な方向へむかって犯してきた罪のすべてを 主なる神様がイエス様に追わせられたのです。これが、神様の望むことで、成し遂げられることとして、約600年前にイザヤによって預言されていました。
神の子が人になられ、人という体の限界を身にまとわれて、私たちの罪を負って、十字架で苦しみ、死んでくださることが、わたしたちの罪が神様の前に赦される方法だったのです。
聖書のことばは 主の思いと道を掲示し、目的を定め、約束をなし、表現されたことを達成する 力 がある。
神様が言われたこと、この救いの計画はキリストを通して成し遂げられた。
人間が歴史上、どんなに失敗しても、神様の計画以外のことをしようとしても、(たとえばアブラハムとサラ イシュマエルによって子孫をもとうとした) サタンが邪魔をしようとしても (幼児イエスを殺害しようとしたり、イエスが十字架にかからないようにしようとしたり サタンが誘惑したり) 異端の教えを生じさせ、人々を信仰から離そうとしようとしても、主の救いの計画はぶれない。神の言葉がとこしえに立つから。
みことばの力に応答すると どうなるかが 12節に記されています。 「喜び祝いながら出で立ち」と。み言葉に書かれていることを信じ、主の思い、計画に委ねようとすれば、 世界は以前自分の視点で見ていたもとは異なり、変容する。それは、個人的に新しい感情;喜び 新しい関係:平安 新しい守り: 神に導かれるという安心感が与えられるでしょう。将来的にはすべての被造物が解放されることを現わすために 植物を用いて 祝福への変容を現わしています。死から命へ、古い状態から新しい状態へ、一時的から永遠へ、必要から 満たしへと変えられます。
神様は 値を求めずに私たちに来なさいと招き、シンプルに神様に立ち返るよう悔いあらためを呼び掛け、あわれみと赦しを保障される、そしてそのことを確証させるみことばの力を示してくださり、それに応答したものの新しい状態、喜びと希望、平安 この章にキリストの福音が凝縮されています。
私たちは みことばのなかに示された 福音をシンプルに信じ、イエス様の十字架の贖いを深く感謝したいと思います。キリストの福音は神のことばによって示され、そこには力がある。神様の約束は必ずそのとおりになる。
12節「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。」
私たちもその神様の言葉を信じ、神様に従おうと決めて人生を歩んでいきたい。その方向で日々自分の思いをあらたにしていけば、喜びが与えられ、祝いながら出でたち、平和のうちに導かれるというのが神様の約束。この約束はそのとおりになるという、神様の力があります。それを日々の生活のなかで、思いめぐらしていきたいと願います。
(引用:新共同訳聖書)
今日のイザヤ書が書かれた背景は 古代イスラエルが南北に国が分かれ、南のユダヤ王国の末期。イザヤはウジヤ王の治世の終わりの時期から活躍した預言者とされます。この66章からなる預言書が一人の人によって書かれたと捉える人、時代的に数百年にわたる時代のことがかかれているので、他の弟子が書いたのではという説もあります。その話はおいてき、歴史的に587年ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、ユダヤの民はバビロンに捕囚として連れていかれます。エルサレムの城壁も神殿は破壊され、人々は異国生活で絶望的になっていたが、すでにエレミヤという預言者によりこの捕囚は 70年で終わるという預言も与えられていました。
エレミヤの預言は現実になり、バビロニア帝国がペルシャ帝国クロス王により滅ぼされ このクロス王は被征服民族に対する宗教寛容政策をとっていて、538年に ユダヤ人たちはエルサレムに帰還してよいという勅令が出され、破壊されたエルサレムの神殿を再建してよいという許可がでます。この56章のイザヤ書はバビロン捕囚から解放の時が近いことを知らせ、祖国へ戻ることを強く促してる 慰めや励ましに満ちた救いの言葉 や「主の僕の詩」というのが記されている。
前章で 神のかわらぬ愛が記されています。
イザヤ書54:7-8
「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」
また54章では 新しい祝福が預言されている。贖われた新しい民の救い、祝福に預かれるという預言。
そして続く55章では飢え渇いているすべての人に対して、救いにあずかるようにとの招きが記されている。
イザヤ書55:2-3
わたしに聞きしたがえば 良い者を食べることが出来る。あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ
耳を傾けて聞き わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。
ここでは、物質的な飢え渇きのことをいっているのではなく、神の霊的にめぐみをうけること「あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ」(2節)、自分の努力や人間的な業で得られるもののことではなく、神様からの無償のプレゼントとして(ただで)受けよといっています。わたしたちがなすべきことは みことばに耳を傾けて 従うこと、主のもとに行くこと そうすれば「魂に命を得る」(3節)。
本日の箇所 6節 「主を尋ね求めよ 見出せるうちに 呼び求めよ 近くにいるうちに」
主を求める時はいつまでの続かないかもしれません、チャンスを逃さず 先延ばしにしないことです。
7節 は 悔い改めの勧めです。「主に立ち返るならば ・・・豊かに赦してくださる。」
悪いことをしようというたくらみだけを言っているのではなく、私たちは自分の欲すること、自分の思うやりかたを貫き通そうとし、それをもとに「神様 私はこうしたいので、そうなるようにお願いします」と祈る。その思いは自分のなかでは、悪いこと、たくらみではないかもしれないが、他者にとってはどうか? 神様の目からみたら、正しいことなのか? それがわからないから、自分の思いを一度、横において、神様の思いを尋ねる。そして別の計画を示され、導かれたら 「たとえ 自分の思う通りでなくとも」神様に従うことのすすめ なぜなら
「8節 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
9節天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」
今日のタイトルである 主の道 と 思い は私たちの思い・道と異なると記されています。どれ程ことなるかというと「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」天はどれだけ高いでしょか?測定不能でしょう。つまりそれほど神様の道と思いは 異なる。このことを真に悟った時、へりくだった心がおこされるでしょう。そして、イザヤ書53章にて預言されている、イエス様の十字架の贖いの計画は私たち人間の思いを高く超え、そして必ず成し遂げられます。なぜなら神の言葉には力があるからです。つまり、自分の近視眼的 狭いものの見方と 全知全能の主の思いを比較したときに、へりくだった心がおこされるでしょう。神様は目に見えることだけでなく、霊的な必要、霊的な祝福を用意しておられる。愛である神様はすべての人を赦してくださる。 私たちは 赦せない人がいる 愛がないです。わたしたちは自分の利益、自分の思いしか考えられないのに対し、神様はすべてのひとの心をご存じ。神様は悪い人も救いたいのです。キリストはすべての人が救われるように十字架で死なれた。それを信じるだけで救われということは一般的、常識的には受け入れがたいこと。
このように神様の思いはわたしたちの思いとは異なる。私たちの思いより高く超えている。 このことをしっかり理解し、自分の思いや常識に固執することをやめることが必要ではないか。自分はこう思うけど、神様の思いはどうだろうと、いつも問いかけ、答えが示されるまで 先走らず まつという習慣をつける。 みことばを通して、状況を通して、答えは必ず示されるから。
イザヤ書40:8 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
神の言葉は永遠に立つ。変わらない。
10節は 自然のデザインされたしくみ 雨が降り、大地を潤し、芽がでて新しい命を生み出す 神がすべて自然の営みで養ってくださるようなっている。同様に 11節 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」
主のことばはかならず そのとおりになる。主が計画され、のぞまれたことが必ず果たされる。主のみことばからしめされる、主の望むこと、使命とは何でしょうか。 それは私たち人間の救いの計画です。そのことが イザヤによって預言されている箇所が直前の 53章です。
私たちが、神様に立ち返り、悔い改めると 主は私たちを赦してくださる。そのように簡単にわたしたちが赦されてしまうために神様が計画されたことは、非常に困難で厳しい、誰でもできることでない、神の子であるイエス様だけが可能な十字架の贖いです。
贖う(あがなう)は「罪を償う(つぐなう)」という意味の言葉で、人は自分の犯した罪は自分で償うのが原則。
しかし、イエス様はご自分は罪を全く犯されなかったのに、私たちの罪を代わりに償うたために、十字架にかかり、死なれたのです。
イザヤ53:5-6「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」
私たちは道を誤り勝手な方向へむかって犯してきた罪のすべてを 主なる神様がイエス様に追わせられたのです。これが、神様の望むことで、成し遂げられることとして、約600年前にイザヤによって預言されていました。
神の子が人になられ、人という体の限界を身にまとわれて、私たちの罪を負って、十字架で苦しみ、死んでくださることが、わたしたちの罪が神様の前に赦される方法だったのです。
聖書のことばは 主の思いと道を掲示し、目的を定め、約束をなし、表現されたことを達成する 力 がある。
神様が言われたこと、この救いの計画はキリストを通して成し遂げられた。
人間が歴史上、どんなに失敗しても、神様の計画以外のことをしようとしても、(たとえばアブラハムとサラ イシュマエルによって子孫をもとうとした) サタンが邪魔をしようとしても (幼児イエスを殺害しようとしたり、イエスが十字架にかからないようにしようとしたり サタンが誘惑したり) 異端の教えを生じさせ、人々を信仰から離そうとしようとしても、主の救いの計画はぶれない。神の言葉がとこしえに立つから。
みことばの力に応答すると どうなるかが 12節に記されています。 「喜び祝いながら出で立ち」と。み言葉に書かれていることを信じ、主の思い、計画に委ねようとすれば、 世界は以前自分の視点で見ていたもとは異なり、変容する。それは、個人的に新しい感情;喜び 新しい関係:平安 新しい守り: 神に導かれるという安心感が与えられるでしょう。将来的にはすべての被造物が解放されることを現わすために 植物を用いて 祝福への変容を現わしています。死から命へ、古い状態から新しい状態へ、一時的から永遠へ、必要から 満たしへと変えられます。
神様は 値を求めずに私たちに来なさいと招き、シンプルに神様に立ち返るよう悔いあらためを呼び掛け、あわれみと赦しを保障される、そしてそのことを確証させるみことばの力を示してくださり、それに応答したものの新しい状態、喜びと希望、平安 この章にキリストの福音が凝縮されています。
私たちは みことばのなかに示された 福音をシンプルに信じ、イエス様の十字架の贖いを深く感謝したいと思います。キリストの福音は神のことばによって示され、そこには力がある。神様の約束は必ずそのとおりになる。
12節「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。」
私たちもその神様の言葉を信じ、神様に従おうと決めて人生を歩んでいきたい。その方向で日々自分の思いをあらたにしていけば、喜びが与えられ、祝いながら出でたち、平和のうちに導かれるというのが神様の約束。この約束はそのとおりになるという、神様の力があります。それを日々の生活のなかで、思いめぐらしていきたいと願います。
(引用:新共同訳聖書)