Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

差し出された手:中毒・依存からの解放

2019年09月15日 | 日記
 先日テレビで、ある医師の方の活動について観ました。その方は、ご自分のお母さんが薬物依存で苦しんでいたのを見て、ご自分はそういう様々な依存症、中毒に苦しんでいる人々に寄り添いたいという思いで医者になったこと、様々な医師としての経験を経て、現在は刑務所での矯正医療(受刑者を観る医師)として働かれているそうです。その方が依存症の治療について、こんなことをおっしゃっていました。「人が海で溺れそうになっていて、浮き輪にしがみついているとします。その浮き輪を他者が取ろうとしたら、その人はどうすると思いますか?その人は、余計その浮き輪を離さないでしがみつくでしょう。これは、何かに依存している人の状態です。しかし、もし他者がその浮き輪を取理上げると同時に、手を差し伸べ、これに捕まれば大丈夫なんだという、安心感を徐々に与えていけば、依存しているものを手放せるようになるでしょう。」では、その手とは何(誰)でしょうか。

 この話を、後日私の友人で、彼女のお孫さんが家に引きこもり、ゲームを一日中していて、家族にも心を開かないという方にしました。彼女は、お孫さんの為に多くの引きこもりについての講演やセミナーに通い、お嫁さん(孫の母)にその話を伝えようとしますが、なかなか進展がないそうです。そして、半ばあきらめた調子で、「そういう話は、すでに聞いています。その依存しているものに、とって代わる良い物を本人が見つけられないから困っているんですよ」と。このように多くの方がなかなか、「その手」を差し出されても、握れないでいるから、その状態から脱出できないのではないでしょうか。その家族も苦しい思いをしています。

 イエス・キリストは捕らわれた者を解放し、目が見えない人を見えるようにし、落胆している人に自由を得させ、神様の恵がきたことを知らせるために、この地上に遣わされたのだと、ご自分のミッションを述べられています*。これは物理的な状態だけでなく、精神的に何かに縛られ、盲目的にされ、希望がない、辛い思いをしている人々を神様の恵により自由にしようという意味でもあります。まさに
、何かの依存・中毒から抜け出せない人、人や何かを恐れ内に閉じこもってしまっている人に、イエスは手を差し伸べて、「大丈夫だよ、私に頼りなさい、自由になれるから」と言われている様子が、聖書に約束されているのです。

 神様は愛するために、大切な存在として一人一人を創られたので、人が捕らわれて苦しんでいる状態を見て心を痛めておられ、なんとか救いたいと手を日々差し伸べています。宗教はお金を要求するかもしれませんが、本当の神は何も要求しません、すでに豊かで全能だから、人から何かしてもらう必要がないからです。一つだけ人に求めていることは、その神様の愛に応答する事、差し出す手を握ることです。人が差し出す手には限界があります。もちろん、神様は他の人を使って、様々な方法を使って、間接的にその人が捕らわれた状態から脱出するきっかけを与えて下さるでしょう。しかし、根本的にその人の心の飢え渇きを、ぽっかり空いた穴を埋めることができるのは、中毒の代替物となりうる、趣味、善行、仕事、ボランティアそのものではなく、人知を超えた神様の豊かな愛、慰め、赦し、希望であると信じます。

 それを受け取るには、まず、キリストのところに行くこと。そして、自分は存在しているだけで神様の目には大切なことを知り、そのままの自分で行っても受け止めてくれるキリストの存在を信じていく。そして徐々に、自分は神様から離れ、自分中心に生きていたことを認め、神様の愛を知ることで、自分は自分の為に生きているのではないことを知って行く、すると、自ずと自分の抱えている問題(重荷)をキリストに祈って相談し、委ねていけるようになるでしょう。さらに大切なことは、今迄の自己中心の人生(聖書ではそれを罪といいます)を悔い改め、キリストから学んでいくことです。キリストという愛に満ちた方から、その品性、考え方、生き方を聖書を通して知って行く。そうすれば、自分のことばかり考え、何かを恐れ、それから目を背ける為に依存していたものから解放されている、変えられている自分に気づきます。

 キリストのところには、そのまま(ありのまま)で行ってよいのです。しかし、キリストを信頼し、その愛を受け取れるようになると、心が変えられていくので、づっと「そのまま」ではないのです。必ず、変えられます。何かに捕らわれて苦しんでいた状態から、キリストの愛に包まれて喜びがある人生へと。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 マタイによる福音書11章28-29節

*「主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」ルカによる福音書4章18節
(引用、口語訳聖書)