Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

人生の嵐と土台

2020年04月22日 | 日記
 これまでも大規模な自然災害、疫病の流行は歴史的にも起こってきていますが、今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延は、史上で最大規模であり、お互いこれを乗り越えるために協力していくことが大切だと、メディアを通じて日々伝えられています。科学が現代のように発達し、流通と人の活動がグローバルに発展している環境に慣れていると、昔のように家でシンプルに過ごさねばならないことが、さらなるストレスとなってしまう人もいるかもしれません。

 科学ではどうしようもないと、また直接的な因果関係がわからない災害・事故について、普段神を信じていないのに、無意識的にそれが神の罰とか裁きだと考える傾向が人々の中にあります。日本では、小さいころから「罰があたるぞ」というフレーズを耳にしてきました。この疫病は人間の傲慢さに対する神の厳しい裁きだという人、聖書に記されている「この世の終わり、終末」だと短絡的に考える人もいたりするしょう。確かに、人の科学・知識が万能であるとするおごりはあり、謙遜になる必要はあるかもしれませんし、神を“畏れる”気持ちを持ったほうが良いと思います(“畏れ”と“恐れ”は意味が微妙に異なる)。しかし、単に神の裁きだという恐怖心だけでは、信じる気持ちにもならず、不安ばかり増して益になることはありません。

 聖書で一貫しているメッセージは、神は人間を愛していて、大切に思っている、恵を与えよう、祝福したいということです。そして、聖書の神は善人にだけ恵みを与えるのではなく、天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる方 *1であり、一方で、災害や病気、試練は誰にでも起こりうるのです。*2 ですから全体の論点をみず、部分的に聖書を引用すると、おかしな解釈や理解となり、そうなると神の存在が平安や感謝ではなく、恐れと疑いとなります。しかし、これらは愛の神の性質から来ているものではありません。
 
 「神が愛なら、なぜこんなことが起こるのか?」という疑問。しかし、その疑問を持つ前に、起こしている原因のほとんどは人間の欲、傲慢さにあるということを認めることが必要ではないでしょうか。神が愛であることを知るには、まず自分の傲慢さ、神を認めない罪を悔い改め、そして自分の意思や力で善になれないと自覚し、そのために自分には救い主が必要だと求めることから始まります。そして求めれば信仰が与えられ、キリストを信じる信仰が人生の土台となります。すると、様々な人生の嵐が来ても、土台がしっかり据えられているので、その人は倒されないと、下記の建築のたとえをキリストは語られています。これからも、様々な試練が生きている上で起こるでしょう。だからこそ、このキリストという土台によって、恐れではなく、自分を愛して、助け、導いてくれる神を信頼し、励まされて日々歩んでいきましょう。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」マタイによる福音書7章24-27節

*1 マタイによる福音書5章45節
*2 ヨブ記には、ヨブは「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」と神にも認められていたが(ヨブ記1章1・8節)、彼には過酷な試練(自然災害、略奪により家族・財産を一機に失う)が起こったことが記されている。