先日、氏家キリスト教会ヒカリ園で月に一度開催されている、園児のリトミック教室に夫と二人で見学をさせて頂く機会がありました。折しも益子教会でこの9月から「親子でゴスペル」という企画を始めたことを、たまたま他の会議にて話すと、「うちも子供たちのためのリトミック教室をやっているので、参考にどうぞ見学に来て下さい」と、園長(牧師)先生が誘って下さったのです。
見学してまず思ったことは、園児たちが皆楽しんで、自由に動いていたことです。先生のいう通りに皆が動かなくとも:つまりある子は駆け回る、ある子は太鼓をたたく、ある子は泣いていてスタッフやお母さんに抱っこされている、不思議と音楽、リズムに合わせて全体が調和されている様子に驚きました。他の幼稚園だと、みながよく先生のお約束を守り、きちっと同じ動きをする、静かにするときは静かにするとして、秩序が保たれているでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしいと思います。一方で、皆が同じ動きをしなくとも、子供が音楽に合わせて、それがどんなジャンルであれ、歌ったり、踊ったり、駆け回ったり、とにかく一人一人が自由に動く、子供たち一人一人が自分を表現し、何よりも「楽しんでいる」という形態が集団保育で成り立つのだと新しい発見がありました。子供たちのパワーに力を与えられ、益子の親子ゴスペルもいつか、子供たちがゴスペルに合わせて、このように楽しむ時間となればと、この見学によりイメージが与えられたことは感謝です。子供たちから学ばされることはたくさんあります。
イエス様はこどもたちに対しては特別な眼差し、態度を持っておられたことが聖書にしるされています。弟子たちが、子供たちがイエス様の近くにくると、邪魔だから追い返そうとすると「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とイエス様は言われて、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました*1。イエス様は子供たちを優しさをもって受け入れるだけでなく、大人である弟子たちに対してこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」*2 これは、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエス様に対する質問に対しての返答です。つまり、こどものように「素直に」イエス様を救い主として信じる態度、また弱い者であることを自覚する謙遜な態度を弟子たちに求めておられるのではないかと思います。この「偉くなりたい」という弟子たちの動機は何でしょうか?
もし「偉くなれば、他者が自分に従う」、そのような優越感を持てることを期待しているのであれば、イエス様の治める神の国に入ることが難しいわけです。神の国では神様に従順に従い、人間同士では、他者を自分よりも優れていると思うほど謙遜な思いを持つようにと記されています*3。これはイエス様が言われた、多くの戒めを集約した二つの大事な戒め「神を愛する、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」*4に基づいています。神様に従わずに自分勝手な思いと行動をし、他者に対して高慢な思いでいるならば、尊敬しあうことも、平和を保つこともできません。争いは相手が悪いと思う、相手を見下し自分が上に立ちたい(マウント)という思いから始まるからです。
このようなみことばは、日々自身の心に刺さります。自分はふと気が付くと、このような高慢な思いになってしまうからです。こどもたちから、いつもこの謙遜な思いを学ばされ、主イエス様に従い、高慢な思いを取り除いていただくよう日々祈り求めたいと思います。
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 マルコによる福音書10章13-16節
*1 マルコによる福音書10:14,16節
*2 マタイによる福音書18:3-4
*3 フィリピ信徒への手紙2:3-5
*4 マタイによる福音書22:35-40
見学してまず思ったことは、園児たちが皆楽しんで、自由に動いていたことです。先生のいう通りに皆が動かなくとも:つまりある子は駆け回る、ある子は太鼓をたたく、ある子は泣いていてスタッフやお母さんに抱っこされている、不思議と音楽、リズムに合わせて全体が調和されている様子に驚きました。他の幼稚園だと、みながよく先生のお約束を守り、きちっと同じ動きをする、静かにするときは静かにするとして、秩序が保たれているでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしいと思います。一方で、皆が同じ動きをしなくとも、子供が音楽に合わせて、それがどんなジャンルであれ、歌ったり、踊ったり、駆け回ったり、とにかく一人一人が自由に動く、子供たち一人一人が自分を表現し、何よりも「楽しんでいる」という形態が集団保育で成り立つのだと新しい発見がありました。子供たちのパワーに力を与えられ、益子の親子ゴスペルもいつか、子供たちがゴスペルに合わせて、このように楽しむ時間となればと、この見学によりイメージが与えられたことは感謝です。子供たちから学ばされることはたくさんあります。
イエス様はこどもたちに対しては特別な眼差し、態度を持っておられたことが聖書にしるされています。弟子たちが、子供たちがイエス様の近くにくると、邪魔だから追い返そうとすると「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とイエス様は言われて、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました*1。イエス様は子供たちを優しさをもって受け入れるだけでなく、大人である弟子たちに対してこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」*2 これは、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエス様に対する質問に対しての返答です。つまり、こどものように「素直に」イエス様を救い主として信じる態度、また弱い者であることを自覚する謙遜な態度を弟子たちに求めておられるのではないかと思います。この「偉くなりたい」という弟子たちの動機は何でしょうか?
もし「偉くなれば、他者が自分に従う」、そのような優越感を持てることを期待しているのであれば、イエス様の治める神の国に入ることが難しいわけです。神の国では神様に従順に従い、人間同士では、他者を自分よりも優れていると思うほど謙遜な思いを持つようにと記されています*3。これはイエス様が言われた、多くの戒めを集約した二つの大事な戒め「神を愛する、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」*4に基づいています。神様に従わずに自分勝手な思いと行動をし、他者に対して高慢な思いでいるならば、尊敬しあうことも、平和を保つこともできません。争いは相手が悪いと思う、相手を見下し自分が上に立ちたい(マウント)という思いから始まるからです。
このようなみことばは、日々自身の心に刺さります。自分はふと気が付くと、このような高慢な思いになってしまうからです。こどもたちから、いつもこの謙遜な思いを学ばされ、主イエス様に従い、高慢な思いを取り除いていただくよう日々祈り求めたいと思います。
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」 マルコによる福音書10章13-16節
*1 マルコによる福音書10:14,16節
*2 マタイによる福音書18:3-4
*3 フィリピ信徒への手紙2:3-5
*4 マタイによる福音書22:35-40