では実際の事実の経緯を追うことにする。
明側から勧告の勅令が出されたのは成化三年(一四六七)の正月である。
ドンシャンらが入朝し、大暴れしたのが四月、
彼らが帰った後、朝廷ではこの事態を重く見て討伐軍を派遣する方向で決まった。
明の成化三年(一四六七)五月、趙輔が将軍の印を授かり、総兵官に命じられ、遼東へ向かった。
七月にはドンシャン(董山)ら百十五人を広寧師府まで連行し、勅令を読み上げ、奪った捕虜を解放するように叱責する。
ドンシャンらは怒り、袖から小刀を出し、通事を刺した。
これを見たハタハ(哈塔哈)ら百十五人もそれぞれに刀を持ち、師府の警備兵らを刺しまくった。
趙輔は全員を逮捕するように命じ、その場で二十六人を刺し殺し、残りはすべて牢に入れた。
朝廷では、趙輔からの奏文を受け取り、直ちに遼東の兵二万九千人を派遣することを決定した。
朝鮮にも援軍の派遣を命じ、朝鮮からは一万五千人が送られ、五つのルートから分かれて建州に進軍した。
十月には建州右衛と左衛を責め、九百人を生け捕り、九百三十八人を殺し、明からの捕虜千百六十五人を奪回した。
建州衛も攻められ、李満住とその子・李古納哈を始めとして三百八十六人が殺され、李親子の妻ら二十三人を生け捕りとした。
このときの討伐で建州三衛のトップはほとんど殺されつくした。
死者や捕虜の数を見ればわかるとおり、彼らの人口規模は決して大きくない。
三衛合わせても戦死者は2千人にも満たない。
恐らく荘丁の数もその倍もいかないであろう。
明は、これに四万人以上の規模の軍隊を差し向けたのである。
ドンシャン(董山)、李満住などの建州満州のリーダーらが大方殺しつくされてから、
その後を担ったのは、次の世代である。
ドンシャンには息子が三人いた。
長子トロ(脱羅)、次子トイーモウ(脱一莫)、三子シボチ(石宝奇)である。
シボチが、ヌルハチから遡って四代目の祖先となる。
どうやらさすがに子孫まで連座させて殺すようなことはしなかったらしい。
引き続き、誰かが満州を率いていかなければならない、という現実の問題もある。
明の成化五年(一四六九)七月、つまりは明朝による制裁がなされてから一年半後、
ドンシャンの長男トロが「悔いて来朝」、と明側の資料にある。
リグナハ(李古那哈)の甥ワンジャトゥも「悔いて来朝」、
子供の世代が心を入れ替えて臨むということで、再び明との朝貢関係が戻った。
明としても、何も民族全体を消滅させようというのではなく、騒ぎを起こさないでくれたら、それでいいのだ。
そして満州側は、朝貢という形の見入りのいい「交易」がなくなるのは、生命線を断ち切られるようなものである。
どうしても再開させねばならなかった。
トロは父ドンシャンが好き放題やらかして身を滅ぼしたことを反面教師に、祖父モンケ・テムールを見習った。
明との取り決めを守り、辺境に侵入せず、朝貢貿易に精を出し、自ら北京に行くこと十二回に及んだ。
明の弘治十五年(一五〇五)にはトロが病没するが、
子のトエンボー(脱原保)が後を継ぎ、建州左衛を統治、明との朝貢を続けた。
明の嘉靖二年(一五二三)以後、明の実録にはトエンボーの記録がなくなり、死後誰が継いだかも書かれていない。
どうやらこの父子の家系は、建州左衛の酋長の座から脱落したらしいのである。
次に記録がつながるのは、ヌルハチの祖父に当たるジェチャンアの軌跡である。
明の交易場に商売に来た記録がある。
ヌルハチの祖父がジェチャンアであることは間違いないらしい。
しかしモンケ・テムールから董山にいたるまでの家系が、果たしてヌルハチにつながるかどうかは、何やら曖昧である。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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明側から勧告の勅令が出されたのは成化三年(一四六七)の正月である。
ドンシャンらが入朝し、大暴れしたのが四月、
彼らが帰った後、朝廷ではこの事態を重く見て討伐軍を派遣する方向で決まった。
明の成化三年(一四六七)五月、趙輔が将軍の印を授かり、総兵官に命じられ、遼東へ向かった。
七月にはドンシャン(董山)ら百十五人を広寧師府まで連行し、勅令を読み上げ、奪った捕虜を解放するように叱責する。
ドンシャンらは怒り、袖から小刀を出し、通事を刺した。
これを見たハタハ(哈塔哈)ら百十五人もそれぞれに刀を持ち、師府の警備兵らを刺しまくった。
趙輔は全員を逮捕するように命じ、その場で二十六人を刺し殺し、残りはすべて牢に入れた。
朝廷では、趙輔からの奏文を受け取り、直ちに遼東の兵二万九千人を派遣することを決定した。
朝鮮にも援軍の派遣を命じ、朝鮮からは一万五千人が送られ、五つのルートから分かれて建州に進軍した。
十月には建州右衛と左衛を責め、九百人を生け捕り、九百三十八人を殺し、明からの捕虜千百六十五人を奪回した。
建州衛も攻められ、李満住とその子・李古納哈を始めとして三百八十六人が殺され、李親子の妻ら二十三人を生け捕りとした。
このときの討伐で建州三衛のトップはほとんど殺されつくした。
死者や捕虜の数を見ればわかるとおり、彼らの人口規模は決して大きくない。
三衛合わせても戦死者は2千人にも満たない。
恐らく荘丁の数もその倍もいかないであろう。
明は、これに四万人以上の規模の軍隊を差し向けたのである。
ドンシャン(董山)、李満住などの建州満州のリーダーらが大方殺しつくされてから、
その後を担ったのは、次の世代である。
ドンシャンには息子が三人いた。
長子トロ(脱羅)、次子トイーモウ(脱一莫)、三子シボチ(石宝奇)である。
シボチが、ヌルハチから遡って四代目の祖先となる。
どうやらさすがに子孫まで連座させて殺すようなことはしなかったらしい。
引き続き、誰かが満州を率いていかなければならない、という現実の問題もある。
明の成化五年(一四六九)七月、つまりは明朝による制裁がなされてから一年半後、
ドンシャンの長男トロが「悔いて来朝」、と明側の資料にある。
リグナハ(李古那哈)の甥ワンジャトゥも「悔いて来朝」、
子供の世代が心を入れ替えて臨むということで、再び明との朝貢関係が戻った。
明としても、何も民族全体を消滅させようというのではなく、騒ぎを起こさないでくれたら、それでいいのだ。
そして満州側は、朝貢という形の見入りのいい「交易」がなくなるのは、生命線を断ち切られるようなものである。
どうしても再開させねばならなかった。
トロは父ドンシャンが好き放題やらかして身を滅ぼしたことを反面教師に、祖父モンケ・テムールを見習った。
明との取り決めを守り、辺境に侵入せず、朝貢貿易に精を出し、自ら北京に行くこと十二回に及んだ。
明の弘治十五年(一五〇五)にはトロが病没するが、
子のトエンボー(脱原保)が後を継ぎ、建州左衛を統治、明との朝貢を続けた。
明の嘉靖二年(一五二三)以後、明の実録にはトエンボーの記録がなくなり、死後誰が継いだかも書かれていない。
どうやらこの父子の家系は、建州左衛の酋長の座から脱落したらしいのである。
次に記録がつながるのは、ヌルハチの祖父に当たるジェチャンアの軌跡である。
明の交易場に商売に来た記録がある。
ヌルハチの祖父がジェチャンアであることは間違いないらしい。
しかしモンケ・テムールから董山にいたるまでの家系が、果たしてヌルハチにつながるかどうかは、何やら曖昧である。
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ヌルハチの先祖が葬られている
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