モンケ・テムールの死は、明の宣徳八年(一四三三)であった。
日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。
女真の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、その復讐で殺された。
この時にモンケ・テムール、その長男のアグ(阿谷)が戦死し、次男のドンシャン(董山)とアグの妻は、敵側の捕虜となった。
戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。
まもなくモンケ・テムールの次男ドンシャンと長男アグの妻は、捕虜の身から指揮のハルテゥに買い戻してもらう。
--こういうことは、遊牧世界では普通にあったらしい。
モンゴルのチンギスハーンの伝記を読んでいても、妻のボルテが敵対勢力にさらわれて敵対側男性の妻にされており、
しばらくしてようやく取り戻すことができた、というくだりがある。
その前後で生まれた長男のジョチは、父親がチンギスハーンかどうか、甚だ怪しいらしい。
中国の儒教的な考えでは、貞操を犯されたら女性はさっさと自殺せんかい、ということになるのだろうが、
人口のまばらな地帯であり、かつこういうめちゃくちゃなことがしょっちゅう起こっていた社会では、
いちいち自殺させたり、女性を殺していたのでは、生産性が悪すぎて共同体が立ち行かなくなるのか、そういうことはしない。
きわめて合理的である。
閑話休題。
その後、ドンシャンが叔父ファンチャ(モンケ・テムールの弟)と最初は協力し、
後にライバル関係になり、ついには対等な立場となった経緯については、省略する。
明の正統六年(一四四一)の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。
最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。
アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。
そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、「李思誠」の漢人名を賜う。
これ以後、この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、「建州衛李姓」として、存続し続ける。
したがってその息子も女真族でありながら、一人だけ名前は漢人風の「李満住」である。
モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰属する際、永楽帝が彼を「皇后の親戚」と称したのも、
直接の血縁関係はないとはいえ、自分に女真族の妃がいたからなのである。
明皇帝の親戚が末裔の管理する衛となれば、最も実力あったことも当然の道理といえる。
さらに右衛をモンケ・テムールの弟ファンチャ(凡察)が支配し、左衛を次男のドンシャン(董山)が支配した。
しかし女真族のことを明の史書より詳しく記録している朝鮮の「李氏実録」にも、
明の景泰年間以前の記録には、ドンシャンの支配する左衛のことはほとんど登場しない。
ほかの二衛はたびたび登場するのに、である。
つまりは記録するにも値しない弱小勢力でしかなかったということである。
ヌルハチの家系は、このドンシャンから出ているので、引き続き追っていくことにする。
ドンシャン(董山)は明朝に何度も入朝し、朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。
ドンシャンは李満住、ファンチャ(凡察)と比べ、一世代若い。
そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。
社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。
これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、
皇帝が老いていようが、政治を顧みないあほたれえな皇帝が即位しようが、
基本的には筆頭大臣を先頭とする、科挙により選ばれ経験を積んできた官僚群が、しっかりと政治を運用するのでびくともしない。
動脈硬化現象はもちろんあるが、サイクルの長さが違うのである。
こうして明の景泰年間前後、老いた李満住、ファンチャを抑え、
ドンシャンは建州女真の中心的人物として、内外ともに認識される存在となっていく。
そしてこれまでにも増して激しく、外部への略奪を行うようになる。
李満住、ファンチャ(凡察)らとともに、朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。
壮丁(成人男子)が多く、武力の強い酋長は他部族を略奪するようになるのが、女真人の社会の普遍的概念であった。
明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、明の正統年間の「土木の変」以後だった。
「土木の変」は、女真族が圧倒的な存在としてあがめていた明の皇帝が、
あろうことかモンゴルの一派オイラトのエセン・ハーンの捕虜になるという事件である。
目に見えやすいパワーがすべての判断基準である原始的段階にある彼らにとって、
これほどわかりやすい権威の失墜もなかった。
「明、恐るるに足らず」と、すっかりこれまでの価値観を改めたドンシャンらは、日増しに大胆になっていったのである。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。
女真の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、その復讐で殺された。
この時にモンケ・テムール、その長男のアグ(阿谷)が戦死し、次男のドンシャン(董山)とアグの妻は、敵側の捕虜となった。
戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。
まもなくモンケ・テムールの次男ドンシャンと長男アグの妻は、捕虜の身から指揮のハルテゥに買い戻してもらう。
--こういうことは、遊牧世界では普通にあったらしい。
モンゴルのチンギスハーンの伝記を読んでいても、妻のボルテが敵対勢力にさらわれて敵対側男性の妻にされており、
しばらくしてようやく取り戻すことができた、というくだりがある。
その前後で生まれた長男のジョチは、父親がチンギスハーンかどうか、甚だ怪しいらしい。
中国の儒教的な考えでは、貞操を犯されたら女性はさっさと自殺せんかい、ということになるのだろうが、
人口のまばらな地帯であり、かつこういうめちゃくちゃなことがしょっちゅう起こっていた社会では、
いちいち自殺させたり、女性を殺していたのでは、生産性が悪すぎて共同体が立ち行かなくなるのか、そういうことはしない。
きわめて合理的である。
閑話休題。
その後、ドンシャンが叔父ファンチャ(モンケ・テムールの弟)と最初は協力し、
後にライバル関係になり、ついには対等な立場となった経緯については、省略する。
明の正統六年(一四四一)の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。
最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。
アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。
そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、「李思誠」の漢人名を賜う。
これ以後、この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、「建州衛李姓」として、存続し続ける。
したがってその息子も女真族でありながら、一人だけ名前は漢人風の「李満住」である。
モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰属する際、永楽帝が彼を「皇后の親戚」と称したのも、
直接の血縁関係はないとはいえ、自分に女真族の妃がいたからなのである。
明皇帝の親戚が末裔の管理する衛となれば、最も実力あったことも当然の道理といえる。
さらに右衛をモンケ・テムールの弟ファンチャ(凡察)が支配し、左衛を次男のドンシャン(董山)が支配した。
しかし女真族のことを明の史書より詳しく記録している朝鮮の「李氏実録」にも、
明の景泰年間以前の記録には、ドンシャンの支配する左衛のことはほとんど登場しない。
ほかの二衛はたびたび登場するのに、である。
つまりは記録するにも値しない弱小勢力でしかなかったということである。
ヌルハチの家系は、このドンシャンから出ているので、引き続き追っていくことにする。
ドンシャン(董山)は明朝に何度も入朝し、朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。
ドンシャンは李満住、ファンチャ(凡察)と比べ、一世代若い。
そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。
社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。
これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、
皇帝が老いていようが、政治を顧みないあほたれえな皇帝が即位しようが、
基本的には筆頭大臣を先頭とする、科挙により選ばれ経験を積んできた官僚群が、しっかりと政治を運用するのでびくともしない。
動脈硬化現象はもちろんあるが、サイクルの長さが違うのである。
こうして明の景泰年間前後、老いた李満住、ファンチャを抑え、
ドンシャンは建州女真の中心的人物として、内外ともに認識される存在となっていく。
そしてこれまでにも増して激しく、外部への略奪を行うようになる。
李満住、ファンチャ(凡察)らとともに、朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。
壮丁(成人男子)が多く、武力の強い酋長は他部族を略奪するようになるのが、女真人の社会の普遍的概念であった。
明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、明の正統年間の「土木の変」以後だった。
「土木の変」は、女真族が圧倒的な存在としてあがめていた明の皇帝が、
あろうことかモンゴルの一派オイラトのエセン・ハーンの捕虜になるという事件である。
目に見えやすいパワーがすべての判断基準である原始的段階にある彼らにとって、
これほどわかりやすい権威の失墜もなかった。
「明、恐るるに足らず」と、すっかりこれまでの価値観を改めたドンシャンらは、日増しに大胆になっていったのである。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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