女真族による人間の拉致例をいくつか挙げてみよう。
朝鮮の「李氏実録」には、次のとおり記録する。
「建州衛の李満住の子リジナハ(李吉納哈)の奴僕・朴右は、建州地区から逃げ出し、朝鮮に逃げてきた。
曰く、自分は遼寧(つまり明の領土の漢人)の人間だが、
李満住の部下の李雄に捕虜にされた後、リジナハに転売され、奴隷として使役されていた、
少しでも失敗するとひどい折檻を受けたので、耐えられず、逃げたという」
また別の例として、同じく「李氏実録」にこうある。
「朝鮮王から都万戸を授けられた李満住の子リトウリ(李豆里)は、その漢人の奴僕・汪仲武に襲われて殺され、
汪と妻の三姐(同じく奴隷の漢人)は朝鮮に逃げ込んだ」
こうして朝鮮は、女真から逃亡してきた漢人を大量に受け容れることとなり、彼らを明の領域である遼寧までたびたび護送した。
その数は、明初の洪武二十五年から景泰三年(一三九二から一四五二)までの六十年で八百三十人にものぼる。
もちろん朝鮮領地まで逃げおおせた人たちは、たまたま幸運だっただけであり、
その背後には、逃げられずにそのまま使役されていた人たちの方が、膨大な数にのぼったことだろう。
女真人が朝鮮から一度に千人の奴隷を捕まえて帰っていったという記録もある。
一方、明側の侵略被害は、さらに大規模である。
明国の方が人口が多く、国境線を接する距離も長いことを考えれば、当然である。
明の記録によると、
「一年の侵略回数九十七回、死者・捕虜の数、十数万人」、
「開原から遼陽までの六百万里、数万人が襲われる」
という激しさだ。
明の朝廷が、いつまでもこの状態を座視しているわけはない。
土木の変に伴う一連の混乱が落ち着いた成化三年(一六四七)正月、明は、錦衣衛帯俸署の都指揮使・武宗賢を通して、
ドンシャン(董山)らに警告を出す。
これまでの不法行為は、今後改めるなら許す、と。
明の朝廷が、ようやく動いたのである。
明の朝廷は土木の変後、しばらくは大混乱に陥っており、
辺境の少数民族が少々悪さをしようが、とてもそれにかまっている余裕はなかった時期が長く続いた。
なにしろ皇帝がモンゴルに拉致されるわ、
その後は息つく暇もなく、モンゴルのエセンハーンが首都の北京を攻めてくるわ、で
明の朝廷は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
やっとの思いで首都防衛戦を戦い抜き、エセンハーンを遠く草原に追い返すと、
今度はエセンハーンが、頼みもしないのに、拉致した皇帝を送り返してきた。
明側では、すでにその弟を景泰帝として即位させており、今さら前の皇帝を送り返されてもその処置に困った。
最終的には、弟が廃位させられて兄が復活するが、
その間、政情の混乱がおさまることはなく、北辺で暴れまわる女真族も放置されていた、というのが実情である。
ドンシャンらは、その隙に乗じて、好き放題しでかしていたというわけである。
明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、
対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。
明から使者が来て意見をされたことで、さすがにまずいとドンシャン(董山)も思ったらしい。
明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。
明の軍隊は、兵数の桁が違う。
土木の変で動員した兵力数は、五十万人。
世界的に見ても他の地域と比べたら、確実にゼロ一つは違うような、すさまじい人口規模の中原世界である。
かたや女真族は、漢族や朝鮮族を千人拉致して来るにもひいひい言っている次元なのだ。
明を本気で怒らせることだけはまずいことは、ドンシャンにもわかったことだろう。
ドンシャンは、恭順を示すために北京に入朝することとなった。
自身の一族から十数人、建州右衛都督同知のナランハ(納朗哈)らを筆頭とする三衛の頭目ら百人とともに入朝し、馬、豹の毛皮などを献上した。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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朝鮮の「李氏実録」には、次のとおり記録する。
「建州衛の李満住の子リジナハ(李吉納哈)の奴僕・朴右は、建州地区から逃げ出し、朝鮮に逃げてきた。
曰く、自分は遼寧(つまり明の領土の漢人)の人間だが、
李満住の部下の李雄に捕虜にされた後、リジナハに転売され、奴隷として使役されていた、
少しでも失敗するとひどい折檻を受けたので、耐えられず、逃げたという」
また別の例として、同じく「李氏実録」にこうある。
「朝鮮王から都万戸を授けられた李満住の子リトウリ(李豆里)は、その漢人の奴僕・汪仲武に襲われて殺され、
汪と妻の三姐(同じく奴隷の漢人)は朝鮮に逃げ込んだ」
こうして朝鮮は、女真から逃亡してきた漢人を大量に受け容れることとなり、彼らを明の領域である遼寧までたびたび護送した。
その数は、明初の洪武二十五年から景泰三年(一三九二から一四五二)までの六十年で八百三十人にものぼる。
もちろん朝鮮領地まで逃げおおせた人たちは、たまたま幸運だっただけであり、
その背後には、逃げられずにそのまま使役されていた人たちの方が、膨大な数にのぼったことだろう。
女真人が朝鮮から一度に千人の奴隷を捕まえて帰っていったという記録もある。
一方、明側の侵略被害は、さらに大規模である。
明国の方が人口が多く、国境線を接する距離も長いことを考えれば、当然である。
明の記録によると、
「一年の侵略回数九十七回、死者・捕虜の数、十数万人」、
「開原から遼陽までの六百万里、数万人が襲われる」
という激しさだ。
明の朝廷が、いつまでもこの状態を座視しているわけはない。
土木の変に伴う一連の混乱が落ち着いた成化三年(一六四七)正月、明は、錦衣衛帯俸署の都指揮使・武宗賢を通して、
ドンシャン(董山)らに警告を出す。
これまでの不法行為は、今後改めるなら許す、と。
明の朝廷が、ようやく動いたのである。
明の朝廷は土木の変後、しばらくは大混乱に陥っており、
辺境の少数民族が少々悪さをしようが、とてもそれにかまっている余裕はなかった時期が長く続いた。
なにしろ皇帝がモンゴルに拉致されるわ、
その後は息つく暇もなく、モンゴルのエセンハーンが首都の北京を攻めてくるわ、で
明の朝廷は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
やっとの思いで首都防衛戦を戦い抜き、エセンハーンを遠く草原に追い返すと、
今度はエセンハーンが、頼みもしないのに、拉致した皇帝を送り返してきた。
明側では、すでにその弟を景泰帝として即位させており、今さら前の皇帝を送り返されてもその処置に困った。
最終的には、弟が廃位させられて兄が復活するが、
その間、政情の混乱がおさまることはなく、北辺で暴れまわる女真族も放置されていた、というのが実情である。
ドンシャンらは、その隙に乗じて、好き放題しでかしていたというわけである。
明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、
対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。
明から使者が来て意見をされたことで、さすがにまずいとドンシャン(董山)も思ったらしい。
明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。
明の軍隊は、兵数の桁が違う。
土木の変で動員した兵力数は、五十万人。
世界的に見ても他の地域と比べたら、確実にゼロ一つは違うような、すさまじい人口規模の中原世界である。
かたや女真族は、漢族や朝鮮族を千人拉致して来るにもひいひい言っている次元なのだ。
明を本気で怒らせることだけはまずいことは、ドンシャンにもわかったことだろう。
ドンシャンは、恭順を示すために北京に入朝することとなった。
自身の一族から十数人、建州右衛都督同知のナランハ(納朗哈)らを筆頭とする三衛の頭目ら百人とともに入朝し、馬、豹の毛皮などを献上した。
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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
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