いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

「雑居四合院」の人びと1、胡同の長屋暮らし

2011年05月01日 11時06分50秒 | 北京雑居四合院の人々
以下の文章は、


2004年前後、オリンピックを目前に控えた北京で起こった町並み保存運動に関する一連の動きについて、
興味にかきたてられ、書いたものです。



あれから6年がたった今、取り壊されるべき建物は、
とうの昔にブルドーザーになぎ倒されて陰も形もなく、
ひたすらつわものどもが夢の跡の感ですが、
当時の熱気というものがあり、
いくらかそれが伝わってくるものがあれば、
それはそれなりに一つの記録なのではないか、と思っています。



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北京を成す風景といえば、言わずと知れた紫禁城と胡同(フートン=横丁)の存在だろう。

 


灰色一色の煉瓦作り。


黄砂が吹き溜まり、ぺんぺん草の恣(ほしいまま)に繁殖するすすけた屋根瓦。
年に一度、春節にだけ貼りかえられる、
当初は目の覚めるような深紅が攻撃的に視線を占拠としていた春聯(しゅんれん)が、
屋根つきの門構えの両脇で次第に日常生活の中、北国の殺傷力の強い太陽の光に色褪せ、
風雨に破かれ、はたはたと強風に凄涼たる音をなびかせる。

 


鈍く油光りした朽ちかけた頑丈な門が、住人が通るたびにがたりがたりと億劫な蝶番(ちょうつがい)の音を鳴らせる。

 

「胡同(フートン)」が今、急激に姿を消そうとしている。



2008年のオリンピック開催が決定してからは特に街の再開発のピッチに拍車がかかった。
ブルドーザーの轟音とともに胡同は消えつつある。

 
世界中からこれを惜しむ声が広がるが、大きなうねりをとめることはできそうにない。
胡同とともに、人口も大刷新が行われつつある。


長年苦楽を共にした隣近所がばらばらに立ち退き、
古い下町の住民は、市の中心部から数十kmも離れた郊外に追いやられ、
代わりに新たな「勝ち組」となった全国各地の富裕層が住みつきつき始めた。



「大雑院(ターザーユエン)」

 反語的に聞こえるようではあるが、清朝滅亡の前にもすでに貧乏な満州族がいた。

 

本来なら統治者階級として裕福であるべきだ満州族だが、
清朝末期ともなると、人口が増えすぎて兵役にもありつけず、
生活力のなさのため、屋敷や庄園を切り売りして生活する旗人(きじん、八旗に所属する人=満州族を中心とする特権階級)が多かった。

 

その後、清朝が滅亡すると、その没落には拍車がかかる。
数百年と政権の庇護を受けて生活力を失っていた旗人らは、
突然、熾烈な競争社会に放り出されて坂道を転がり落ちるように急迫して行き、
次々と屋敷を漢人に売り払った。

 

時には最初から売り払うのではなく、生活の足しになるように屋敷の間貸しを始めることもあった。
華北の典型的建築スタイルである四合院は、
日当たりが一番いい、気持ちのいい南向きの部屋に主人が住む。


北向きの部屋は、じめじめと湿気が多く、
冬は薄ら寒いため、使用人に住まわせたり、物置にする。
 

そこで貸し出すなら、まずは自分が絶対住みたくない北向きの部屋から貸し出す。
さらに貧窮してくると東向きと西向きも貸し出す。

 
こうして大屋と間借り者が雑居する状態となる。
それがさらに困窮すると屋敷ごと売っ払う。

 

買い取り手は自分が住まずにいっそのこと全部人に貸して家賃を取り、
「大雑院(ターザーユエン=雑居四合院)」となるわけである。

 

共産党政権になってからは、この傾向にさらに拍車がかかる。
全員平等を原則とするため、一人で多くの部屋を占拠することは許されない。
没収されて他の人に分配された。




王さんの場合




 


中国人の友人に、胡同に住む知り合いはいないかと聞き、
紹介してもらったお宅を訪ねる機会を得た。 



尋ねたのは小堂胡同に住む王さん。
西単の高層ビルと現代的なショッピングモールの横に唯一残る胡同集落だ。
北数百メートルの部分も派手に取り壊している最中だった。




写真: 「大雑院」の入り口



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