あんてぃーく倶楽部 の主催で、
清の東陵への遠足があり、それに参加してまいりましたー。
まずは場所の確認です。
(百度地図より)
北京より東に125㎞。
西陵との位置関係も上記のとおり。
今回、回ったのは、
定東陵: 西太后の陵墓
裕陵妃園陵: 香妃墓がある
裕陵: 乾隆帝の陵墓
景陵: 康熙帝の陵墓
景区内を走るオープンカー・スタイルの電気自動車を活用しつつまわっても、
別の参加者さんの万歩計の数字は、1万3千歩ー!
4か所回ったところで撃沈ー。
残りは、また次回の楽しみということになります。
さて。東陵に関する概要的なものに触れると--。
伝統的な風水の思想によって建てられた東陵は、中原に入って最初の皇帝・順治帝の孝陵が、中軸線上に。
他の陵墓は、孝陵を中心として、左右に翼を広げるようにして展開する。
孝陵の左が康熙帝の景陵、さらにその左に同治帝の恵陵。
孝陵の右は乾隆帝の裕陵、さらにその左に咸豊帝の定陵。
「居中為尊」、「長幼有序」――だそうである。
1933-1945年まで、東陵は日本軍の占領下に置かれた。
当時、満洲国の皇帝になっていた溥儀の先祖の墓を守る、という大義名分があったらしい。
1928年、軍閥の孫殿英が東陵を暴いたと知った時、
当時天津で暮らしていた溥儀の元にその知らせが届くと、彼は号泣したといわれるのだから、
占領の是非如何、という歴史の善悪の審判は別においておいて、
少なくとも陵区内の秩序が守られ、さらなる盗掘が行われないように見張る軍隊が駐留したことは、
当時の時代背景としては、ある程度の必然の結果だったのかもしれない。
当時、すでに地元の墓守り人の後裔らが清朝滅亡で生活に窮乏し、陵区内の木を伐採して現金に換えていたために、
景観が損なわれていたが、木を植え直し、荒れ果てていた各陵墓を修繕した。
日本の敗戦に伴い、その管轄権はそのまま共産党に移って現在に至る。
康熙帝の陵墓・景陵の前の神道の石像。
景陵。
青空がまぶしいー!
郊外に出ると、なんと言っても、これが喜びですなー!
順治年間、この場所を陵墓に勧めたのは、
恐らくほとんどは明末からの伝統が大して失われることなく、継承されてきた欽天監の官僚たちである。
この地は明の永楽帝も当初、陵墓の候補地として選んだ場所だという。
その後、今の『明の十三陵』がある昌平の方が近いので、この地を選ばなかったという経緯がある。
それくらい風水的に理想的な場所として、際立っていたということだろう。
三方の山が「五羽の鳳凰」が羽根を広げたよう、というらしい。
頭もあれば嘴もあり、尻尾も翼も見事に表現されている、と・・・。
そう言われて見ると、確かに何だか優雅に見えてくるかしら・・・・。
オーブン式電気自動車で景区内をドライブ。
降りたくなくなるくらい心地いいです・・・。
今回、残念ながら、順治帝の孝陵には、時間とスタミナ切れ(爆)でいけなかったが、
孝陵に関しては、印象深いエピソードが残っている。
順治帝が母后・孝庄皇太后を伴い、父帝ホンタイジの陵墓を瀋陽に参拝に行った際、
道中、通州で大運河の補修を行っており、童男童女らが歌を歌いながら、堤防の修復作業などを行っていた。
作業員にしてはあまりにも幼く、しかもとても戦力となるとは思えない童女も同じくらいの数混じっていることに
順治帝が違和感を覚えてわけを聞いた。
すると、童男童女の歌声は、生命力と吉祥にあふれている、
特にその澄んだ歌声を堤防の中に閉じ込めるように歌いながら作業をすれば、
堅牢なものになるのだ、という答えが返ってきた。
その言葉にいたく感動した順治帝は、自分の陵墓を作る時も
同じように童男童女の歌声で土台を突き固めてもらいたいものだ、そうすれば未来永劫に強固な土台となるだろう、と言った--。
それから数年後、予想だにしなかったことに、順治帝が若くしてなくなり、その陵墓はなお建設の計画の途中、
まだ更地のままだった。
そこで母・孝庄皇太后は、息子の生前の言葉どおり、遵化州の行政区内で童男童女を集めるよう命じた。
その結果、天真爛漫で生命力に溢れた、見目麗しく、スタイルがよい(どんなんや!)童男童女を9981ペアを選び出した。
5-6回の選抜作業を経て、数百ペアが選び出された。
工事監督は、その男女のペアを背の高さ、体格、声の高低ごとに分け、一組9ペア、合計9組ごとに編成。
さらに各組から一人、見目麗しく、涼やかな佇まいで声の美しいリーダーを選び出した。
地面を突き固める作業は、リーダーがそのための歌を一節歌い、隊員がそのあとに続きながら歌うということを繰り返し、
本殿から地下宮殿に至るまでつき固めて行ったという・・・。
孝陵以外にも東陵では、この方法で童男童女を使って工事された陵墓も多いとか・・・・。
想像しただけでも、壮観な絵図だろうと思う。
恐らく若い男女にとっては、たとえ無給で駆り出される使役の類であったとしても、
突然降って湧いたような巨大な合コンパーティー(歌垣かいな?)の気分だったのだろうし、
選ばれた美男美女らの発する異性に向けたビームなんだか、フェロモンなんだか、秋波なんだか、そのエネルギー量は圧倒的だっただろう。
それを建築物の中に封じ込めれば、さぞ未来永劫に堅牢なものになるに違いない、という願いというか、迷信は、
気持ちがわからないでもない、微笑ましいものだ。
若い男女らにとっても、普段は隣村の若者と知り合うことさえ難しいような交通・社会環境の中で、
眩暈もするほどのうきうきわくわくのイベントだったに違いない。
皇帝さま、なかなか粋な計らいだと思う(笑)・・・・。
・・・ところで、中国は伝統的に男女ともに、外見が出世の重要なスペックになってくる社会だと感じる。
中国に限らず、格差が大きく、権力者の旨みが強い社会では、
弁才と見目麗しい佇まいが、数少ない勝ち組に入るための強力な切符となるという。
オバマ大統領が、どこぞの指導者は、髪の毛を染めているが、自分はしない、と
皮肉ったそうだが、美男美女の威力が大きい特徴は、
今の社会にも生き続けているのかもしれない、と時々思う。
康熙帝・景陵の前のお堀。
水が入っていません。完全なるメンテの手抜き(笑)。
裕陵や定東陵のお堀には、水が張ってありましたからねー。
景陵は、地下宮殿も開放されておらず、裏の土饅頭の上に登る部分も開放されていない。
正面の隆恩殿に入るほか、見どころがないので、
裕陵や定東陵と比べると、人も少ない。
お土産屋さんは閉まっているし、あちこちで見られる孔雀(生きている本物!)とのツーショットが撮れる写真屋さんも
造花をあしらった白いブランコだけを打ち捨てて無人・無禽(笑)。
宮殿の前の石彫。
龍が皇帝を、鳳凰が皇后を現すから、
皇帝と皇后が眠っている、ということを表しているのだと思う・・・。
両側が階段になっていて、お輿をかつぐ轎夫が両側を通り、
お輿はこの彫刻の中空を通って行く演出になっておる。
清の西陵篇でもずっと見て来たが、
雍正帝の即位には、多すぎる兄弟からさまざまな圧力がかかり、暴風雨の中でその治世が始まった。
雍正帝は、兄弟らを亡き父帝の葬儀に集中させることで、余計な陰謀をたくらむ時間と労力をそぎ落とそうと考えた。
そのために、世にも壮大な葬儀を計画し、兄弟らをそれぞれその中に巻き込んで行く。
服喪期間三年の間は、肉食を絶ち、喪服着用を求めるほか、葬儀の執り行いにも空前絶後の費用をかけ、一切惜しむことがなかった。
--雍正帝はケチ
というイメージが強いが、彼にしては珍しい大盤振る舞いは、自らの地位の安定のため、必要な予算と見極めたのだろう。
康熙帝・景陵
康熙帝は、清朝の皇帝の中で最初に土葬された皇帝でもある。
順治帝以前、満州族の風習では、遺体はすべて火葬されていた。
森林の中で狩りをして生活していた満州族にとって、遺体は持ち運べないし、
置いていくには、心が痛んだ。
このあたりは、馬車の上に乗せて、死体をいつの間にか振り落すというモンゴル人の習慣や、
禿鷹に食わせるというチベット族の天葬の習慣とも違う。
大針葉樹林の中で暮らしていた彼らには、火葬をするための木材がたっぷりあった。
そして火葬しなければ、浅い地層なら掘り返して食べてしまうオオカミのような動物が、森にはたくさんおり、
オオカミに食い散らされることを納得できなかったのもあるのだろう。
--皇帝として、初めて土葬される遺体として、
巨大な棺桶は、二万人の官僚と役夫がその護送に同伴した。
二万人ともなると、行列があまりにも長くなりすぎてしまう、と、ニ路に分けて向かうという規模の陣容である。
一路は、雍正帝自らが父の棺を擁して進み、もう一路は皇后が先頭に立って進んだ。
北京から東陵まで道中300里あまり、沿路には弔いの儀式を行うための場所を5ヶ所設けた。
柵でまるく囲んで入口に[方生]門(天幕を張って作った行宮の入口の両脇に旗を立てて、門に見立てたもの)を立て、
敷地内には、黄幔城(皇帝の寝室となる天幕)と棺を臨時の安置する芦殿を設ける。
朝晩に行列を組んで儀礼を行う。
道中、どこかの門をくぐること、橋を渡ることがあれば、
まずは大臣が進み出て酒を祭り、紙銭を燃やしてから進んで行った。
重厚な棺は、60班、合計7960人が交替しながら運び、
道中、百里以内の文武百官が皆、哀悼に駆けつける、という賑やか極まりない陣営のまま、東陵に到着した。
ぽちっと押してくださると、励みになります!
清の東陵への遠足があり、それに参加してまいりましたー。
まずは場所の確認です。
(百度地図より)
北京より東に125㎞。
西陵との位置関係も上記のとおり。
今回、回ったのは、
定東陵: 西太后の陵墓
裕陵妃園陵: 香妃墓がある
裕陵: 乾隆帝の陵墓
景陵: 康熙帝の陵墓
景区内を走るオープンカー・スタイルの電気自動車を活用しつつまわっても、
別の参加者さんの万歩計の数字は、1万3千歩ー!
4か所回ったところで撃沈ー。
残りは、また次回の楽しみということになります。
さて。東陵に関する概要的なものに触れると--。
伝統的な風水の思想によって建てられた東陵は、中原に入って最初の皇帝・順治帝の孝陵が、中軸線上に。
他の陵墓は、孝陵を中心として、左右に翼を広げるようにして展開する。
孝陵の左が康熙帝の景陵、さらにその左に同治帝の恵陵。
孝陵の右は乾隆帝の裕陵、さらにその左に咸豊帝の定陵。
「居中為尊」、「長幼有序」――だそうである。
1933-1945年まで、東陵は日本軍の占領下に置かれた。
当時、満洲国の皇帝になっていた溥儀の先祖の墓を守る、という大義名分があったらしい。
1928年、軍閥の孫殿英が東陵を暴いたと知った時、
当時天津で暮らしていた溥儀の元にその知らせが届くと、彼は号泣したといわれるのだから、
占領の是非如何、という歴史の善悪の審判は別においておいて、
少なくとも陵区内の秩序が守られ、さらなる盗掘が行われないように見張る軍隊が駐留したことは、
当時の時代背景としては、ある程度の必然の結果だったのかもしれない。
当時、すでに地元の墓守り人の後裔らが清朝滅亡で生活に窮乏し、陵区内の木を伐採して現金に換えていたために、
景観が損なわれていたが、木を植え直し、荒れ果てていた各陵墓を修繕した。
日本の敗戦に伴い、その管轄権はそのまま共産党に移って現在に至る。
康熙帝の陵墓・景陵の前の神道の石像。
景陵。
青空がまぶしいー!
郊外に出ると、なんと言っても、これが喜びですなー!
順治年間、この場所を陵墓に勧めたのは、
恐らくほとんどは明末からの伝統が大して失われることなく、継承されてきた欽天監の官僚たちである。
この地は明の永楽帝も当初、陵墓の候補地として選んだ場所だという。
その後、今の『明の十三陵』がある昌平の方が近いので、この地を選ばなかったという経緯がある。
それくらい風水的に理想的な場所として、際立っていたということだろう。
三方の山が「五羽の鳳凰」が羽根を広げたよう、というらしい。
頭もあれば嘴もあり、尻尾も翼も見事に表現されている、と・・・。
そう言われて見ると、確かに何だか優雅に見えてくるかしら・・・・。
オーブン式電気自動車で景区内をドライブ。
降りたくなくなるくらい心地いいです・・・。
今回、残念ながら、順治帝の孝陵には、時間とスタミナ切れ(爆)でいけなかったが、
孝陵に関しては、印象深いエピソードが残っている。
順治帝が母后・孝庄皇太后を伴い、父帝ホンタイジの陵墓を瀋陽に参拝に行った際、
道中、通州で大運河の補修を行っており、童男童女らが歌を歌いながら、堤防の修復作業などを行っていた。
作業員にしてはあまりにも幼く、しかもとても戦力となるとは思えない童女も同じくらいの数混じっていることに
順治帝が違和感を覚えてわけを聞いた。
すると、童男童女の歌声は、生命力と吉祥にあふれている、
特にその澄んだ歌声を堤防の中に閉じ込めるように歌いながら作業をすれば、
堅牢なものになるのだ、という答えが返ってきた。
その言葉にいたく感動した順治帝は、自分の陵墓を作る時も
同じように童男童女の歌声で土台を突き固めてもらいたいものだ、そうすれば未来永劫に強固な土台となるだろう、と言った--。
それから数年後、予想だにしなかったことに、順治帝が若くしてなくなり、その陵墓はなお建設の計画の途中、
まだ更地のままだった。
そこで母・孝庄皇太后は、息子の生前の言葉どおり、遵化州の行政区内で童男童女を集めるよう命じた。
その結果、天真爛漫で生命力に溢れた、見目麗しく、スタイルがよい(どんなんや!)童男童女を9981ペアを選び出した。
5-6回の選抜作業を経て、数百ペアが選び出された。
工事監督は、その男女のペアを背の高さ、体格、声の高低ごとに分け、一組9ペア、合計9組ごとに編成。
さらに各組から一人、見目麗しく、涼やかな佇まいで声の美しいリーダーを選び出した。
地面を突き固める作業は、リーダーがそのための歌を一節歌い、隊員がそのあとに続きながら歌うということを繰り返し、
本殿から地下宮殿に至るまでつき固めて行ったという・・・。
孝陵以外にも東陵では、この方法で童男童女を使って工事された陵墓も多いとか・・・・。
想像しただけでも、壮観な絵図だろうと思う。
恐らく若い男女にとっては、たとえ無給で駆り出される使役の類であったとしても、
突然降って湧いたような巨大な合コンパーティー(歌垣かいな?)の気分だったのだろうし、
選ばれた美男美女らの発する異性に向けたビームなんだか、フェロモンなんだか、秋波なんだか、そのエネルギー量は圧倒的だっただろう。
それを建築物の中に封じ込めれば、さぞ未来永劫に堅牢なものになるに違いない、という願いというか、迷信は、
気持ちがわからないでもない、微笑ましいものだ。
若い男女らにとっても、普段は隣村の若者と知り合うことさえ難しいような交通・社会環境の中で、
眩暈もするほどのうきうきわくわくのイベントだったに違いない。
皇帝さま、なかなか粋な計らいだと思う(笑)・・・・。
・・・ところで、中国は伝統的に男女ともに、外見が出世の重要なスペックになってくる社会だと感じる。
中国に限らず、格差が大きく、権力者の旨みが強い社会では、
弁才と見目麗しい佇まいが、数少ない勝ち組に入るための強力な切符となるという。
オバマ大統領が、どこぞの指導者は、髪の毛を染めているが、自分はしない、と
皮肉ったそうだが、美男美女の威力が大きい特徴は、
今の社会にも生き続けているのかもしれない、と時々思う。
康熙帝・景陵の前のお堀。
水が入っていません。完全なるメンテの手抜き(笑)。
裕陵や定東陵のお堀には、水が張ってありましたからねー。
景陵は、地下宮殿も開放されておらず、裏の土饅頭の上に登る部分も開放されていない。
正面の隆恩殿に入るほか、見どころがないので、
裕陵や定東陵と比べると、人も少ない。
お土産屋さんは閉まっているし、あちこちで見られる孔雀(生きている本物!)とのツーショットが撮れる写真屋さんも
造花をあしらった白いブランコだけを打ち捨てて無人・無禽(笑)。
宮殿の前の石彫。
龍が皇帝を、鳳凰が皇后を現すから、
皇帝と皇后が眠っている、ということを表しているのだと思う・・・。
両側が階段になっていて、お輿をかつぐ轎夫が両側を通り、
お輿はこの彫刻の中空を通って行く演出になっておる。
清の西陵篇でもずっと見て来たが、
雍正帝の即位には、多すぎる兄弟からさまざまな圧力がかかり、暴風雨の中でその治世が始まった。
雍正帝は、兄弟らを亡き父帝の葬儀に集中させることで、余計な陰謀をたくらむ時間と労力をそぎ落とそうと考えた。
そのために、世にも壮大な葬儀を計画し、兄弟らをそれぞれその中に巻き込んで行く。
服喪期間三年の間は、肉食を絶ち、喪服着用を求めるほか、葬儀の執り行いにも空前絶後の費用をかけ、一切惜しむことがなかった。
--雍正帝はケチ
というイメージが強いが、彼にしては珍しい大盤振る舞いは、自らの地位の安定のため、必要な予算と見極めたのだろう。
康熙帝・景陵
康熙帝は、清朝の皇帝の中で最初に土葬された皇帝でもある。
順治帝以前、満州族の風習では、遺体はすべて火葬されていた。
森林の中で狩りをして生活していた満州族にとって、遺体は持ち運べないし、
置いていくには、心が痛んだ。
このあたりは、馬車の上に乗せて、死体をいつの間にか振り落すというモンゴル人の習慣や、
禿鷹に食わせるというチベット族の天葬の習慣とも違う。
大針葉樹林の中で暮らしていた彼らには、火葬をするための木材がたっぷりあった。
そして火葬しなければ、浅い地層なら掘り返して食べてしまうオオカミのような動物が、森にはたくさんおり、
オオカミに食い散らされることを納得できなかったのもあるのだろう。
--皇帝として、初めて土葬される遺体として、
巨大な棺桶は、二万人の官僚と役夫がその護送に同伴した。
二万人ともなると、行列があまりにも長くなりすぎてしまう、と、ニ路に分けて向かうという規模の陣容である。
一路は、雍正帝自らが父の棺を擁して進み、もう一路は皇后が先頭に立って進んだ。
北京から東陵まで道中300里あまり、沿路には弔いの儀式を行うための場所を5ヶ所設けた。
柵でまるく囲んで入口に[方生]門(天幕を張って作った行宮の入口の両脇に旗を立てて、門に見立てたもの)を立て、
敷地内には、黄幔城(皇帝の寝室となる天幕)と棺を臨時の安置する芦殿を設ける。
朝晩に行列を組んで儀礼を行う。
道中、どこかの門をくぐること、橋を渡ることがあれば、
まずは大臣が進み出て酒を祭り、紙銭を燃やしてから進んで行った。
重厚な棺は、60班、合計7960人が交替しながら運び、
道中、百里以内の文武百官が皆、哀悼に駆けつける、という賑やか極まりない陣営のまま、東陵に到着した。
ぽちっと押してくださると、励みになります!