落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>老人の祈り  詩71

2011-02-14 19:38:07 | 講釈
S11E07 Ps071(L) 顕現後第7主日 2011.2.20
<講釈>老人の祈り  詩71
1. 老人の祈り
詩71は「老人の祈り」と呼ばれている。その根拠は9節の「年老いた時もわたし」と18節の「年老いて白髪になったわたし」という言葉による。内容的にも5節の「若い時から」とか17節の「若い時から」という言葉が見られ、老人が若かった頃のことを思い起こしている様子がうかがえる。
2. 詩71の構成
この詩の1節から3節までの文章は詩31の1節から3節までのほとんど同じ文章であり、その他にも何ヶ所か詩22と同じ文章が見られる。一応、この詩をほかの詩と重なる文章をリストアップすると以下のようになる。
1-3   31:1-3
6    22:9-10
7a    31:11
12a 22:11a
12b 38:22, 40:14
13 35:4, 26
18b 22:30, 31
19 36:6
ある聖書注解者はこれらの類似した語句や表現を摘出し、詩71はまるでパッチワークのようだと評する。その意味では確かに詩71には表題もなく、オリジナルな詩というよりもベテラン詩人だからこそ可能な、複数の詩からの引用によって構成された詩であろう。詩人は若い頃から多くの詩に触れ、学び、記憶し、語ってきたのであろう。それらが呼び寄せられて一つの独自の詩を形成している。詩の構成は3部に分けられ、全体としてスッキリとした詩形となっている。
第1部(1-8節)は、苦難の中で神を信頼する言葉が述べられ、最後(8節)は賛美の歌となる。
第2部(9-16節)も、神への信頼が述べられ、最後に神の正義をほめ歌う言葉で結ばれる。
第3部(17-24節)は、神のみ業を次代に語ることを決意し、19節以下で神への大賛美となる。
3. 詩71の味わい
この詩は何か特別な経験や出来事があって、そこから生まれてくる詩人の感性によるものというよりも、いろいろな人たちとの出会いの中で人生というものを経験してきた詩人による「技巧的な詩」であろう。詩人はいろいろな人生と出会い、それらを通して個人的な経験を越えた人生そのものとでもいうべきものを味わうのである。それは文学というものの本質でもある。人の書いた小説によって読者は自分は経験していない人生を経験する。
人生において神を砦とするとはどういうことなのか。私に、そしてそれは同時に誰でもが経験する神の不思議なみ業とは何だったか。神は私を何から守ってくださったのか。神の正義とは何か。そのような人間に普遍的な経験が歌われている。
そういう詩の場合はいろいろな解説は不要でただ繰り返し読む、声を出して詠み、自分自身の経験と重ね合わせて考えることが重要である。ただ、残念ながら詩人は2000年から3000年ほど前のヘブライ人で、詩そのものはヘブライ語で書かれ、私たちはそれを日本語で読む。そこで翻訳上のさまざまなことを解きほどく必要があるであろう。その内の2~3の問題を解説しておく。
4. 翻訳上のいくつかの問題
先ず1節の「逃れる」という単語。これを「にげる」と読むのと「のがれる」と読むのとではかなりニュアンスが異なる。新共同訳では「身を寄せる」と訳している。典礼委員会訳ではひらがなで「のがれる」と表記している。口語訳では「寄り頼む」、新改訳では「身を避けています」と訳している。これだけ比べるだけでも原文はかなり含蓄のある言葉だということが想像される。この単語のもともとの意味は「逃げ込む」という意味で、何か危険なことがあったら、そこに逃げ込む避難所(シェルター)を意味している。関根先生はここを名詞化して「あなたをわたしは避け所としています」と訳している。もっともここは動詞なので「主よ、わたしはあなたの中に逃げ込みます」というのがもっとも単純な翻訳であろう。ただ、この単語は詩編では非常に重要で、詩2:13でも用いられている。そこでは「幸せな人、それはすべて神に寄り頼む人」と訳されている。詩1と詩2とはセットになって詩編全体の序詞の役割を果たしている、ということを考え合わせると詩編全体の重要なテーマの一つでもあろう。
6節の「寄りどころ」という言葉も興味深い。「あなたはわたしの寄りどころ」、しかも「生まれたときから」と言う。実はこの言葉はそんなに単純な言葉ではない。新共同訳では「母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました」と訳している。これも何か変な訳である。母胎にいる胎児が神に「よりすがる」だろうか。口語訳では「わたしは生れるときからあなたに寄り頼みました」、これも変な話し。新改訳では「私は生まれたときから、あなたにいだかれています」、これも観念としては理解できるが新生児を抱いているのは母親であろう。この言葉はもっと単純に「支えられていた」、あるいは「守られていた」という意味である。詩人はこの一つの単語によって、生まれた時から年老いた今まで神によって支えられていたということを告白している。その意味では祈祷書訳では5節の最後の「支え」という単語と6節の「よりどころ」という言葉とを入れ替えた方が理にかなっている。このことを受けて7節では「わたしは多くの人から怪しく思われ」てきたという。つまり、この人を巡っていろいろな不思議なこと(17節)が起こり、「怪しまれてきた」と言う。
15-16節はスッと読んでしまうと、ただそれだけで何も疑問に思わないし、心にも留まらない。「わたしは昼も夜もあなたの正義と救いのみ業を告げ知らせる。主の力あるみ業を語り、主よ、あなたのものである正義をわたしはほめ歌う」。しかし、ここを新共同訳と比較するとそれほど単純ではないことが明らかになる。新共同訳ではこうなっている。「わたしの口は恵みのみ業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません。しかし主よ、わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう」。祈祷書訳と比べると何かゴタゴタしているように思う。この部分をもっとも原文に近く翻訳しているのが新改訳である。「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私はその全部を知ってはおりませんが。神なる主よ、私はあなたの大能の業を携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう」。祈祷書訳では「私はその全部を知ってはおりませんが」という散文的な文章がカットされている。新共同訳はこの文章を「なお、決して語り尽くすことはできません」と意訳している。直訳は「私はその数を知りません」である。問題は最後の「わたしはほめ歌う」という文章である。これは意訳しすぎである。原文では「心に留める、あるいは思い出す」という単語が使われている。ここで詩人は「あなただけを、あなたの義だけを心に留めている」。人生も終わりに近づき詩人は人生を振り返る時、あれもこれもではなく、ただ主ご自身と主の正義だけを思い出している。主は正しかった。
20節の「わたしは多くの苦しみと悩みにあうが、あなたはいつも力づけ、地の深みから引き上げて下さる」という訳語もスッキリしていて何の問題も見えない。ところが新共同訳を見ると20節は「あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から再び引き上げてくださるでしょう」と訳されている。問題は「あなたはいつも力づけ」という訳語が新共同訳では「再び命を得させる」と訳されている。ここでは単に励まし、力づけるのではなく、「再び命を得させる」のである。どう違うのか。ここで用いられている「再び」という言葉が鍵である。この部分を原文で見ると「地の深い淵から」という句を「あなたが帰る、あなたが私を生かす」と「あなたが帰る、あなたが私を引き上げる」という同じような言葉が前後から挟む構文になっている。ここで使用されている「帰る」という単語「シューヴ」は帰るという意味とも一つ「再び」という意味がある。それで関根先生はこのシューヴを「再び」と解釈し、この部分を「再びわたしを生かし給う、陰府の深き所から再びわたしを引き上げ給う」と訳している。
続いて21節も翻訳の難しい文章である。「あなたはわたしを高め、再び慰めて下さる」。この文章では「再び」という言葉の示す内容が明らかではない。むしろ必要のない言葉である。祈祷書による文脈から考えても「地の深みから引き上げられ」、さらにそこから「高められ」「慰められる」。この文章の流れは明確でない。この文脈では「再び」という言葉の示す内容が明らかではない。むしろ必要のない言葉である。また新共同訳ではこの部分を「ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう」。ここでの「ひるがえって」という言葉の意味が不明である。この部分に関しては文語訳聖書の訳がもっともスッキリしている。「汝われらを多のおもき苦難にあはせたまへり なんぢ再びわれらを活しわれらを地の深所よりあげたまはん。ねがはくは我をいよいよ大ならしめ歸りきたりて我をなぐさめ給へ」(文語訳では1人称が複数形になっているが、それはマソラテキストによる―――メイズ、364頁)。
関根先生もいわれるように21-22節は翻訳上もっとも難しい部分である。その意味では確定訳というものはほとんどないであろう。しかし詩文の翻訳というものは原文と翻訳文との語句の正確な対応関係に尽きるものではない。一定の長さのフレーズを基本としてそのフレーズが語ろうとしている内容を散文化し、それを詩全体の中でリズム、流れを考慮して詩文化することである。ただし、聖書における詩編の場合は元の言語で表現されている語句にかなりの程度拘束される。この部分を散文化して述べると、要するに「神は私たちに多くの苦しみや悩みに合わせ、私たちはまさに地獄を体験するが、神はそこから私たちを再び立ち上がらせ、名誉を回復してくださる」ということであろう。それが19節と24節で語られている神の正義である。

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