落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第7主日説教 「老人の祈り  詩71」

2011-02-16 16:15:55 | 説教
S11E07 Ps071(S) 顕現後第7主日 2011.2.20
老人の祈り  詩71

1. 老人の祈り
詩71は「老人の祈り」と呼ばれている。その根拠は9節の「年老いた時もわたし」と18節の「年老いて白髪になったわたし」という言葉による。内容的にも5節の「若い時から」とか17節の「若い時から」という言葉が見られ、老人が若かった頃のことを思い起こしている様子がうかがえる。
2. 詩71の構成
この詩の1節から3節までの文章は詩31の1節から3節までのほとんど同じ文章であり、その他にも何ヶ所か詩22や詩35、詩36、詩38等からの引用がある。ある聖書注解者はこれらの類似した語句や表現を摘出し、詩71はまるでパッチワークのようだと評する。だからといってこの詩がいわゆる盗作でオリジナリティがないという訳ではない。むしろ年老いた詩人が若い頃から多くの詩に触れ、学び、記憶し、語ってきて、それらの詩を思い起こし、再構成して一つの独自の詩にしたのであろう。それはベテランの詩人だからこそできた美事な業である。その意味では若い詩人による詩のような荒々しさや、奇を衒ったものは無いが、人生を振り返ってつくづく感じる落ち着いた雰囲気が漂っている。
詩の構成は3部に分けられ、全体としてスッキリとした詩形となっている。
第1部(1-8節)は、苦難の中で神を信頼する言葉が述べられ、最後(8節)は賛美の歌となる。
第2部(9-16節)も、神への信頼が述べられ、最後に神の正義をほめ歌う言葉で結ばれる。
第3部(17-24節)は、神のみ業を次代に語ることを決意し、19節以下で神への大賛美となる。
3. 詩71の味わい
この詩は何か特別な経験や出来事があって、そこから生まれてくる詩人の感性によるものというよりも、いろいろな人たちとの出会いの中で人生というものを経験してきた詩人による「技巧的な詩」であろう。詩人はいろいろな人生と出会い、それらを通して個人的な経験を越えた人生そのものとでもいうべきものを味わうのである。それは文学というものの本質でもある。人の書いた小説によって読者は自分は経験していない人生を経験する。
人生において神を砦とするとはどういうことなのか。私に、そしてそれは同時に誰でもが経験する神の不思議なみ業とは何だったか。神は私を何から守ってくださったのか。神の正義とは何か。そのような人間に普遍的な経験が歌われている。
そういう詩の場合はいろいろな解説は不要でただ繰り返し読む、声を出して詠み、自分自身の経験と重ね合わせて考えることが重要である。ただ、残念ながら詩人は2000年から3000年ほど前のヘブライ人で、詩そのものはヘブライ語で書かれ、私たちはそれを日本語で読む。そこで翻訳上のさまざまなことを解きほどく必要があるであろう。その内の2~3の問題を解説しておく。
4. 15-16節
15-16節はスッと読んでしまうと、ただそれだけで何も疑問に思わないし、心にも留まらない。「わたしは昼も夜もあなたの正義と救いのみ業を告げ知らせる。主の力あるみ業を語り、主よ、あなたのものである正義をわたしはほめ歌う」。しかし、ここを新共同訳と比較するとそれほど単純ではないことが明らかになる。新共同訳ではこうなっている。「わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません。しかし主よ、わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう」。祈祷書訳と比べると何かゴタゴタしているように思う。この部分をもっとも原文に近く翻訳しているのが新改訳である。「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私はその全部を知ってはおりませんが。神なる主よ、私はあなたの大能の業を携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう」。ここで気付くことは、祈祷書訳では「私はその全部を知ってはおりませんが」という文章がカットされている。新共同訳でも「なお、決して語り尽くすことはできません」と翻訳されている。直訳は「私はその数を知りません」である。つまり、この文章で重要なことは昼も夜も語り続けているということではなく、語っても、語っても語り尽くせないということである。一生かけてもお返しすることができない恵みを受けているという文章なのである。
この部分でもう一つ重要なことは、最後の「わたしはほめ歌う」という文章である。新共同訳も「ひたすら恵みの御業を唱えましょう」と訳されている。結論から言うと、これは意訳しすぎである。原文では「心に留める、あるいは思い出す」という単語が使われている。ここで詩人は「あなただけを、あなたの義だけを心に留めている」。人生も終わりに近づき詩人は人生を振り返る時、あれもこれもではなく、ただ主ご自身と主の正義だけを思い出している。主は正しかった。20節で詩人は「わたしは多くの苦しみと悩みにあうが、あなたはいつも力づけ、地の深みから引き上げてくださる」。しかし今それらを振り返るとき、主がなされたことは全て正しかった、と詩人は言う。

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