落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>地主と管理人の話 ルカ16:1-13

2013-09-15 13:31:48 | 講釈
みなさま
台風18号が日本に接近中、東京以北が危ないらしい。ただ今、九州でも強風がうなりをあげて吹き荒れています。福島、宮城は大丈夫か。心配です。今回の説教は田川健三さんの『イエスという男』と「訳と註」の影響を受けています。また、日本基督教団出版局発行の「説教者のための聖書講解、釈義から説教へ」の当該部分、関根寛雄さんのものも参照しました。その上で、わたし自身の想像力を加えてイエスの話を解読いたしました。このテキストは説教者が聖書をいかに読み解くのかという姿勢が試みられます。その意味で非常に興味深い箇所です。説教では、時間の制約もあり、イエスの語りに集中するため、あえて10節以下を取り上げません。

S13CT20(L)
2013.9.22
聖霊降臨後第17主日(特定20)
<講釈>地主と管理人の話 ルカ16:1-13

1.まえがき
今回の説教は、従来の説教の形にとらわれず、思い切ってイエスの話そのものを丁寧に読み解くこととする。そこで先ず問題になるのは、イエスがこの話をしたのが紀元30年代でルカが福音書を書いたのがおよそ80年代から90年代だとすると、その間、約50年から60年ほどの期間、口伝によって伝えられたと考えられる。そこで当然その期間にいろいろな人の語りを通して伝えられた訳で、語り手の語る目的(生活の座、sitz im Leben)や語り手の価値観によって改変を受けたであろう。しかし、何よりも、もしこの物語が語り伝えられる価値がなければ消滅してしまったであろう。マタイもマルコも、ヨハネもこの物語を採用していないという事実がそのことを証明している。単純に一読すると、この物語がかなり深刻な問題をはらんでいることは明白であるが、にもかかわらず、イエスを主とする集団の中で語り繋がれて来たという事実がこの物語がイエス自身にまで遡ることが出来るという証拠であろう。
この物語が誰によってどういう改変を受けたのかということを明確にすることはほとんど不可能である。ただ、この物語そのものが語ろうとするモチーフを明白にすることによって、改変を推測するしかない。先ず、物語そのものに入る前に、この物語がルカ福音書の中でおかれている場所について考えておこう。これは16章の初めに置かれているがこれは15章の続きの部分である。15章では3つの「譬え話」が書かれており、16章のこの物語もその続きだと思われる。16章14節以下は「この一部始終を聞いて」からの議論ということになっている。従って、15章の初めから16章の13節までは一応イエスの話というように設定され、4つの「譬え話」をされたという。ただ、4番目の話においては、「弟子たちにも」という語があり、その前の3つの喩えとは一線を画している。おそらく伝承の初期からこの物語は弟子たちへの教えとして伝えられたのであろう。
さて、もう一点、ルカはこの物語を前の3つの物語同様「譬え話」だと思っているようだが、この内容から考えて、単純に「譬え話」といえるのかどうか疑問が残る。

2.「最も難解なたとえの一つ」とされる
本当に難解かどうか、先入観なしに読んでみる。まず、新共同訳の「不正な管理人」のたとえというタイトルは、聖書には本来ないものであるから、無視する。そもそも「不正な管理人」というタイトルが先入観を与えるし、たとえという言葉も、これは譬えなんだという視点に立ってしまう。
イエスが弟子たちに語られた話である。登場人物は「ある金持ち」でその金持ちには一人の管理人がいたと言う。この「管理人」という言葉は「オイコノモス」つまり当時に社会で一般的であった「不在地主」の財産管理者という意味である。ある一定の地域(農地その他)を地主に代わって管理経営する立場の人間である。ここである人が地主に「あの管理人は財産を無駄使いしている」という告げ口があったと言う。この「無駄使い」という言葉は端的に「ばらまく」という意味で、必ずしも私物化して贅沢をしているという意味ではない。この「ばらまく」という行為も、それが事実がどうかということよりも、その事実をどういう視点から見るのかということで評価が変わってくる。国予算配分にしても、あるいは補助金の分配にしても、一種の「ばらまき」であり、そのさじ加減によって国の将来への方向付けがなされるし、社会的弱者への富の再分配という意味でもある。国だけではなく小さな組織であっても同様である。その意味で、かなりの部分が管理人にまかされていたのであろう。言うならば、地主は特別に強欲でない限り、一定の収入さえあれば、それで満足し、後は管理人に任されていた。
従って、地主に告げ口をした人間が誰か特定されていないが、管理人をやっかみ、不当な告げ口をした可能性が高い。地主も、そういう告げ口がなければ何も不満はなかった筈である。でも、そういう告げ口があった以上、一応管理人を呼んで、「会計報告書」の提出を求めたのであろう。この場合の会計報告書というのも特殊なもので、通常の会計報告書ではなく、後任者への引き継ぎのための書類である。だから、それを告げられた管理人は驚いたのである。つまり自分は地主から信頼されていないのだろうか。もしそうだとすれば解雇されることは確実である。そこで管理人は「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と考えたと言う。この文章をそのまま読むとこの管理人がいかに情けない人間なのかということが強調されている。ここにもかなり偏見が見られる。この「 自分を家に迎えてくれるような者たち」という言葉をほとんどの場合、これに続く話の筋から油や小麦農家を想像し、彼らに恩恵を施しておけば、そこに再就職することが出来ると考えたと解釈してしまう。これがそもそも「不正な管理人」という偏見がもたらした改変である。管理人は「土を掘る力もない」、言い換えると肉体労働は出来ないと自覚しているのである。彼の頭にはそういうところに再就職することは考えていない。彼にとっては管理人という仕事意外のことを考えていない。
そうすると彼がなすべきことは地主の信頼を回復すること。たとえそれが出来なかったとしても、他の地主に管理人として採用されることであろう。そのために彼がしたことは、今まで以上にいい管理人としての仕事ぶりを示し、管理人としての評判を良くしておく必要がある。従って、その後の彼の行為は不正どころか、良い管理人としてなすべきこと、やり残していたことを仕上げることである。
管理人の仕事で最も重要なことは何か。それは地主と小作人との間を調整し、両方から信頼されることである。今、地主の目は厳しく彼を観察していることだろう。一寸でも変なことをすれば即解雇であろう。そこで彼がやったことは地主に対する小作人の負債を減らすことであった。つまり地主の小作人に対する貸付金がへることで、地主にしたら損失である。いったいこれはどういうこととなんだろう。こここの話が難しいところで、多くの誤解の原因となるピンポイントである。
問題はこの負債である。油百パトスとはどの程度の負債であるのか。いろいろ説はあるが新共同訳の付録によると1バトスが約23Lということなので100バトスというと2300L、1リッター瓶で2300本、これは莫大な金額である。これはもう日常の家計のために一寸借りたというような量ではない。不作の年などで一定の小作料が支払えないような場合、それが債務として残り、それに利息が加わり、積もり積もって膨大な額になってしまったというのであろう。「小麦百コロス」も同様であろう。この管理人はそういう負債を無理に取り立てなかったのであろう。そのような膨大な負債が残っているということ自体が管理人と小作人の優しい関係が示されていると思う。そもそも、そういう債務とは厳密にいえば地主のものではあるが、具体的には管理人と小作人との間の人間関係から生じたものである。あこぎな地主であるならば、それも厳しく取り立てたであろうが、普通の地主ならば大目に見ているものである。そこが非常に微妙なところで、管理人の「やり方」の問題である。もし管理人が自分本位で地主にいい格好をしようと思うならば、負債を厳しく取り立て、その一部、または全部を自分の懐に入れることも可能であったかもしれない。
ところが、この管理人はそれを取り立てるのではなく減額するという行為に出たのである。管理人の行為を注深く見ていた地主は、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)という。地主自身が褒めているのであるから、ここで話者であるイエスが「不正な管理人」という筈がない。また、「抜け目のないやり方」という訳語にも問題がある。ここでは単に「賢いやり方」という言葉が使われているのであり、口語訳聖書でも「利口なやり方」と翻訳されている。つまりイエスがこの話を語られたときは、「不正な」という言葉はなく、「地主はこの管理人の賢いやり方を褒めた」といわれたのであろう。おそらく、地主は管理人が辞職する準備として負債者の負債を減額するのを見て、あの悪意に満ちた告げ口の「ばらまく」という実態を知ったのであろう。この管理人が小作人たちの生活の実態や、天候不順による不作などについて十分な配慮をして管理をしていた。この管理人なら安心して任せられると思ったに違いない。管理人も立派であるがそれを認めた地主もまた立派である。
さてこれは「譬え話」であろうか。実はこういう農園経営が一般的で、その場合に「悪い管理人」もおれば、「良い管理人」もいる。悪い地主もおれば、良い地主もいる。イエスはここで、思い切って賢い管理人の話をすることによって、暗に悪い管理人を批判しているのである。この話を聞いた多くの人たち、がめつい地主や悪徳管理人に痛めつけられていた多くの人々は拍手喝采をして喜んだことであろう。この話はそういう話であり、イエスという人物はそういう話をする人であった。

3.誰のための話か
既に述べたように、この話をイエスが弟子たちに向かって語った物語として伝承されて来たものと思われる。ここでイエスは弟子たちに何を語ろうとしているのだろうか。答えははっきりしている。要するに弟子たちに、あなた方もこのような管理人になれと言っておられる。イエスの弟子がこの管理人のようになるということは、いったいどういう意味なのだろうか。もう少しこの管理人がほめられた意味を整理しておこう。
先ず第1に主人から、あなたのことについて悪意に満ちた告訴があったことを告げられたとき、そのことについて彼はいっさい弁解をしていない。 それだけ彼は自分の態度に自信があったし、主人に対する信頼もあったのであろう。あるいは、疑われつつその立場に固執しようとは思わない。むしろ、彼を信頼できないような主人の許では働きたくないという思いがあったのかもしれない。
第2に、そのことによってそれまでの生活態度を変えていない。これは推測であるが、彼が「主人の財産を無駄使いしているということの実態は、彼の権限範囲内のことで小作人たちに対してを寛容だったのであろう。そのために、他の地主たちや管理人たちから嫉妬されていたのかもしれない。だからこそ、彼は解雇される危機になったとき、今まで以上に徹底して小作人たちの立場を守ったのであろう。そう思う背景には彼は管理人という仕事に誇りを持っていた。
第3に、彼の仕事ぶりを見ていると、「油100パトス」の者には「油50」「小麦100コロス」の者には「小麦80コロス」としている。一律に2割引とか半分という訳ではない。つまり債務者の状況を考えて細かい配慮がなされている。地主はこの繊細さを見ていたに違いない。
第4に、彼が最も大切にしていた管理人という仕事は、主人に対してだけ忠実な僕となることではなく、あるいは小作人の立場に立って主人と争うというのでもない。まさに、両者の間に立って、両者の利益を守るということであったのだろう。
イエスが弟子たちに期待した理想の弟子像がここに示されている。
(1)自分自身に対する自信
(2)自分の仕事に対する誇り
(3)他者に対する細かい配慮
(4)調停者としての自覚
これはそのまま現代の牧師にも当てはまる。

4.困った問題
時代を経て、教会が成立し、農漁村を背景に形成されたイエスの弟子集団もエルサレムを中心にした都市型の共同体になってくると、この物語が持つ面白さが理解できなくなって来た。つまり教会の時代になると、イエスの話は正しくそのままに伝えられなかった。その最初の印が「不正な」という言葉を付け加えたものがいるということである。それに悪のりして「賢いやり方」を「抜け目ないやり方」と翻訳する日本人もいる。
この「不正な」という言葉を付加したのはかなり古いと思われる。イエスがこの話をされたのがだいたい30年台でルカがこの福音書を書いたのが80年代だとすると約50年経っている。その間に、その管理人は不正だと思った人がいたであろうし、むしろその方が多かったのかもしれない。それなら、そんな話は伝承しなければいいのに、だからマルコもマタイもヨハネも自分たちの福音書には入れていない。にもかかわらず、この話がイエスの話として伝えられたということは面白い。いや、むしろ、これこそイエスだと信じた人々が多くいたのであろう。そのために、これに対するいろいろな解釈が施されて来た。その最初の解釈が8節後半である。
「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。この句について先ず2つのこと。「この世の子らと光の子ら」、ここではキリスト者のことを意味しているものと思われるが、これは明らかに教会の時代のおそらくルカの時代の言葉であろう。従ってこの話の結論としてルカが付加したのであろう。もう一つは「自分の仲間に対して」という言葉。口語訳では「その時代に対して」と訳されていた。フランシスコ会訳では「自分と同時代の者に対しては」とやくされており、これが最も正確であろう。つまり、この世の子らはこの世においては、こんなに賢いのだから、光の子らはあの世にのことについては同じように賢くあれ、という「譬え」として解釈したのであろう。まぁ、それで何とか困難は克服できたようであるが、ルカ自身がそういう解釈では満足できなかったようで、9節以下にルカ以前のいろいろな解釈を羅列している。
9節「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。現代風に言うと「汚い金でもいいから、多いにばらまいて仲間を作っておけ。そうすればいつか役に立つ」ということであろうが、ここで「永遠の住まい」なんていう言葉を使うから変になる。要するにこういう考え方ではキリスト教の説教にならない。そこで、もう一つ付け加える。
10節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。この句は当時の教会に広く口にされた格言のようなものであるが、これではイエスの話とは逆な意味になってしまう。そこで、この解釈を少しひねって、11節を付加する。
11節「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」。このひねりは面白い。「汚い金をうまく運用できない奴にはきれいな金も任せられない」。つまり「汚い金をうまく運用する奴に、きれいな金の運用も任せろ」ということになり、もう倫理もけじめもなくなり無茶苦茶である。ということで、著者もハッと気づき、修正案を出す。
12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。これではただ主人に不正な管理人は不正なだけで、せっかくのイエスの話が台無しになってしまう。
13節はもう破れかぶれ、イエスの話なんかと全く関係なく、金についてのキリスト者の基本的態度を語る。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
要するに、これらの解釈はすべて、この管理人がしたことは「不正である」という前提から始まっている。問題はこの前提であって、語っているイエスは少しも不正だとは思っていない。




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